隠し切れない事故隠し  証人尋問まとめ

                        さおちゃんの会 代表世話人  大 坂 紀 子



 民事裁判最大の山場である証人尋問が、昨年9月6日に開始され、今年の3月1日まで行なわれました。その間4回の尋問で11人が証言台に立ちました。

 遠方の会員の皆様には前回のニュース発行からずいぶん間が空き、ご報告が遅れましたことを深くお詫び申し上げます。また、毎回傍聴に参加してくださった呼吸器をつけたバクバクの会の仲間、やさいの会のお友達、同じように医療裁判を闘う皆さんなど多くの方々には心よりお礼申し上げます。支援者の中には医師のあまりに勝手な主張に涙する人がいる一方で、「意図的にエタノールの影響を無視したことがよくわかった、事故隠しを自供したも同然ですっきりした。」と言う人もありました。

 以下に事故隠しを中心に被告の証言内容を時間の流れに沿ってまとめました。




         9月6日 第1回証人尋問

* Y看護師長の証言


 
4gの精製水と5gのエタノールのタンクはよく似ていたが、他にも似た物は多い。仕方がないと受け入れた。これを拒否した看護師長が何人かいたことは知らなかった。

 タンクの採用時、似てると思ったが、取り違えの可能性を認識したかどうかは忘れた。
(刑事裁判ではT看護師をかばってか、認識があったと証言。)

 
精製水の加湿器への補充作業にエタノールタンクのノズルを流用し注射器を使っていた。業務合理化の為にはいい方法だと思った。看護協会と薬剤師会が注射薬以外の物を注射器で注入することを禁止していることは知らなかった。ミスが起きるとは思わなかった。現在振り返ると問題があった。

 誤注入を知らされたのは3月2日8:00の出勤時、H医師に「誰がいつから誤注入したかを調べて欲しい。」と言われた。いっしょにタンクの残量を見た。3分の2〜半分位だった。『えらいことになった。』『(容態の悪化は)誤注入のせいかな?』と思った。


 さおちゃんが亡くなった後(2日21:00〜22:00)、看護記録の最後に誤注入発見したことだけを書いた。K副院長の部屋での会議で記録するよう指示された。詳細はその後書くつもりだったが、結局、看護記録はこれ以外に事故の記載はない。自分が指示しなかったので、他の看護師達はどう書くのか分からなかったと思う。今思えば誤注入発見を記録すべき人は、発見者のW看護師。

 事故の調査は、看護師達に誤注入のことを言うと黙ると思って、伏せたまま「両タンクの違いを知ってる?」と1人づつ聞いて回った。さおちゃんの状態が悪かったのでみんな口をつぐむと思った。ヒヤリハット報告にも書かなかった。

 両親へは誤注入の経緯がわかってから言うつもりだった。2日、H医師に「取り違えたのは28日の夕方、T看護師だろう。」と報告。H医師とN教授
(タンク残量を見てる)は「どのように話すか?」、「影響あるんでしょうかね?」と言って、いつ話すかを相談する為、K副院長室で会議を開いた。

 経過とおよその量を説明をして病院としてどうしたら良いのか相談するため対策委員メンバーを集めた。U弁護士にも電話で相談、誰が相談したかは忘れた。H医師が「さおちゃんの容態が悪く、両親は追い詰められている、今は話せない。」と言っていつ報告するか決まらなかった。そうするうちにさおちゃんが亡くなったと報告があり、会議の終わりに初七日位に報告すると決まった。
(火葬後で調査は不可なのに?)警察への通報について話はなかった。両親に話したほうがいいのではと思った。

 さおちゃんが亡くなった後、きれいにする間両親が席をはずした時にさおちゃんの私物や両親が記録していた水分出納表(生活記録)も無くなっていました。このことについては、
後で知った、なぜかわからない、捜していた。誰からも指示はなかった。と答えました。(告別式の時、T副看護師長から水分出納表のみ返却された)

