京大病院エタノール中毒死事件・両親手記 18

                         藤井 省二(2007/03/15)

              司法の不条理な真実


京都地裁判決

 「判決が必ずしも真実ではないとあらためて思い知らされた」、判決後、記者会見でのお母さん(沙織母)の言葉だ。
 一審京都地裁判決(06.11.1)は、医薬品確認義務を怠った看護師らの責任のみを問い、看護師長らの薬剤管理責任も、病院ぐるみの事故隠ぺいも不問とした。
事故・事件の問題の本質に踏み込むことはしなかった。公正を欠いた、結論先にありきの、真実とは程遠い判決である。


看護師長らの薬剤管理責任

 判決は、「医療現場において、医薬品の取り違えの危険性は常に存在するうえ、担当の看護師らが精製水タンクとエタノールタンクとを取り違えること、また、本件エタノールタンクが誤って(病室内に)持ち込まれることについて、
予見することが社会通念上困難といえるほどの事情は認められない」として、誤注入した後続看護師らの確認義務違反を認めている。当然の判断である。

 しかしながら、看護師長らの薬剤管理責任については、「看護師らがエタノールタンクのラベルを見れば容易に識別がつき、事故が生じなかった。・・・看護師長らは、看護師らがタンクを取り違え、エタノールを誤注入することを
具体的に予見することは社会通念上困難であった」として、その責任を認めていない。

 明らかに矛盾しており、裁判所の判断がいかにいい加減なものかが判る。

 更に、「エタノールタンクのラベルを識別するための措置やそれに対する注意喚起まですべき法的注意義務はなかった」として、全ての責任を個々の看護師の確認義務に負わせている。小児科病棟の薬剤管理が杜撰であったことは証拠からも明らかとなっている。何のための管理責任者なのか、現場の看護師らに過剰な負担を強いるだけである。事故後、看護師らは安全管理の問題に声を上げ、病棟は事故当時に比べずいぶんと改善した。裁判所の判断は、こうした医療改善の動きをも後退させかねない。

 そして、事故当日の病棟に滅菌精製水が1本もなかった点については、判決は何ら判断していない。


医師らの過失

 医師らが主張する敗血症性ショックは、司法解剖の結果において否定されている。にも拘わらず判決は、「敗血症性ショックを否定することまではできない」と認定している。判決は、客観的証拠である司法解剖結果を完全に無視し、医師らの主張(H医師自身の陳述書等)を限りなく採用しており、極めて偏った事実認定である。

 ちなみに私たちの訴訟では裁判所の鑑定は行っていない。その理由は鑑定制度の問題(医療界のかばい合い・もたれ合い体質から病院側に有利な鑑定結果となることが多い。実際、病院・医師側から出てきた専門家による意見書もご多分に漏れずであった)にもあるが、それ以前に、司法解剖という動かぬ客観的証拠があったからである。だが、京都地裁はそれをも無視しているのである。


説明義務違反・事故隠ぺい

 事故発覚後の事実経過(「誤注入発覚後のカルテ・看護記録に誤注入の記載がない」−「カルテの改ざん」−「血中アルコール濃度検査の放棄」−「教授室話し合いで(両親に)初七日頃に事実報告すると決定」−「死亡後、病院側が私物を回収」−「内容虚偽の死亡診断書」−「死亡診断書交付時、事故を告げずに病理解剖の確認」−「深夜、教授はじめスタッフ総出の見送り」−「死亡翌日15時頃、都立広尾病院報道を契機に警察へ異状死届け(事務部長の判断)」−「同16時頃、担当医から初めて事故報告(事故があったが死因ではない)」−「記者会見の虚偽発表」等々)から、医師ら関係者による病院ぐるみの事故隠しは明らかで悪質である、と私たちは主張してきた。しかし、判決は「隠ぺいがあったとまでは認められない」としている。

 判決は上記各事実をそれぞれに検討している(検討すらしていないものもある)が、中でも特に、「内容虚偽の死亡診断書」「カルテの改ざん」を否定する判断は愚かしいとしか言いようがない。


 判決は、「沙織がエタノールによる影響を受けなかったと考えた」という被告医師らの説明は首肯できない(うなずけない)として、H医師らがエタノールの影響を認識していたと認定している。ならば、エタノール誤注入の事実を記載せず「病死及び自然死」とした死亡診断書は内容虚偽であり、事故隠ぺいの意図のもとに作成されたもの、と認めて当然だろうに、そうではない。

