講話記録「命とクルマ-遺された親からのメッセージ」(北海道白老東高等学校交通安全集会講話)

※ 以下は、2000年9月1日北海道白老東高等学校交通安全集会講話の記録をもとに補足し、小見出しを付けたものです

1 はじめに 1-1 自己紹介
1-2 将来のドライバーへのメッセージ
1-3 人対クルマを念頭に
2 交通犯罪 2-1 犯罪と事故 
2-2 軽く考えられている交通犯罪と命
2-3 「ジュウ」の話
3 クルマの危険性と安全性の限界 3-1 娘はどのように犠牲になったか
3-2 娘の無念さを思う
3-3 娘からの「問いかけ」
4 クルマの危険性と安全性の限界2 4-1 交通死の数をどうとらえるか
4-2 「安全なスピード」はない
5 交通犯罪と法律 5-1 遵法精神とは
5-2 交通犯罪に適用される法律
6 運転はどうしたらよいか 6-1 運転はプロに任せる
6-2 安全運転のプロに
6-3 安全な道路環境づくり
7 命はあがなえない 7-1 命はあがなえない
7-2 子どもはかけがえのない宝
7-3 連帯を
  資料1  関係法令  
資料2  「ジュウ撃ちのはなし」

1 はじめに

1-1 自己紹介

千歳高校定時制で理科を教えています。5年前ですが、高校2年生の娘を交通事故で亡くしました。昨年発足しました「北海道交通事故被害者の会」の代表を務めています。今日は「命とクルマ―遺された親からのメッセージ―」ということで、お話させていただきます。

1-2 将来のドライバーへのメッセージ

担当の先生に伺いましたら、3年の方は2学期の期末考査が終わったら、自動車学校への入校が可能でかなりの人が免許を取得されるとお聞きしました。
1、2年生も含め大半の方は将来ドライバーになられると思いますので、今日の私の話は、歩行中や自転車通学等における交通安全ではなく、今後免許をとり運 転者の立場になったときにどうするかという視点でお話をします。皆さんは、自分が免許をとることになったときのことを想定して、聞いていただきたいと思い ます。

1-3 人対クルマを念頭に

交通事故は、大きく分けると「クルマ対クルマ」と「人(自転車)対クルマ」の場合に分けられますが、今日の話は「クルマ対クルマ」の問題は脇に置いて「人 対クルマ」の場合を頭に置いて聞いていただきたいと思います。この二つを一緒にすると本質が浮き彫りにされません。なぜかと言いますと。
同じ事故でも、クルマ同士がぶつかり、物損で済む場合は、直したり、買い換えることもできます。笑って話せるケースもあります。しかし、人とクルマの場合はそうはいきません。ほとんどの場合、取り返しのつかない死傷事故、重大な人権侵害となるのです。
多くの人は笑って済ませる事故をイメージし、その死傷事故の悲惨さを想像できません。軽く考えてハンドルを握り、取り返しのつかない犯罪を起し加害者となってしまうのです。人はクルマを傷つけませんから、常に加害者はクルマの運転者です。
ということで、今日は、絶対に加害者にならないために考えてほしいことを話します。

2 交通犯罪

2-1 犯罪と事故

皆さんは犯罪というとどんな事件を連想するでしょうか。
社会的に問題にされている少年事件、最近では大分で起きた一家6人殺傷事件でしょうか。人間性のかけらもない保険金目当ての殺人事件も良く耳にします。

それでは、毎日のように新聞にも出ている次のような事件は犯罪でしょうか。これは8月18日、小樽で起きた事件です。
3歳の男の子とお母さんが横断歩道を渡り始めました。お母さんが押しボタン式信号機を押し、男の子は青になったので先に歩き出しました。そこに乗用車が突っ込んできて、3歳の男の子はお母さんの目の前ではねられました。ほぼ即死だったそうです。
もう一つ、今年1月に札幌で起きた事件です。信号に従って右折を始めた車に、信号無視、酔っ払い運転のクルマが突っ込んできて、助手席にいたお父さんが即死させられ、同乗していた家族2人も骨折等の傷を負いました。