 報告が翌日になったのは3日10:00〜11:00頃、H医師が解剖医に相談、「すぐ、解剖した方がいい。」と言われたから。教授の了解は得ていたかはわからない。両親へ電話したのは医療相談室、外来の一室。(この日、H医師は専門外来の担当。多くの患者を待たせて事故対応していたことになる)

 最後に裁判官から「他の似た薬品についての注意喚起は?」と聞かれると
「ラベル確認すれば区別は可能。普段から確認しなさいと言っている。」と答えました。さらに「2号証に記録なく、W看護師が書かなかったのは罪を問われることを危惧してそうしたのか?」と追及されると「わからない。」と答え、「ミスを報告しないのか?」の問いには「器械を壊しても言わない人いた。」と答える始末でした。



* E副看護師長の証言

 担当チームが違うので実際は知らないが、さおちゃんの看護記録は1月31日に重症記録Bから状態安定記録Cに戻っている。

 『自発あり』の記述は自分で弱いながらも呼吸していたことをしめす。1月29日〜2月28日の事故前血圧測定しなかったのは他のバイタルサイン
(体温、呼吸、脈拍、普通は血圧もセット)が安定していたから測らなかったのかな?

 2月21日〜28日はY看護師長が海外旅行で薬剤管理を代行。ただし、26、27日は休みで管理することは不可能。22日、25日に在庫確認したが精製水の4gタンク、500mlボトル共に在庫があった。しかし、警察捜査で「22日から4gタンクは無くなっていたとみんなが言っている。」と言われた。在庫確認は「箱を空けて確認はしてない。」「箱から出ていた。」「ラベル見たと思うが、手には取っていない。」
の他、タンクの向きを縦と言ったり横と言ったり、警察での調書内容も覚えていないようでした。

 自分が休み中に無くなっても薬剤部に取りに行けばいい。そのことを知らなくてもリーダーに言えばわかる。実際は27日に在庫切れとなり、リーダーのW看護師は湯冷ましで間に合わせたが、それを申し送りされていたら、自分はきちんと対処した。

 T看護師が間違ったことについては
「驚き唖然とした。」と答えました。




         11月8日 第2回証人尋問

* ku看護師の証言


 当時、思いこみで補充作業をしていた。今思うと容器のラベルを確認すべきだった。経験が浅く、忙しくてパニック状態で気が回らなかった。

 2月28日23時頃、アラームがよく鳴るが訳がわからず、ビクビクしていた。痰が多く熱が上がっていった。吐いたこと脈が速いことをO医師に伝えた。勤務の後半、さおちゃんの顔がはじめより赤くなったと思った。呼吸器の水滴が多いと思ったがなぜか考えなかった。

 休み空けの3月3日朝、初めてY看護師長から個人的に精製水をどれくらい入れたか聞かれた。気が動転してよくわからなかったが、調査はこれだけ。Y看護師長に患者に聞かれたら動揺するので言わないように言われたが、絶対言うなとは言われなかった。



* I看護師の証言

 人員不足、重症の小児患者、母親のケアと厳しい勤務だった。

 水についてはタンクのノズル以外にもボトルの流用をしていて、容器を見ても中身の確認ができなかったが、水と思って使っていた。

 在宅用呼吸器が合わず、病院用呼吸器に戻したが、在宅器の練習目的は家に帰ること。当時の容態は入院を続けなくても家で生活できる、在宅器を着けた事はそういうことかもしれない。

 2月29日の急変、O医師からはおそらく敗血症性ショックだろうと聞いた。それ以前取り違えはなかった。水の減りが速い
(いつもの2倍ペース)と思ったが、呼吸器の変更によるものと思った。他へ報告はしなかった。4gタンクをさおちゃんに使用するのは初めてだったが自分以外であったかもしれないから、タンクから吸い上げる作業だけ考えていた。確認しようという思いはなかった。

