高校生は友の「交通死」をどう受け止めているか

千歳高校  前田敏章

ー「交通安全教育」の断面ー

職員室で「青春の灯」という表題の一冊の文集が回覧されてきた。札幌東警察署交通第一課編集、札幌東陵高等学校協力、札幌東交通安全協会発行である。内容は高校1年の学友を失った生徒たちが友の死と交通安全について考えた10人の文章が掲載されている。

文集の内容から、事故の概要は、1999年6月12日、横断歩道を青信号で渡っていた吉田理恵さん(高1)が左折してきたトラックに巻き込まれ死亡した ものである。同じように高校生の娘を歩行中に轢かれ殺された親として、この事故を高校生がどうとらえているのかという関心もあり目を通したが、そこには今 の交通安全教育の弊害が凝縮して表れており、暗澹たる気持ちになった。もちろん文集に寄せた生徒には全く責任がないしその内容を批判するものではない。

問題にしなければならないのは、今のクルマ優先人命軽視の意識構造をつくり上げてきた経済社会であり、そのことの指摘がほとんどない学校での交通教育のあり方である。

高校生の交通事故に対する認識は、社会的な思想形成の結果と、小中高での交通教育(「交通安全教育」)が集大成されていると考えられ、卒業後直ちにクルマ社会の構成員となるのであるからとりわけ重要である。

感じた問題点の一つは、重大な違反(もちろん犯罪である)をして命を奪った加害者に対する非難がなく、友の「交通死」をも偶然の事故として受け止めていることである。(そのような内容の文ばかりを選んだのであれば、編集意図など別の問題を指摘しなければならないのだが)

「交通事故は、何の前ぶれもなく私たちに襲いかかってくるのです」(p3)

「全てが偶然でした。いつも待ち合わせの5分前に家を出るが、その日に限って余裕を持って10分前に家を出ました。そのときたまたま右からの歩行者が多く、左からの友達に運転手が気づかなかったのです。」(p8)

「注意をするという気持ちをもって行動をしたとしても交通事故が起こってしまうのは仕方ないことだと思いますが、…」(p10)

次に感じるのは、今も続発する交通事故の要因についての認識が浅いことである。加害のクルマへの責任をあいまいにするから結果として、不幸な事故をなくすために『クルマも人も気をつけて』という心構えだけの指摘となる。

「実際に私たちが交通事故を防ぐ為に出来ることは、やはり注意する他ないだろう。自動車の運転者や自転車に乗っている側、歩行者側のそれぞれが注意して道路を渡ることが結局一番大切なことだと思う。」(p6)

先述したように、吉田理恵さんは交通ルールを守り横断歩道を青で渡っていて殺されたのである。しかし、学友の多くは呪縛のように「もっと気をつけて、交通ルールを守るべき」(p12他)と口をそろえる。

「車を運転しているのも人間です。機械が与えられた事を完璧にこなすのとは違い、完璧に何かをこなせる人間なんていません。それは運転も例外でなく、絶対 によけてくれるとはかぎらないのです。だから車によけてもらうのでなく、自分からよけるようにしなくてはなりません。」(p10)

凶器ともなりうるクルマを操作する運転者の責任、そして危険なクルマと人の混在を許す社会への指摘はなく、迫る危険に被害者としかなり得ない交通弱者で ある歩行者自らが責任を負おうとするこの卑屈さ。そしてこの倒錯した意識は、免許を取得して立ち場が変わると、たちまち傲慢なクルマ社会の構成員となるの ではないか。杞憂ではないと思う。 

1999年11月6日

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