京大病院エタノール中毒死事件・両親手記 20

                                     藤井 省二(2008/01/06)



控訴審、M教授証人調べ

 「質問されたことだけに答えて下さい」。昨年8月27日、大阪高裁控訴審・第3回口頭弁論(証人調べ)で、法廷に立ったM教授(当時の京大病院医療問題対策委員長)は、裁判長から何度も注意を受けていた。自らのペースに持って行きたかったのか、生来の性格なのかは判らないが、訊かれたこと以外に実に多くを語っていた。

 事件当事者であるH医師らは、一審証人尋問で、最小限の供述に止めようとしているのが原告席にいて見て取れた。多くを語れば事故後に練り上げたシナリオのほころびが大きくなるからであろう。だが、法廷のM教授はというと…。事故・事件の重大さ、命の重さを全く認識していないとしか思えないM教授の態度や軽い発言には強い憤りを感じながらも、その供述からは、当事者でないことの油断も手伝ってか、いくつもの矛盾が見られ、病院・医師らの事故に対する姿勢をもはっきりと知ることができた。M教授の証人尋問は、真相解明(事故隠ぺい解明)に大いに意味のあるものとなった。


「いずれこれは訴訟になるだろう…」

 2000年3月2日18時頃、病院長補佐であるK教授室での会議には、N教授(小児科長)・H医師(担当医)・Y看護師長・事務方2〜3名と、医療問題対策委員長であるM教授が召集された。病院長出張中で不在の中、病院執行部と等しいメンバーが集まり、また病院長とは電話で相談もしており、病院全体としての方針決定をする重要な会議であったことは明らかである。

 M教授は尋問の中で、(K教授室での会議に)「呼ばれた時に思ったのは、まあいずれこれは訴訟になるだろうと、だから今のうちから聞いといてくれやという感じだった」、(訴訟があるかもしれないと直感で)「思いました」、「いずれ訴訟になった時に回ってくるだろうとは思いました」と述べている。

 M教授の証言は、消毒用エタノール誤注入の影響をH医師ら会議の出席者が認識していたことを証明している。H医師らが言うように、エタノールの影響はないというのであれば、「訴訟」などという話はどこからも出てこないはずである。

 会議は事故発覚の翌日夕刻のことである。何も知らない私達は病室で友人達と、沙織を見守っていた。生きようと、沙織は全身で頑張っていた。そのさなかに京大病院は、患者そっちのけで、訴訟をにらみつつ会議を始めていたというのだ。さらには京都大学・医師らの訴訟代理人であるU弁護士もこの会議から関与しているのである。M教授の「訴訟」の発言に、病院・医師らの事故からこれまでの、不誠実としか感じられない対応の全てに頷くことができた。被害者の誰もが訴訟など起こしたくて起こしてはいない。起こさざるを得ない状況にしているのは他ならぬ病院自身ではないか。

 尋問後に提出された京都大学・医師ら第2準備書面(最終書面)では、予想通りこの点に関しては全く触れていない。自分たちに不利なことは無視してスルーするのが彼らのやり方だ。


「急性心不全でいいのではないか」

 会議の途中で沙織は息を引き取った。

 H医師が虚偽有印公文書作成・同行使容疑で書類送検に至った死亡診断書の記載に関してM教授は、「急性心不全でいいのではないか」とH医師にアドバイスした記憶はないと法廷で証言している。

 しかし、H医師は事故後間もない時期から、「『死因は敗血症性ショックでいいですか』と3教授に尋ねたところ『急性心不全でよいのではないか』との指摘はありました」、「M教授から急性心不全という言葉が出ており、病院の上層部の意見に従って記入した」、「死亡診断書の直接死因の欄に急性心不全と記載した理由は … K教授の部屋での話し合いの席で、M教授からそういった指摘があったからです」、「(M教授からは) 死亡診断書に書いていた急性心不全でどうかというようなアドバイスがあった」などと供述している。

 H医師の供述は事故直後から一貫しており、何よりも当時助手であったH医師が、たとえ他科とはいえ、教授に対して名指しでありもしないことを供述するとは考えられない。死亡診断書の指示に関する限りにおいては、H医師の供述が事実であろう。

 尋問でM教授は、「(急性心不全でいいんじゃないですか、と)言った可能性もあるということですか」の質問に、「まあでもそれは別に矛盾を感じなかったからそういうふうに言ったと思いますけど。言ったとすればですよ」、「それはあるかもしれませんね、H先生がそこまで言われるんであればですね」と、自ら急性心不全を指示した事を認めるかのような供述をするなど、その証言は揺れに揺れている。自己保身、組織防衛・かばい合いの振り子が右に左に揺れている様子がよく分かる。

 この点について京都大学・医師ら第2準備書面(最終書面)では、H医師・M教授両者の供述は符合していないが、両者の立場の違いから受け止め方や記憶に差異があっても不自然ではなく、H医師の記憶誤りの可能性もあり、M教授ではなくK教授が急性心不全と述べた可能性もある、などとしている。責任の分散・希薄化なのか、実に見苦しい弁明だ。


「病死及び自然死」

 沙織の死に消毒用エタノール誤注入の影響があったことを、H医師はじめ会議のメンバーらが認識していたことは明らかである。死亡診断書にある「急性心不全」「病死及び自然死」が虚偽記載であることも今更言うまでもない。4名の医師(うち3名は教授)が死亡診断書の正しい書き方を知らないわけはない。ましてやM教授は、「医療事故についてはすでに係争中の訴訟への対応が主な業務」とする医療問題対策委員会の委員長である。死亡診断書の死因の種類は「病死及び自然死」ではなく、「外因死」又は少なくとも「不詳の死」にしなければならないことを十分認識していたはずだ。

