証人尋問終え、判決へ
    元・京大病院医療問題対策委員長の証言報告

                   代表世話人  大 坂 紀 子 (2007/12/08)



 5月に始まった京大病院エタノール中毒死事件の控訴審は、8月27日最大の山場である証人尋問が行われました。当初決まっていたN事務部長の証人尋問は健康上の理由で取り消しとなりましたが、事故対策会議の中心にいた医療問題対策委員会委員長のM教授が証言台に立ちました。


M教授の証言まとめ

 事故当時、京大病院にはリアルタイムに医療事故に対応できる組織がなかった。基本的には執行部(病院長、事務部長、病院長補佐)が対応していた。医療問題対策委員会は患者と病院間のクレーム処理を担当。医療事故に直接対応することはなく、訴訟の対応に当っていた。

 本件については3月7日か8日に医療事故調査委員会、医療事故防止委員会が立ちあがったが、それまでの正式な議事録はない。会議の途中に呼んだ事務局の人達、うち2人は医療問題対策委員会のメンバーで、その1人はメモをとっていたが、委員会の記録としては残っていない。


* 会議内容

 3月2日午後6時頃、T看護師の薬剤の取り違えが判明。N教授・H医師・Y看護師長は対応について相談の為、院長補佐であるK教授の部屋に行った。K教授はこの件が将来訴訟になると考え、経緯を知らせるべく私(M教授)を呼んだと直感した。

 H医師は「現在の病状への事故の影響はわからないが、敗血症性ショック(感染症の悪化)で説明がつく。」と説明。N教授(小児科長)は報告から数時間もたってなかったが、いろいろ本を調べ、コピー資料を持っていた。まだ、調査が不十分で、因果関係が不明な段階で家族に報告すべきかどうか悩んでいた。

 具体的な誤注入量の数値の記憶はないが、N教授が誤注入量と呼気・吸気の関係、残量を説明したので、具体的な誤注入量はわかっていたと思う。誤注入が53時間に渡ったことはY看護師長から説明があったと思う。患者の病状やエタノールについては専門違いでわからない。カルテや文献資料はH医師とN教授が持っていたが、他の者は見ていない。因果関係はわからないが、H医師の説明を聞いて納得した。『ああ、そう。なるほど。』という感じ。


* 会議の焦点

 いつ患者家族に報告するかの協議が目的だったが、事故説明を30〜40分聞いた後、余り議論することもなく「すぐ家族に報告する」と決まった。報告に行こうと立ちあがったとほぼ同時に、患者の病状がさらに悪化したと連絡があった。(大坂註:Y看護師長はいつ報告するか決まらない内に病状悪化の連絡があったと一審法廷で証言していた。)

 U弁護士に電話したのが、「すぐ家族に報告する」と決まった後か前か記憶があいまい。患者が亡くなる前、おそらくH医師が病棟に行っている間と思う。「因果関係がはっきりしているならすぐに報告すべきだが、はっきりしないならわかってから報告してもいいのでは。」と言われた。

 H医師が戻り「子供を亡くしたばかりの両親に報告できない。」と言ったので、H医師が時期をみて報告することになった。H医師は会議で初七日位に家族に報告することに決まったと証言したが、「初七日位を目安に」と誰が言ったのか記憶がない。

 U弁護士から電話があり、事務の人が患者が亡くなったことは伝えたが、亡くなった場合の対応については聞かなかった。

 死亡診断書についての協議は記憶にない。警察の取調べで、私が「死亡診断書の記載は急性心不全でいいだろう」と言ったとH医師が証言したと聞いた。皮膚科の自分が専門家達を差し置いて、そういうことを言うとは考えられない。会議に居合わせた3人にも確認したが、そんなことはないと言われた。H医師から提案されれば「それでいいんじゃないですか。」と軽く答えることはあったかもしれない。

 警察への届けやマスコミ対応、文部科学省(当時文部省)への報告については話さなかった。エタノールの影響を調べたり、遺体や血液をどうするとか証拠の保全といった議論もいっさいなかった。そういう発想がなかった。その会議は正式なものではなく、私共の任務ではなかった。いつ家族に報告するかの議論は終わっていた。後は執行部が決断し、報告などは事務方の仕事。会議の終了間際、K教授が思い出したように法医学のF教授に誤注入の影響があったかどうか尋ねてはどうかと言った。それまでは話題にならなかったが、K教授のなかでは考えられていたと思う。


* 事件の記録・資料

 3月6日朝8時、病院長・事務部長・K教授・N教授・H医師との協議の場で、(死亡翌日の)3日に家族に報告したことを知らされた。

 今回の陳述書(大坂註:M教授提出の陳述書)の添付資料は、この会議でH医師が出した家族への報告の様子を記録した資料。出廷に当りファイルに詰めこんであった資料を出して見たところこれがあった。他にも記録や紙媒体の資料があるが、U弁護士に渡した。また、記録したのはH医師で同医師は几帳面で他にも3月3日、6日と幾つかの記録を作成していた。