もちろんどちらも犯罪です。3歳の子どもを轢いたのは、前方不注意という安全運転義務違反による業務上過失致死罪が適用されるでしょう。後の例では、信号無視に飲酒運転と悪質です。先月、懲役1年の実刑判決が出ています。
しかし皆さん、私たちの心の中に、クルマの事故は、ナイフや銃など凶器を振りかざしての犯罪とは少し違うという受け止めがないでしょうか。
実際に事故の当事者にならないかぎり、交通「事故」という何か日常の出来事として、一般的な受け止め方をしないでしょうか。

私自身も娘を失う前は、犯罪とは別のもの、何か悪意がなく、往々にして起こるもの、という軽いとらえ方が確かにありました。
しかし、娘を亡くし、回りの人から、もちろん悪気があってのことではないのですが「事故だから仕方ない」「運が悪かった」「早く気持を整理し元気になって」…。このように声をかけられたりするたびに、「違う」と叫びたい思いに駆られます。娘は安全運転義務違反という交通「犯罪」によって殺されたのです。気持の整理などつくはずはないのです。

皆さん、昨年12月に京都の小学2年生中村俊希君が校庭で何者かに切り付けられ命を奪われるという通り魔殺人がありました。この事件は、今年2月、その容 疑者が、任意同行を求めた捜査員を振り切り、団地の13階から飛び降り自殺した事が大々的ニュースになりましたので記憶にあると思います。

娘も俊希君同様、何の言われも過失もないのに一方的に命を奪われたのです。
先ほど紹介にあった「交通事故被害者の会」ですが、私は当初から「交通犯罪被害者の会」にすべきだと意見を言いました。今もそう思っています。事故という 一般的受け止めで、交通犯罪を軽く扱っていては、この種の事件は無くならず、被害をゼロにすることはできないと思うからです。

このことは、娘を亡くして以来、娘の死、犠牲について考え続けた末の結論です。娘は、クルマの利便性ばかりを優先し、交通犯罪を罪とは思わない今の日本の「クルマ優先社会」「クルマ絶対社会」の犠牲になったと思っています。

2-2 軽く考えられている交通犯罪と命

さて、私が今日皆さんに伝えたいテーマは、命とクルマです。「人命尊重」「基本的人権の尊重」、人間社会の大原則が、ことクルマ、交通事故に関しては、感覚麻痺に陥り、その侵害が横行しています。社会全体が病んでいると言っても良いでしょう。

皆さん同じ事故でも、航空機事故とか列車事故を考えて下さい。日航機墜落事故から10数年たちましたが、事故究明の努力が今も続けられ、再発防止に万全な 対策をとります。東京で起きた電車脱線事故もそうです。これが当たり前です。しかしクルマの場合だけはそうなっていません。毎日のように新聞報道されなが ら、いやあまりに日常的に起きるからでしょうか。ほとんどの人は、特別な犯罪とも考えませんから、違反や事故、そしてその犠牲は増えつづけています

ですから、私がこの場で、娘の交通死について語り、「悲惨な事故を起さないように、会わないように、皆さん気をつけましょう」と100万回言おうと、「か わいそう」「事故は悲惨だ」これだけの受け止めでは事態は変わらないと思います。この貴重な時間も無為なものになります。
またどこかで、「ついうっかり、不注意で」「ついスピード出しすぎで」「少しぐらいと飲酒運転して」「自分の技術なら大丈夫と慢心して」、歩いている人、自転車に乗っている人を轢き殺してしまうのです。
命とクルマ、これを同等には考えて欲しくないのです。皆さんには、クルマに対する見方を根本的に変えて欲しいのです。

2-3 「ジュウ」の話

皆さん、次のようなたとえ話を想像して見てください。
「ジュウが創られました。大変便利なもので、仕事や日常生活、そしてレジャーにも役立つので,18歳以上になったらほとんどの人がジュウを持つようになりました。
しかし、使い方の過ち、不注意などによってジュウによる事故が続発し、死傷者が年間100万人にもなりました。死亡者は毎年1万人を超え、そのうちおよそ 半数の5千人以上はジュウを持てない子どもやお年寄りが流れ弾にあたったりして亡くなりました。怪我の多くは頭に受けるため脳に傷害を持つ人も多くなりま した。
しかし多くの人は、ジュウは便利だし、みんなが持ち、使っているので、事故を犯罪とも自覚せず使いつづけました。今現在も1日あたり15人もの子どもやお 年よりが一方的に、殺されています。同じくらいの数の人が、銃を持った人同士での事故で死亡し、若い人が自分のジュウで過って命を落とす事件も続いていま す。」