 看護記録に29日の日勤時『あえぎ呼吸が持続』、翌深夜勤時(24:00〜)『あえぎは時々、日勤時より軽度』と記載した。報告はしていないが、日勤時は医師達は直に見ていた。

 取り違え発見後、H医師からの指示はなかった。見送った時、誤注入は知っていたが死因については聞いていなかった。エタノールが影響したとは思っていた。

 誤注入発見後、Y看護師長より呼び出しを受けた時の記憶があまりない。プライバシーがあるので口外しないようにと言われた気がする。



* Ka看護師の証言

 当時、水は医薬品と言う認識がなく確認習慣がなかった。今思うと正しくなかった。よく似ているのは知っていたが、自分は間違えない自信があった。他の人が間違えるという前提で業務を点検するという風潮はなかった。6年目で段取りよくなって効率的に仕事できる一方で、基本的なことを一つ一つきちんとすることができなくなっていた。

 在宅器の練習は、呼吸器があれば帰宅できるということで練習した。事故前血圧を測定しなかったかどうか記憶がないが、尿量、発熱などみて不要と判断すれば測らない。

 2月29日にあえぎ呼吸が消失した状況はない。3月1日の日勤時、あえぎ呼吸は無くなったか少し落ち着いた印象だった。あえぎ呼吸についてO医師、H医師に逐一報告はしないが、トータルに報告した。精製水の注入回数が普段の約2倍になっていたが隣の病室で多く使う人を経験していて、状態につれ多くなったのかなと思った。とくに医師に報告はしなかった。

 3月3日、Y看護師長から呼び出しがあった、「現在調査中で後日きちんと答えるから、患者から問い合わせがあっても個人で答えないように。師長に聞くように。」と言われた。警察調書ではエタノールが原因で亡くなられたと聞いたと書いたが、今ははっきり覚えていない。亡くなったと聞いた時、エタノールで亡くなったと思った。影響あったと思う。



* W看護師(誤注入発見者)の証言

 ミスは人事と思っていた。それまで自分がミスしてもその時注意が足りなかっただけと思ってすぐ忘れてしまっていた。流用や代用などはむしろ推奨されていた。あるものを活用するよう教育されていた。

 取り違えの前日の日勤時、水の在庫切れに気付いたが湯冷ましで代用。夜勤明けに伝えるつもりだったが忘れてしまった。在庫切れを申し送りノートに書けば、E副看護師長に伝わり、T看護師が探すことはなかった。

 事故直前の28日深夜は落ち着いていた。血中酸素濃度、吸引回数、その他も普通だった。

 誤注入発見後、H医師に報告。すぐ換えるように言われた。何を換えると言ったのか記憶がない
(警察調書では加湿器のチャンバーを換えるように言われたとある。)が、自分はタンクのことだと思った。実際は病室のタンクを取り出し、4g水タンクを置き、チャンバーを持ち出し、新しいチャンバーをセットした。持ち出したタンクは詰め所の真中に置いた。H医師も居た。残量は2分の1を確認。H医師と準夜、深夜の看護師の5人で誰がいつ間違ったのか話し合った。24日の呼吸器の交換時ではないかという話になったが、私はエタノール吸入で容態が悪化したと考えて、「エタノールは人体に影響があると考えると24日(容態は安定)というのはどうなんでしょう。」と言った。カルテ、看護記録を見て話し合っていて、H医師は「交換時ならエタノールの影響は出ていない。(容態悪化は)敗血症だろう。」と判断した。家族に報告しなかったのはH医師が「はっきり状況がわからないから、調査してから言う。」と言ったから。

 翌朝のY看護師長の出勤まで何もしなかった。普通は深夜婦長に相談するが、その時は思いつかなかった。事故発見直後、深夜婦長がさおちゃんの病室を訪問したそうだが会っていない。ミス発生時書く習慣なかった。事故があった時は口答で伝え申し送りノートには書かない、当時はそういうもの。書いたものもあるが、書かないものもある。


