京大病院エタノール中毒死事件・両親手記 bP

                                      2001(H13)年1月19日



 はじめまして、藤井沙織の両親です。
 昨年3月、一人娘の沙織は京大病院の医療ミスで17年の短い命を閉じました。この度「さおちゃんの死と真実を知ろう会」発足にあたり、この会に賛同・協力して下さる方に、今回 私達が体験したことを知って頂きたく、以下にこれまでの出来事、並びに現在の私達の気持ちを綴らせて頂きました。ご一読頂ければ幸いです。


 先日、平成13年1月16日、TV・新聞等のニュースでご存知の方もいらっしゃると思いますが、『京大病院の医療ミス・医師ら8人を書類送検』という見出しで報道されました。当時、私達にとって突然の出来事に、目の前で次々と展開していく事柄がまるで現実とは異にする別の世界の事のように映っていました。


                 医療ミス・経緯

 平成11年10月25日、沙織は前日からの嘔吐が止まらなくなり京大病院へ駆けつけ、そのまま入院、治療がスタートしました。気管切開(H2.02.22.に切開手術)をしている沙織にとって呼吸をすることに全てのエネルギーを使い果たし、その結果、食事や排泄といった他の事への余力が無くなり体力は次第に衰えて行きました。

 その年12月24日、人工呼吸器なしでは無理になり、私達は沙織に人工呼吸器をつけることを決意しました。当初人工呼吸器と沙織の自発呼吸が上手く合わず大変でしたが、2000年問題で人工呼吸器のトラブル等不安を抱えながらも、平成12年元旦を無事迎えました。
 年が明け、人工呼吸器とも次第に慣れてきて当時の絶食状態からも抜け、1月末頃には経腸チューブ栄養にてほぼ一日の食事量に近づき日々体力がついてきました。それまでよく感染していた沙織は1月13日以降パッタリと感染することも無くなりました。

 2月に入ってからも、体力がつきどんどん元気になり、食事も一日必要量を問題なく摂れ、全てにおいて良好と言わんばかりでした。
 そんな折、病院側から在宅に向けての在宅用人工呼吸器の練習の話があり、私達両親も沙織と三人、在宅用人工呼吸器をつけて再スタートを決意しました。気管切開の時は感染に細心の注意を払っていましたが、人工呼吸器をつけ「これからはどんどん外へ出て行こう。」と家族三人 新たな希望すら見えてきていました。

 2月16日、病院用人工呼吸器から在宅用人工呼吸器に取り替えられ在宅に向けての練習がスタートし、沙織と在宅用人工呼吸器が上手く合ってくれればと願っていたのですが、各人工呼吸器で微妙に特性が異なり、練習初日から3日続けて深夜になると酸素濃度が下がり、エアー入りが悪く、酸素吸入、タッピング、吸引等の処置をしてやっと回復するといった状態を繰り返しました。

 2月19日、1月13日以来の感染を引き起こし軽い肺炎になってしまいました。練習中の在宅用人工呼吸器が沙織には上手く合っていないのではと判断し、2月22日、元の病院用人工呼吸器に戻すと余りに沙織の呼吸が楽そうになったので、私達はその違いに驚きを隠せませんでした。その後、感染症も徐々に回復に向かい、2月28日、朝から穏やかな表情で落ち着きを取り戻した沙織にいつも通りの食事を開始し、私達もホッとしていました。少しの間、病院用人工呼吸器で体力をつけもっと元気になったら、再び違う機種の在宅用人工呼吸器にチャレンジしようと考えていた、その日の夕方です。

 平成12年2月28日、夕方6時頃その医療ミスが起こったのです。新聞等で報道されていたように、看護婦が人工呼吸器用加温加湿器に精製水と消毒用エタノールを取り違えて注入してしまったのです。
 そして数時間後 沙織の容態は悪化し、翌2月29日早朝急変しました。そのミスに病院側は気付かず、沙織は53時間消毒用エタノールを注入され続け、3月1日午後11時頃に別の看護婦がそのミスに気付いたのですが、3月2日午後7時54分、沙織は息を引き取りました。
 家族の私達は何も知らされず、その後医師から手渡された「死亡診断書」には「急性心不全」「病死及び自然死」と記されていました。何も知らないままその日深夜、大勢の医師、看護婦に見送られて沙織は病院を後にしました。

 3月3日朝早くから、悲しい思いの中 私達はまわりの人達に助けられて沙織の葬儀の準備にかかり、3月4日お通夜、5日告別式の日程で会館の方と打合せを終え、それまで沙織に関わって下さった人達に知らせの連絡をし、お寺のご住職に枕経をして頂き、それらが終わった後、午後4時頃、京大病院側から医師と看護婦長が訪ねて来ました。

 私達両親はその時初めて医師の口から「医療ミス」があったことの報告を受けました。しかし、医師からは「死因はエタノールによるものではなく、あくまでも元々の病気」と聞かされ、悲しみと疲労で動揺していた私達は真っ白の頭で整理する余裕もなく、世話になった医師の言葉を信じました。