もうお分かりのように、「クルマ」を「ジュウ」におきかえたのですが、本当に銃だったら、無防備の歩行者や自転車に乗った人が、本来安全なはずの横断歩道 などで毎日15人、年間で5500人、を一方的に殺す、傷害を含めると22万人に達するという犯罪を、社会は放置するでしょうか。
交通安全運動の目標として「死者を9000人以下に」などと掲げるでしょうか。8000人までは良いのでしょうか。北海道のように「交通死全国ワーストワンを返上」が目標になるでしょうか。ワーストワンでなくて、500人以下であれば許されることなのでしょうか
新聞で、昨年より1名でも減れば、効果があがっているかのような報道があります。「2000年交通死、北海道331人(昨年同期294人)」2位愛知、3 位千葉」(北海道新聞8月29日)こういう記事が毎日載ります。昨年並みであれば良しとするのでしょうか。なぜ本気になってゼロを目標にしないのでしょ う。

もっと単純な例をあげます
もし加害者が「クルマ」でなく、「ル」を抜いて「クマ」だったらどうでしょう。
全国各地で人食いクマが出没して、毎日毎日交通弱者といわれる子ども、お年より、歩行者や自転車利用者を15人もかみ殺し、年間5500人を越す被害が出たという場合です。ただ「気をつけましょう」「昨年より減らしましょう」ということになるのでしょうか。
社会的に放ってはおかないと思います。ただちにクマを駆除するか、クマと遭わないような対策を講じ、被害をゼロにするため全力を尽くすのではないでしょうか。交通事故の場合だけは、そうはなっていないのです。

雪印乳業の食中毒事件で1万5千人もの人が発症しました。幸い直接の死亡者はいません。でもただちに全工場が点検され、営業停止の工場も出ました。
なぜクルマは安全に使われていないのに、車輌や、道路、そして運転者の問題が全面的に点検されないのでしょう。
効果があがっていないスローガンがお題目のように唱えられているだけです。それも、「シートベルト着用」などクルマに乗っている人を守るスローガンに偏っています。

事故件数と負傷者数は史上最悪を記録しています。死者数は救急救命体制の進歩もありわずかに減少した年もありました。しかしその分、脳外傷という新たな障 害が増えていることはあまり知られていません。(脳外傷:外から見たのではわからない認知、記憶、言語、情動など高次脳機能障害をひきおこす。働くことが 出来なくなる場合が多い)

どうしてでしょうか。先ほど言いましたように、こと、クルマによる犯罪については、社会全体が麻痺し、道徳の退廃、モラルハザードに陥っているからだと思います。もちろんこの人権無視の「クルマ優先社会」を作ってきたのは私たち大人であり、責任も私たちにあります。

私が皆さんに伝えたい事は、
① ある意味異常なクルマ社会であるということを理解して欲しい。
② その犠牲となって、轢かれたり、将来ドライバーになって加害者となったり、又無謀運転で自らの命を縮めたり、そういうことをして欲しくない、なって欲しくない
③ この異常なクルマ社会を、正常に戻し、安心して歩け、そしてクルマも運転できる社会を作っていく力になって欲しい、
そんな願いを持って、この場に立っています。

3 クルマの危険性と安全性の限界

3-1 娘はどのように犠牲になったか

いわゆる殺人事件であれば事件の詳細、その後の裁判の結果など、新聞やテレビで詳しく報道され、動機や事件の背景が論じられ、再発防止に動きます
しかし、私の娘の事件は、全ての交通犯罪がそうなのですが、3.5㎝×10㎝の小さな記事で済まされています。娘がなぜ、どのようにして犠牲になったのか少し述べさせて下さい。もちろんお話するのは同情してもらうためではありません。遺族にとっては、娘を返してもらう以外、もはや癒されるということはないからです。私たちが体験を語るのは、亡くなった者の犠牲を無駄にしたくない、事件を教訓にして生かしきって欲しいその一点だけからです。