 今回提出した陳述書では、報告しなっかったことに関して以前は
『看護師の本能的防衛反応』と証言したが、当時「事故はあってはならないことであり、なかったことにしよう」としてきたのが医療現場の風土だった…看護学校で「患者にぶつかっても訴訟になる恐れがあるので謝るな。」という教育を受けた、と述べています。



* T看護師の証言

 3月1日23時、先輩看護師らが誤注入についてH医師に話しているのが聞こえた。2日14時、Y看護師長に間違えたかもしれないと電話した。「もっと前からではないかという話もあるので、よく考えて報告しなさい。」と言われた。医師から質問はなかった。亡くなった2日の夜、Y看護師長が寮に来て「両親に次の日話す。」と言った。

 3月9日の事故調査委員会まで話はしなかった。調査会でも「今まで呼吸器を扱ったことはあるか?」など断片的に聞かれただけ。30分位。持ち込みの経過などの話はなし。3月2日の申し送りでは話はなかった。

 事故隠しはしていないつもりだったが、さおちゃんの死の翌日になって報告した事は両親からすれば、隠したことになるのかも。




         12月13日 第3回証人尋問

* H医師(指導医)の証言


 事故前、患者は呼吸器を連続装着していて、リー脳症の最終像になっていた。1月位から死亡退院になると思った。病気が最終像に進行したことと、急激な血圧低下で突然死の可能性があると説明する為CT検査を行い、2月24日両親を呼び説明した。在宅用呼吸器の練習にあたり了解しておいてほしかった。余命は長くて1年と考えていた
、と答えました。

 1月位から在宅用呼吸器への切り替えを考えた。お母さんがほとんど付き添い疲れていた。在宅器の話をすると積極的に準備を始め、元気づけられたと思ったが、予想以上に期待が大きく戸惑った。「早く呼吸器を切り替えて欲しい。」と言われた。この患者の場合、切り替えた在宅器PLV100では自発呼吸への微妙な対応ができなかった。両親が「H医師が強引に在宅器の練習を進めた。」と言っていると言われると、「絶対違う。」と強く否定しました。

 2月29日4:30急変、6:00に駆けつけた時にはショック状態だった。敗血症性ショックと考えたのは,発熱、白血球の増加、膿尿などの症状と感染症になりやすい患者だったから、すべて敗血症性ショックで説明できた、と主張。

 カルテの6:30に『顔面のやや紅潮、末梢は温かい』と記載されているが、
O医師の間違い、と否定。自分が6:00に診た時にはショックでそのような症状はすでになく、7:30の診察時には四肢末梢の冷感を認めた、とはっきり主張。

 しかし、7:37にも『末梢の冷感が認められるようになってきた為、イノバン…』というO医師の記載があるので7:37の直前まで温感があったのではと言われると、
発熱があったから温感あったのかも、自分は確認してないから…。でも顔面紅潮はない。と急に弱気に変わる場面もありました。

 29日の急変後のカルテ2ページに3ヶ所、時刻の書きなおし、文字の大きさや行間の取り方が変わっており、それらは敗血症性ショックの判断上重要な根拠となっています。後から加筆をしたかと尋問されると、
O医師が書いたので自分は知らない、と逃げ、O医師の記載をチェックしていたはずではと聞かれても「O医師がいつ書いたかわからない」「憶えていない」という言葉を繰り返しました。

 19:00の上にある『あえぎ呼吸がほぼ消失した』の記載は後から押し込んだように蛇行した書き方になっています。H医師はこの所見を根拠に脳死に近い状態だったと主張していますが、看護記録や看護師達の証言では翌日もあえぎ呼吸が続いていたと否定されています。他の加筆と思われる記載もさおちゃんの病状の急激な悪化を印象づける内容になっています。しかし実際は感染度合いを示すCRPの数値も低いまま推移しており、感染による敗血症性ショックと診断するには疑問があったはずです。