 「死亡診断書にエタノールの誤注入の事実を記載すれば、沙織が死亡して大きなショックを受けている原告らに、その時点で同事実を報告することになり多大な精神的苦痛を与えてしまうことが予想されたことからすると、被告H医師が死亡診断書にエタノールの誤注入の事実を記載しなかったことについてことさら事実を隠蔽する意図があったとまで認めることはできない」として、H医師らの説明義務違反(事故隠ぺい)を認めていない。

 ここで問題としているのは、個人の手紙やはがきの内容ではない。公式文書(有印公文書)である死亡診断書の記載についてだ。そこに家族への配慮など入り込む余地などあるはずもなく、また、後で事実を報告すれば虚偽の記載をしてもよいというものでもない。隠ぺいを否定するための、こじつけでしかない。

 医療過誤の事実を遺族に知らせれば多大な精神的苦痛を与えるから、死亡診断書には真実を隠して「病死及び自然死」と記載してよい、と裁判所自らが死亡診断書の虚偽記載にお墨付きを与えているのだから、その常識を疑う。

 なお判決は、肝心かなめの死亡診断書の死因の種類「病死及び自然死」については何も判断していない。不都合な点は避けて答えず、論理をすりかえごまかすといったやり方は、病院・医師らだけでなく、裁判所も同じだ。


 また、カルテについては、「確かにこれらの記載はいずれも後から書き加えられたものである」と認定していながら、「書き加えられた時期が全証拠によるも明らかでなく、同書き加えの事実をもって、事故を隠蔽するためことさらに後日書き加えたとまで認めるに足りる証拠はない」として、改ざんの事実を否定している。

 後から書き加えただけではない。加筆された内容は事実に反している(看護師らの供述と矛盾している)ことも明らかとなっているのだ。しかしながら判決は、そうした点は無視して、いつ加筆したのか判らないのでカルテ改ざんにはならない、と結論しているのである。実に馬鹿げている。内部告発でもない限り遺族がカルテ改ざんを立証するのは不可能ということなのだろう。


 そして、死亡翌日まで事故報告がなかった点について、「事故が発覚してから報告するまでの時間が約2日間にとどまっていることなどから、被告医師らを含む京大病院関係者のとった対応が、社会通念上明らかに許されないほどのものとは認められない」としている。

 事故を隠し、内容虚偽の死亡診断書を交付し、カルテを改ざんすること自体が、社会通念上許されない行為である。常識では通用しない屁理屈でもって事故隠ぺいを否定する裁判官の「社会通念」なるものが、そもそも一般社会の常識から乖離しているとしか思えない。


控訴審に正義を託す

 不正に対して毅然たる判断を期待したものの、京都地裁判決には見事に裏切られた。

 沙織に起きた事件は、医療の不確実性が問われるようなものではない。明らかな医療過誤で沙織の命は奪われたのだ。それを「病死」と片付け、隠した病院・医師らを京都地裁は不問とし放置したのだ。「亡くなった人間に人権はない」、病院・医師らの書面に接するたびに感じてきたことだが、裁判所までも同じなのか。国民の権利を守り、国民生活の平穏と安全を保つことが裁判所の務めであるのなら、京都地裁は自ら職務を放棄しているに等しい。医療界のカルテ改ざん・隠ぺいが無くならないのは、嘘を許してきた司法界にも責任がある

 判決後、傍聴席にいたみんなの言葉は、私たちの思いを代弁してくれていた。「常識では考えられない」「裁判所の感覚はおかしい」「信じられない」。

 一審・二審で判断が全く異なることも珍しくはない。裁判官次第ということであっては司法への信頼も揺らぐが、現実には、どうやら裁判にも「運」とか「ツキ」が少なからずあるようだ。が、そう言ってみたところで私たちで裁判官の選り好みはできない。健全な感性を備えた良識ある裁判官であることを信じて、前に進むしかない。司法の理不尽を言葉にするのは、京都地裁判決で終わりにしたいものだ。

 一審判決の誤りは控訴理由書で的確に指摘した。大阪高裁控訴審に正義を託したい。


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