長女は恵庭北高校の2年生でした。今から5年前の10月25日、午後5時50分、通学列車を降り、歩いて自宅へ向かう途中、後ろからきたワゴン車に轢かれ 即死しました。原因は運転者の前方不注視です。手数料のかからない6時までに銀行へ着かなくてはならないと急いでおり、正確な時刻を確かめようとカーラジ オのスイッチを入れ、ボリュームを調整したのです。しかし音が出ないので、今度はカセットのイジェクトボタンを押しました。この三つの動作の間、前を全く 見ていなかったのです。ブレーキを踏むこともなく、ワゴン車は娘を5メートルほどもはね飛ばしました。衝撃でワゴン車の前部はへこみ、フロントガラスはク モの巣状に割れました。娘は首と頭を打ち即死でした。
歩道のない道路で、脇は雨のためぬかるんで通れませんから、娘は道路の左端を赤い傘をさして歩いていました。見通しも良く、少し先には街灯もありましたか ら、運転手が普通に前を見て運転していれば、容易にハンドルを切って避けられたのです。あるいは、ここに歩道が設置されていればやはり命を奪われることは なかったのです。

3-2 娘の無念さを思う

このように、娘は運転手の前方不注視という重大過失で殺されたのですが、その日以来、1日たりとも娘の無念さを思わない日はありません。涙しない日もあり ません。自然災害によってとか、病気とたたかってというのであれば、あるいは納得の仕方があるのかもしれません。しかし、安全運転義務違反という過失、歩 道設置を後回しにした行政の手落ち、という人為的な原因により、その全てを一方的に失われた娘の無念さを思うといつも胸が張り裂けそうになります。この原 稿を作った一昨日も一人自分の部屋で声を出して泣きました。家族といる時は気持を張り詰めているのですが…。遺された家族の気持はどうしゃべろうと、どう 書こうと伝えることは難しいと感じています。しかし伝えなくてはなりません。

即死した娘が運ばれた病院での対面。それはベッドではありません、診察台に寝かされ、ほんのり暖かさは残っていましたが、目を閉じ、頭と耳から血を流し、 朝駅まで車で送り、「言ってらっしゃい」と送り出したきり言葉も交わすこともなく天国へ行った亡骸との対面でした。その情景は5年経った今もまぶたに焼き ついて離れません。あの日以来時間は止まったままのようです。
私たちの生活は一変しました。この日以来腹の底から笑ったこともありません。付き合いもあり、人前でいつも泣いてばかりもいられませんから、アハハと笑うことはありますが、心から楽しかったとか、幸せを感じたということは一度もありません。これからもありえません。
妹が一人いますが、私たちは4人が揃ってはじめて家族なのです。それまでの4人家族の団欒や、旅行や、キャンプや小さい頃の思い出など全ては、辛く、悲し く、そして悔しいものと変わってしまいました。ですから、その日以来アルバムも、8ミリも、ビデオも開いたり、見たりすることはできません。月日の経過が 癒してくれることはないのです。むしろ悔しさは募り、加害者への憎悪も増すばかり、世をはかなみ、気持の落ち込みは大きくなります。二女の存在だけが支え で、生きることに精一杯。妻も同じだろうと思います。

3-3 娘からの「問いかけ」

しかし私や家族がいくら辛くても、娘の無念さには比べられないといつも思い直します。
私は毎日手を合わせる仏前で「安らかに」と声をかけることはできません。娘から常に「なぜ私が、こんな目に遭わなくてはならなかったの?」「私がその全てを一方的に奪われた犠牲は報われているの?」と問いかけられているような気がしているからです。

遺された親として、その問「なぜ、どうして」「犠牲は生かされているの」に答えなくてはと思います。娘が亡くなった後、そのことが教訓にされ、例えば歩行者事故をただちにゼロにする方向に社会全体が動き始めたというのであれば納得の仕方もあるのかもしれません。
事故のあった現場には直ちに歩道が設置されました。しかし、他の道路全てが歩行者の安全のために点検され、歩道設置など安全施設の整備が推進されたという わけではありません。依然として歩行者の被害は多く、青信号で横断歩道を渡っていても運転手の不注意でひき殺されたという犯罪すら後を絶ちません。そして 社会的には、やはり「事故だから仕方ない」、もし遭えば「運が悪かった」そういう言い方しかされていないのです。これでは天国の娘は浮かばれません。