(大坂註:添付資料の内容は、家族は病理解剖の勧めに無言で答えず、マスコミ発表は強く拒否したが、批難の言葉はなく病院への感謝とT看護師に同情の言葉があったというもの。刑事裁判でもT看護師の弁護に同様の主張がされたが、さおちゃんのおかあさんは意見陳述で「事実と異なる事故説明で引き出された言葉や、事実ではない内容が含まれており、私たち家族を大きく傷つける内容だ。」と涙ながらに抗議した経緯があります。
 民事一審や刑事裁判では出されなかった資料を、今になって病院の主張を裏付ける為に出してきたことには不信感を持たずにはいられません。)

 今回の陳述書はU弁護士と相談してメールをもらって、それを自分の文章に直した。記憶をたどるために保管していた紙の資料を見たが、U弁護士は資料はあまり見るな、自分の記憶で書いた方がいいと言った。陳述書の添付資料は打ち合わせの時資料の中から出てきた。U弁護士は知らなかった資料で、じゃあ提出しようということになった。それ以外はU弁護士の方が詳しくて訂正されるほうが多かった。


* 事故届けと調査報告

 3月6日の会議で異状死体の届を警察に出したと初めて知らされ驚いた。それまで病院内で亡くなった人が異状死になるという発想はなかった。3日の夜、広尾事件が公になり、N事務部長が届を出さなければいけないと気づいたと言っていた。おそらく病院長と相談したと思う。京大病院では執行部が決めて後で協議会で追認ということが多い。

 3月7日か8日に医療事故調査委員会と医療事故防止委員会を結成。3月9日文部科学省に報告を上げた。その後の調査報告書は何処に公表したかは知らない。この後の事故(大坂註:エタノール事故から後に起きた他の事故)については公表している。2年前、職員組合が外部の第三者を交えた事故調査を要求したことは知らない(大坂註:2年前は誤りで実際は3年前。04年3月に京大病院長から「刑事・民事裁判が継続中であり、第三者を交えた事故調査委員会は設置しない」との回答があったと、W看護師が刑事控訴審で証言している)。委員会が解散したらそういうことは伝わってこない。この事故調査委員会も解散したと思う。最終の報告書を作ったら一応解散するが、その年月がいつだったか憶えていない。最後の会議は調べれば判る。その後報告書が作成され、それ以降は開かれないと思う。

(大坂註:それまで、一審のH医師らは、事故は大したことがないと十分な協議や記録をしてなかったように証言していましたが、M教授の証言で、N教授は文献を調べたり、対応に悩んでいたことがうかがえますし、K教授もエタノールの影響を無視できなかったことなどがわかりました。会議でも実際はもっと深刻な協議がなされていたはずです。

 また、M教授は事故から時間が経過して記憶があいまいで、U弁護士に陳述書を訂正されたと証言しました。弁護士による誘導の可能性もあります。記憶があいまいなら当時の記録をそのまま出せば良かったと思います。他にも多くの記録などを弁護士が持っているようですが、自分達の都合に関係なく、全ての資料を提出し、事故対応の経緯を明らかにすべきです。

 事故の翌年、両親が開示を求め提出された「医療事故に係る経過報告」(文部省提出・平成12年3月9日付)も、単なる事故経過報告に過ぎず、重要な部分は黒塗りされ何もわかりません。公表されない資料がある限り、裁判に不利益な内容があるとしか考えられません。むしろ、正式な事故調査開始から2日で真剣な調査がなされたとは到底思われず、事故調査委員会の解散時期もわからないなど、事故の本質をなんら掘り下げる事なく実質的には調査しなかったも同然と考えられます。)


     [以上、第3回弁論(8月27日)証人調べにおける
               M教授の証言を大坂が要約しました]


いよいよ判決へ

 M教授の証人尋問により、一審におけるH医師やY看護師長の証言との食い違いや、一般常識では考えられないような事故対策会議の実態が浮かび上がりました。すぐに事故を報告しなかったうえに、互いに責任を擦り付け合い、嘘を重ねる京大病院関係者の不誠実さに怒りをあらたにしました。しかし、こうした証人尋問により控訴審の最大目的の事故隠し解明も進んだと言えます。

 これまでの刑事(一審・二審)、民事(一審)の3回の裁判は、両親を気遣って事故を隠したという病院側の言い逃れを追及することもなく終わっていました。今回の民事控訴審こそ一歩踏み込んで事故隠しを認めることを、多くの医療事故被害者や心ある医療関係者も期待を寄せ、注目しています。

 最後に、民事控訴審にも毎回多数の仲間が傍聴に参加して下さいました。両親が病院側の大弁護団に臆する事なく闘ってこられたのも、皆様のお陰と感謝しています。裁判は10月11日の最終弁論も終え、年明けの1月31日に判決を迎えます。是非多くの皆様に見守っていただきたく心からお願い申しあげます。



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