 報告が終わるのと同時くらいに突然警察の人達が訪ねて来て、いきなり司法解剖の要請がありました。真っ白な頭の私達は自然と警察の人に食って掛かっていました。「沙織にこれ以上辛い思いはさせたくない。痛い思いはさせたくない。」・・・・空しい願いでした。・・・・刑事さんの言われる「裁判所の礼状を執ってでも連れて行きます。」「このまま葬られたら娘さんは無念でならないと思う。」・・・・・その言葉に、しばらくして私達は首を縦に振っていました。

 その夜、沙織は刑事さん達の手で運び出され、行ったこともない警察署の安置室で一人きりで一晩過ごしたのです。葬儀の日程も止む無く2日延期せざるを得なくなり、私達は目の前で一体何が起こっているのか冷静に理解する余裕もなく、次から次へと事態が展開して行きました。そして、体の底から怒りが込み上げてきました。

 翌3月4日、府立医大にて司法解剖が行われ、沙織の居ない部屋で私達はただひたすら連絡を待つことで時間が過ぎ、夜8時頃やっと連絡があり府立医大へ迎えに走りました。そこで対面した沙織は前日連れ出される迄の沙織とは全く違っていて、司法解剖により余りに変わり果てた沙織の表情を見て、私達は怒りと悔しさで体が震えてきました。府立医大の医師から耳にした内容は「血中エタノール濃度は致死量です。」という言葉でした。

 深夜の帰宅。部屋では先に連れて帰ってもらっていた沙織と祖父母、そしてご住職が待っていてくれ、深夜のそして2度目の枕経をして頂いたのです。

 3月5日、この日初めて私達家族は沙織と静かな一時を過ごしました。
 3月6日、午後6時からお通夜。
 3月7日、正午から告別式。沙織をこれまで温かく見守ってくれ、私達家族を助けて
          下さった大勢の人達に見送られて、その日沙織は天に舞い昇りました。

 そしてその夕刻、京大病院側による記者会見が行われ、今回の医療ミスが発表されたのです。

 3月8日、各社新聞記事で大きく報道されました。前日、葬儀会場に病院関係者が私達を訪ね「記者会見をします。ご家族に迷惑がかからないようにプライバシーに関しては十分注意を払います。」といった言葉が、記事に目を通す内に次第に憤りに変わっていきました。「プライバシー保護について家族の強い要望がある。」を理由に、病院側に都合の良い作為的な会見内容になってしまっていたのです。3月3日、私達への報告に来た時点までの事柄を病院側は事実とし、その後司法解剖で私達が知り得た事実はことごとく無視されていたのです。

 読売新聞「(ミスが起こる前の)2月24日には非常に厳しい状態にあった。」
       「10年以上にわたって治療を続けてきた遺族の方から
        特段非難を受けることはなかった。」
 朝日新聞「2月下旬から危篤状態だった。」
 京都新聞「遺族は今でも医師や看護婦の長年の努力に感謝しており、
        医療ミスについて責める言葉はなかった。」
 毎日新聞「2月24日の段階でいつ亡くなってもおかしくないことを家族に告げた。
        カルテにも記載がある。」
       「家族ともいい関係にあり、クレームもない。」
     発表が遅れた理由について「家族を説得するのに時間がかかった。」・・・

 その後、時を置かずに警察の取り調べが始まり、私達は辛くても目をそらさず、苦しい一番思い出したくない沙織の死の現場をリアルに蘇らせ記録をとっていきました。刑事事件における警察への捜査協力を何よりも最優先させ、十分過ぎるくらい慎重に、声に上げたい気持ちをグッと押さえ噛み殺して、この10ヶ月が過ぎていきました。苦しい苦しい10ヶ月でした。

 今、書類送検が終え、それまでずっと我慢していた私達の知り得る事実、そして心情をこれから声に上げて行こうと考えています。閉ざされた医療現場の許せない体質に少しでも警鐘を鳴らせ、そして何より『沙織が何故亡くなったのか』その真実を明らかにするために。

                                          藤井沙織・父 記



 私達は沙織を宝物のように大事に大事に育ててきました。特に気管切開をしてからのこの10年間は、命の輝きを大切に家族三人でひとつの命と思い、誰一人欠けても崩れてしまいそうな緊迫感を持って毎日を過ごしてきました。これほどまでに愛情を注いだことは過去にもおそらくこれからも無いでしょう。その大切な命を奪われ、私達は悔しさ、悲しさ、苦しみで押し潰されそうです。

 『なぜ沙織が死んだのか。なぜここに居ないのか。』
 答えの出ない疑問で頭が一杯になり前に進むことが出来ません。真実が分からない限り私達は沙織の死を認めることが出来ません。 沙織の死に向き合い、受け止め、きちんと供養してあげるためにも、病院内で起こった真実を明らかにしていきたいと思います。

                                          藤井沙織・母 記




もどる