私たち被害者は、このように人の命を軽く扱い、人権侵害の日常化に何ら問題を感じない異常なクルマ優先社会に対して、先ず被害者自身が声をあげなくてはと 考え、会を結成し、交通犯罪を軽く扱う、捜査や裁判のありかたの問題、そして何より同じ犠牲を繰り返させないための活動を始めました。
私は娘の無念さを考えれば、どんな辛さにも耐えなくてはと思っています。その犠牲を無にせず、交通犯罪を絶滅するための仕事を、やり抜きたいと思っています。
痛みや理不尽な仕打ちを受けたものが、その痛みを他の人に繰り返させないために何かを遺す事は、痛みを受けた者の使命ではないかと考えています。このことが、娘の死を無駄にしないこと、娘と共に生きることであり、天国の娘も、そのことを一番望んでいると思います。

私が皆さんに伝えたい事は、まだまだたくさんあります。しかし時間の限りもあります。残りの時間では、異常なクルマ社会の中で、それでは運転はどうしたらよいのかについて一緒に考えていきたいと思います。

4 クルマの危険性と安全性の限界

4-1 交通死の数をどうとらえるか

一つは、交通事故による犠牲の数をどうとらえるかということです。
皆さん、年間死者数1万数千人ですが、この背景に約100倍、100万人の負傷者がいるということ、先ずこのことを考えて下さい。
そして、死者1万数千人というのは、例えば人口23000人のここ白老町が2年で消えてしまう。そういう大変な数なのです。
世界全体ではどうか。なんと1年で50万人が亡くなり1000万人が傷ついています。
これは隣の、人口17万人の苫小牧市のような中核都市が毎年世界で3つずつ消えていくという数です。そのうちおよそ半数は歩行者や自転車が一方的に殺される場合です。

これが交通戦争と言われる実態ですが、爆弾投下などの戦争被害に比べ、この交通戦争の残虐性や非人間性は、先ほど述べたようによく理解されていません。

4-2「安全なスピード」はない

次に、皆さんにお聞きします。乗用車が誤って人に衝突したとき、決して他人を傷つけたり、殺したりしないスピードはどのくらいと思いますか。

私も30キロくらいかなと思っていましたが、実は時速0.9キロなのです。歩く速さは時速4キロですから本当に遅いスピードです。人の20倍から100倍 の質量をもつ、1トン以上の鉄のかたまりがもつ破壊力(運動エネルギーは質量×速度の二乗)ですから、頭など打ち所が悪ければ死に直結するわけで、このよ うな計算になるのです。つまり、安全なスピードはない、漫然運転すればどんなスピードでも人を殺傷する危険な道具がクルマです。実際に事故件数の6割は制限時速以内で起きています。

残念ながら、現在のクルマや道路環境のままでは、クルマは大変危険なものと言わざるを得ません。ある意味では販売されている商品としては欠陥商品に入るのかもしれません。こんなたとえはどうでしょう。多くの家庭に普及している灯油ボイラー。家庭や事 業用のボイラーが年間1万件の死亡事故を起し、怪我をする人は100万人。このようなことになればこのボイラーは欠陥品として直ちに回収でしょう。

クルマはその有益性と危険性が裏表の関係にあります。例えば
●クルマを使用する目的はスピードです。しかし、そのスピード自体が危険なものであり、目的地へ1分でも速く着きたいという急ぐ気持が、ただちに事故につながります。私の娘を轢いた加害者のように
●クルマはドアからドアまで移動可能です。このため、昔はクルマが入ってこなかった路地、生活道路まで我が物顔で入り込み、子どもやお年寄りを恐怖に陥れます。
● クルマがつくる密室性は、犯罪の道具にもなっています。
しかし売る側のメーカーは、当然かもしれませんがこうした危険性は隠し、速さと格好よさだけを強調します。例えば最近気になるトヨタのコマーシャルがありました
ハンマー投げの室伏選手の映像を出し、「自分にはこんなパワーもスピードもない」。次に格好のよいクルマが表れ、「drive your dream」。クルマに乗ればパワーとスピード、格好よさを自分のものに出来ると宣伝します。ターゲットは若者です。
危険性と安全面での限界のあるクルマをスポーツ感覚で使用するなどとんでもないことです。スポーツとしてのクルマはレース場だけに限らなくてはならないのです。

5 交通犯罪と法律

5-1遵法精神とは

このように危険なクルマですからその使用には資格が必要で、厳格な制限もあります。
そこで皆さんに改めてお聞きしますが、交通法規は何のために守るのでしょうか。運転者の立場で考えて下さい。