 K教授室会議においては、沙織がエタノールの誤注入が原因で死亡したことを認識しつつ、今後の対応策を検討していたと考えるのが自然である。そうでなければ、M教授の口から「訴訟」の言葉は出てこない。事故死を隠ぺいするために、死亡診断書にはエタノール誤注入の事実を記載せず、死因の種類を「病死及び自然死」と記載したことは明らかである。


「病院の中で亡くなった方が異状死になるという発想はなかった」

 会議では警察への届け出の話は一切なかった、と述べるM教授は、「病院の中で亡くなった方が異状死になるという発想はなかった」と信じ難い証言をしている。京大病院で医療ミスはあり得ないとでも思っていたのだろうか。病院内における死亡は全て「病死及び自然死」であると当たり前に考えていたのだろうか。国の直轄医療機関である京都大学医学部付属病院の、教授の言葉とは思えない。

 エタノール事件の前年1999年においても警察への医療事故・事件の届け出件数は41件ある。会議では法律の専門家U弁護士にも電話で相談している。そして、M教授は訴訟対応が主な業務とする医療問題対策委員長でもある。異状死なる発想はなかった、など到底信用できるものではない。

 異状死があった場合、警察への届け出義務がある。異状死ガイドラインによると、異状死とは、「外因による死亡」の他、「外因と死亡との間に少しでも因果関係の疑いのあるもの。外因と死亡との因果関係が明らかでないもの」も含むとされている。M教授の供述どおり会議において、エタノール誤注入と沙織の容体・死との間に因果関係が不明であると考えていたとしても、死亡した場合は異状死にあたり、警察へ届けなくてはならない。

 H医師は会議で初七日頃に家族に報告することに決まったと証言していたが、これまでにも述べてきたように、初七日の報告では沙織は荼毘に付した後で証拠は残っておらず、事故死の事実は間違いなく闇に葬られていたであろう。そして、初七日の報告からは、医師らは警察への事故届けの意思は全く無かったことを意味する。それなのに、その京大病院が、死亡翌日の3月3日夕刻、警察に異状死届けを出すことになる。

 3月3日午前11時30分頃、「都立広尾病院院長ら書類送検」のニュースがテレビで大きく報道された。院長・医師・看護師・都衛生局副参事ら9人が、業務上過失致死、虚偽有印公文書作成・同行使、証拠隠滅容疑に加え、医師法違反(24時間以内の異状死体の届け出義務違反)でも書類送検されたのだ。

 このニュースを見たN事務部長が警察への異状死届けを決定した。N事務部長の説得に、H医師は事故届けを「渋った」と証言している。H医師にとって警察への届け出だけは避けたかったことが強くうかがえる。そして、刑事事件として捜査が始まり、司法解剖の結果、死因は「急性エタノール中毒」と断定された。


H医師、偽りの主張

 都立広尾病院の事件報道に関連してだが、病院が警察に異状死届けをした直後の16時にH医師とY看護師長が自宅を訪れ、私達は初めて事故の事実を知った。この自宅訪問に至る経緯でH医師は私達にすぐに判るウソの主張をしてきた。事故から1年後の事故説明会で最初に耳にし、訴訟になってもその主張を変えようとはしなかった。

 「3月3日午前11時頃原告方へ電話をかけたが、原告省二から『12時頃にもう一度かけて欲しい』と言われたため、昼頃に電話をかけ直したところ、ようやく同日午後4時頃の面談約束を得ることができた」という内容だ。私がH医師の電話を受けたのは正午12時頃の一度きりである。その後、私からかけ直し午後4時の約束をした。

 H医師がなぜ事実を曲げ11時頃に電話をかけたと主張するのか、その疑問はすぐに解けた。H医師は、自分達は事故を隠すつもりなどなく、都立広尾病院の事件報道とは関係なく報告するつもりでいたと主張したく、最初に電話したのは報道より前の11時頃であったと固持し続けたのであろう。たかが1時間の違いであるが、都立広尾病院の事件報道の前と後では、事故報告の意味するものが全く違ってくる。

 長い一審の終盤、私達原告の証人尋問を前に提出した陳述書で、私はこの時の様子を、H医師から午前11時に電話がつながる状況にはなかったことを詳述した。すると、その後に出てきたH医師らの最終準備書面は、「午前11時頃電話をかけたが、約束が取れなかった(話し中のため、電話がつながらなかったものと認められる)ので、昼頃に再度電話をかけ…」と、その主張は変わっていた。ウソを認めるわけではない。「電話がつながらなかったものと認められる」たったそれだけである。つながらなかった受話器から「12時頃にもう一度かけて欲しい」とH医師の耳には聞こえたとでも言うのだろうか。

 H医師のウソは明らかになったが、京大病院・医師らの主張は全てにわたりこの調子である。「隠す・ごまかす・逃げる」事故隠ぺい体質そのものである。病院や医師は事実を曲げてまで自分達を正当化する。ひとつしかない真実をどう立証するかに膨大なエネルギーを費やす作業の繰り返しが裁判なのかもしれない。


司法の判断は…、1月31日判決

 M教授の証言には、H医師らの供述と完全に相反するものや、矛盾する供述が多数ある。それぞれが真実を述べているのであれば矛盾は生じない。真実を隠し、歪めた供述を繰り返した結果である。矛盾する数々の供述の向こう側に真実が透けて見えてくる。京大病院がエタノール誤注入による沙織の死を組織的に隠ぺいしようとしてきたことが、M教授の尋問結果からより一層明らかになった。

 1月31日、控訴審判決。司法の力で正義が実現されることを期待する。


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