「事故を起したら困るから」「捕まったら罰金がある、点数が引かれる」「賠償が大変、裁判も」などいろいろ考えるでしょう。しかし最も大切なのは何でしょう。 それは、法律条文の中に被害者と加害者がいるという背景を考えること。この法律を守らなければ誰かがまたあの時のように傷つく、そういう思いを全ての人が感じること、そこに法律が作られた意味、すなわち法律を守る意味があるということです。これが遵法精神です。
その意味で、安全運転義務の重さをわかっていただくために、私はここで、多くの被害者を代表して皆さんにお話しています。

5-2 交通犯罪に適用される法律

さてそれでは、故意ではないとはいえ、違反を犯し、あるいは人を傷つけた場合日本の刑罰はどうなっているでしょう。

交通犯罪には、業務上過失致死傷罪を定めた刑法211条が適用されます。最高5年の懲役(労役に服し、刑務所内に拘置される刑)、もしくは禁錮(労役は課 せず、刑務所に拘置)となっています。私の娘の加害者も禁錮1年です。他の犯罪に比べ不当に軽い刑罰とは言え、犯罪人となるのです。裁判では被告席にたち 尋問を受け判決を受けるのです。
被害者の会の関係で、私はこの4月以来、月3回平均で裁判傍聴をしていますが、罪の意識を持たない加害者に毎回腹立たしさを感じます。裁判の中で被害遺族 が、加害者を死刑にしてくれと必死に訴える姿も見ました。私もそのような思いを文書で提出しました。加害者に対しては殺してやりたいという気持が募るばか りです。

7月3日、札幌市清田区で、歩道をふさいで駐車したワゴン車を避けて車道にでた自転車の小学2年生が轢かれ意識不明の重態という記事がありました。駐車違反も重大事故の原因となります。しかし、残念ですが私たち大人の多くは、交通違反や事故に、笑いながら「つかまってしまった」「事故ってしまった」と交通法規が重大事故を避けるために定めたことを全く忘れてしまった会話をします。

違反や犯罪を軽く考える土壌には交通犯罪に対する刑罰の軽さもあります。例えば私の娘をひき殺した加害者は禁錮1年ですが、執行猶予がつきました。この刑罰は、10万円相当のバイクを盗んだ罪よりも軽い刑です。数日前の道新記事によると、偽5千円札を収得し行使した罪で懲役3年6月が求刑されています。こんなにも命が死に至らしめた交通犯罪が軽く扱われているのです。

しかし、最近、「交通犯罪は厳罰にすべきである。酒酔い運転など悪質な犯罪には殺人罪を適用すべき」と言う論調も多く聞かれます。(7月13日朝日新聞の「論壇」)私も全く同感です。

このように、クルマは危険なもので、一つ間違うと人を傷つけ罪人になります。しかし現在のところ、仕事や生活に不可欠という人も多いと思います。就職の条 件に運転免許をあげている企業も少なくありません。運転しないわけにはいかない人も含め、このクルマとどう向き合っていけばよいのでしょう。

6 運転はどうしたらよいか

6-1 運転はプロに任せる

一つは、運転はプロに任せて、自分はハンドルを握らないという選択もあるということです。
これには、都市部だけでなく郡部においても、クルマがなくても支障なく生活できるように鉄道やバスなど公共交通機関の整備が必要ですが、現在のように免許やクルマを持たなければ何か取り残されているかのようなおかしな風潮は変えなくてはなりません。

6-2 安全運転のプロに

クルマを運転するのであれば、安全運転のプロになり切ることだと思います。スピードを出す技術や格好良く走る術ではなく、クルマの危険性とその限界性を十分に理解し、安全運転の技能を身に付けた専門家=プロになるということです。
歩行者と隔離された飛行機や列車のパイロットや運転手にも厳しい資格条件が必要とされています。レールのない生活道路を走る運転手はもっと厳しい資格や免許条件が必要です。現在のように「素人」に誰にでも与えられるような免許制度は危険すぎます。

クルマのハンドルを握ると言うことは、例えば、お医者さんがメスや薬を使うのと同じように,他人の命やからだに直接かかわる行為なのです。「つい、うっかり」などということは絶対に許されないのです。

そして歩行者、自転車、子どもお年寄りの保護、安全を第1に運転しなければなりません。
子どもは何かに夢中になって急に飛び出したりと、判断力や知覚が未発達だから子どもなのです。お年よりも判断力や運動能力が衰えているから社会全体で護ってやらなくてはならないのです。
クルマに対する考え方を根底から変えるべきです。速く、格好良いものでなく、速く行くなら電車やバスを選び、歩行が困難な子どもやお年より、病人や障害者 のために有益なもの。ゆっくりだが、ドアからドアへ雨にもぬれないで、荷物も運べて便利なもの、そう考えたらどうでしょう。

6-3 安全な道路環境づくり

しかし皆さん、ハンドルを握る全ての人が安全運転のプロになり、細心の注意で運転する、これで事故はゼロになるでしょうか。実は、これにも限界があるので す。ヒトは一生懸命緊張し注意すれば、必ずその分疲れます。疲れによって注意力が散漫になり、様々な錯視、錯覚の原因ともなります。
すなわち生身の人間の注意力だけに依存しない安全施策が必要ということです。

例えば、クルマと生活空間を隔離した歩車分離を実現すること。クルマと人が出会うところでは、運転を過っても、防護柵などの安全施設護る。さらに、住宅地 など生活空間では、スピード乗り入れやスピードの制限をすること。こうした二重三重のバリアで弱者を護る安全な街や道路環境を作ることです。
「気をつけましょう」「注意しましょうという」という、心構えだけを強調する安全運動では事故は無くなりません。既にヨーロッパのいくつかの都市では自動 車文明にたいする価値観の変革が言われ、歩行者や自転車中心の街創りが始まっています。日本でも確実にその考えが主流となる時代がくると思いますし、そう しなくてはなりません。

7 命はあがなえない 

最後に二つのことを強調したいと思います。

7-1 命はあがなえない

「命はあがなえない」ということです。「かけがえないのない命」ですから人の命を絶対に奪ってはなりません。(近代市民社会の大原則は、他人の生命や安全を侵さない範囲で市民的自由が保障されているはずです。)
「だから自動車保険に入る」これは良いでしょう。しかし誤って死亡させても、その後示談など全て保険屋が代行する制度。これはどうでしょう。これが昂じて 「保険に入っているから、無茶な運転をしても、不注意で人を殺めても心配がない」このように安易に考える風潮にはなっていないでしょうか。命を何かお金や もので償えるものと錯覚に陥ってはいないでしょうか。

私は本当におかしいことだと思います。他人を自分の不注意で殺し、あるいは傷つけたときのためにお金を掛ける、貯蓄する制度が存在することです。これは、一番大切な人間性の破壊、道徳の退廃につながってはいないでしょうか。

7-2 子どもはかけがえのない宝

二つ目は、親にとって「子どもはかけがえのない宝」であるということです。失っていっそう分かるので、私は皆さんのご両親に代わって言いたいのです。クルマを暴走させないで下さい。決して自らの命を粗末にしないで下さい。
そして、みなさんも近い将来父親や母親になる時がきます。子どもが外に出るたびに「クルマに気を付けて」と送り出し、帰るまで心配しなければならない、こ んな社会のままで良いはずがありません。だれもが安心して歩ける社会、人とクルマが共存できる社会を創るために共に手を携えて行きたいと思います。

7-3 連帯を

私は、娘の死を無駄にしたくない.娘と共に生きるという一心で、社会にはたらき掛けたいと考え,今年2月にホームページを開設しました。「交通死―遺され た親の叫び」というページですが、「叫び」で終わらず、いかにして交通犯罪をなくすかを主眼にしたページです。機会があればアクセスしてください。ヤフー で「交通死」を検索すれば「交通死―遺された親の叫び」が出てきます。みなさんとの出会いがここだけで終わらず、インターネットなどを通して、共に考え行 動する連帯ができたらうれしく思います。

これで私の話を終わります。最後まで良く聞いてくれて本当にありがとうございました。

資料1   関係法令
刑法211条「業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させたものは、5年以下の懲役、若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する」
道路交通法70条(安全運転の義務)「車両等の運転者は、当該車両等のハンドル、ブレーキその他の装置を確実に操作し、かつ、道路、交通および当該車両等の状況に応じ、他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転をしなければならない。」
※ 刑法199条「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは3年以上の懲役に処する」
※ 「未必の故意」:行為者が、罪となる事実の発生を積極的に意図・希望したわけではないが、自己の行為から、ある事実が発生するかもしれないと思いながら、発生しても仕方がないと認めて、行為する心理状態。故意の一種(「広辞苑」第四版)
※ 「未必の故意も故意の一種であり…故意犯の責任条件として十分である」(『新法律学辞典』(第三版有斐閣)
資料2 「ジュウ撃ちのはなし」
むかしむかし、ジュウというものがあったそうだ。撃てば、何千キロ先までも行ったそうだ。当時ほとんどのオトナたちは趣味と実益をかねて、道でジュウを撃 ちまくっていたということだ。運の悪い者はジュウにあたって、死ぬかけがをした。しかしそのことを大変なことだと思ったり、危ないからやめさせようとはだ れも思わなかった。なぜならジュウを撃つことはオトナにとって何より楽しいレジャーだったし、仕事や日常生活に利用できるという実益もあった。またジュウ 製造メーカーや関連産業が潤うことは国の大きな利益にもなるからだった。
ところで、ジュウを撃つには免許が必要だった。だれもが、われもわれもとジュウを撃つことのできる権利を求めるものだから、十八才以上のオトナのほとん どの者がジュウと免許を持っておった。一度それらを持つといつでもどこでもジュウ撃ちができるというものだったから、手放すことなどだれにもできはせん かった。そのためにある国では1億2000万の人口のうち、100万人の人がけがをして1万5000人の人たちが1年間のうちに死亡したんだそうだ。そこ でオトナたちは、頭をひねって考えたんだが、「ジュウは危ないからやめよう」とか、「ジュウを持つ免許の基準を厳しくしよう」とか、「ジュウを使える場所 を縮小しよう」とは、言わなかった。つまり自分たちの不利になることは何も言わず、そのかわりにジュウにあたって真っ先に被害をこうむる子どもや老人に向 けての「戒め」を「教育」と称して施すことにしたんだ。
たとえばおおぜいの子どもたちの前でわざと人形をジュウで撃ってみせて、その残虐性をいやというほど目に焼きつかせるようにしたり、学校に行くときはロ ボットのように一れつになって歩き、ジュウのとんでくる道にとびだしたりふざけあったりしてはいけないと教えたり、ジュウにあたったときのために血液型の 書かれた名札を胸につけさせたり、傷害保険をかけさせたり、ヘルメットをかぶることを義務づけたり、夜の暗いところでジュウ撃ちが誤ってジュウをあてない ようにするために光を反射するシールをつけさせたり、白っぽい目立つ服を着るようになどと指導することだった。それほどまでにしても子どもや老人はやはり ジュウにあたって死んだりけがをしたんだが、オトナたちはあいかわらずジュウを撃つことをやめず、そのかわりにもっと厳しく「教育」を徹底させることを国 を挙げておこなうことにしたんだそうだ。
いっぽうジュウ撃ちのなかには乱暴者もたくさんいて、決められた規則を守らないばかりかわざと規則を破って得意になっている者や、誤って一度に何人もの 人を死なせてしまう凶悪な者もいたんだが、そういう人間は刑務所に入れられてもみんながやっていることなのでさほど罪の意識を覚える事はなかったそうだ。 ときには裁判で、ジュウにあたったほうが悪いという判決が下されて、刑務所に入ることさえないジュウ撃ちもいた。だから趣味と実益をかねたジュウ撃ちは衰 えるどころかますます盛んになって、その国の、いや世界中の常識的行為とさえなっていたというんだ。
もちろん子どもたちはジュウのとびかう危ない道で遊ぶことなど、数十年もの間なくなってしまっていた。かりに道で遊んでいる子どもがいたとしたら「ジュ ウにあたるから危ないぞ」というオトナはいても、ジュウ撃ちに向かって「子どもの近くで危ないジュウを撃つな」と言うオトナはほとんどいなかったそうだ。 国や地方のお役所はジュウ撃ちのために家や畑を買収して道や広場をつくったり、ジュウが障害なく速くとんで行くようにと道を整備し続けたそうだ。これは、 二十世紀も終わりのころの話なのだがな。
( みた なおみ 詩集「道はいつも戦場だ」(杉並けやき出版1998年)より)
※ 三田直水さんは「クルマ社会を問い直す会」の代表を務めています

参考にさせていただいた文献
「クルマ社会と子どもたち」 杉田聡/今井博之著 岩波ブックレット
「クルマが優しくなるために」 杉田聡著 ちくま新書
「道はいつも戦場だ」 三田直水著 杉並けやき出版

実践・REPORT一覧へ戻る

top