 お母さんが急変後の29日7:00ころ、H医師が「CRP2ですから…おしっこの菌でここまでなるかなあ?」と言ったというが、
そのようなことは言っていない。憶えていないのではなく、言ってないと強く否定し、敗血症性ショックの診断に迷いの余地はなかった事を強調しました。
その頃短時間の間にさおちゃんと関わりのなかった専門外の医師まで病室に訪れたことについては、
3人には自分が援助を頼んだ。他は京大との付合いが長い患者の容態悪化の情報を聞いて様子を見に来たのだろう。院内ではよく知られた患者だったから。担当外の人を勝手に診ることはない、と説明しました。

 3月1日誤注入のことを聞いた。エタノールを水に換えるよう指示した。いつから、どれくらいの誤注入かわからなかった。詰め所での話し合いの細かい中身は憶えていない。
W看護師からエタノールの影響ではないかと聞かれた記憶はない。
2月24日からならもっと影響があったはずと言った記憶もない。

それまでの臨床結果から敗血症性ショックそのものと考えた。エタノールの残量は憶えていない。エタノール中毒があのようなショックを引き起こすとは考えなかった。今も考えは変わらない。エタノールの残量からでなく、臨床結果からの判断。


 
3月2日夕方、誤注入が2月28日夕方からとわかった。2日18:00いつ話すか会議が開かれた。K副院長、M教授、N教授、H医師、Y看護師長、事務関係者2〜3人が参加。途中U弁護士(民事裁判で病院側弁護士の中心)にも電話で相談した。

 敗血症性ショックですべて説明がついた。エタノールは死期を早めたかもしれないが影響は小さいと思った。呼吸器から吸ってもまた外に出ると思った。会議でも異論はなかった。死因は敗血症性ショックでいいですかと尋ねたが、M教授から死亡診断書の直接死因は心不全でどうかとアドバイスされた。エタノールのことを書かなかったのは、死因に余り関係ないと考えたから。

 K副院長からカルテに誤注入の事実を書くよう言われたので、カルテの最後に『事実関係を明らかにしてすみやかに両親に報告』と記載した。『すみやかに』とは初七日をめどと考えた。
(T看護師はY看護師長からその夜に明日両親に話すと言われたと証言)また、「法医学のF教授がアルコール専門なのでアドバイスを受けなさい。」と言われた。警察通報の話はなかった。

 3日朝10時頃
(外来診療中だったはず)、F教授に相談した。「荼毘に付される前に解剖するよう両親を説得しなさい。」と言われ自宅へ訪問することを決めた。午後3時頃、事務のN氏(前日の会議には不参加)から文部省に連絡すべき、記者会見をするので両親の了解をとるよう言われた。警察通報のことも聞いた。

 司法解剖でエタノール中毒と発表があり驚いた。今も科学的臨床データ、検査データなどから敗血症性ショックもあったと思っている。警察調書の記載『今となってみれば、エタノールを過小評価していた。誤診だったかもしれない。』について、当時は吸入という特異な状況、血中濃度がすぐ分からないなど過小評価してもやむえない。法的な誤診、ミスを認めたわけではない。


 京大内での血中濃度検査を検討しなかったこと、小児やアルコールの専門書で調べればエタノールの吸引で中毒を起すことが判ったはずと追及されると、
そうしたことは考えなかった、と答えました。(もっと早くF教授に相談すべきだったのでは?)




         3月1日 第4回証人尋問

* お父さん,お母さんの証言


 お父さんは誤注入直後の病状の悪化と帰宅後の病院の事故報告の様子を説明。また、病院の不誠実な対応による精神的苦痛、事件対応の為に生活が制約されている現状を訴えました。

 お母さんはさおちゃんの最後となった入院の経過と急変後からさおちゃんの死、事故隠しの経緯について説明しました。

 両親は早い時期に警察から記録をとるように指示されたこともありますが、それ以前から、さおちゃんの病状やそれに対する医療的な処置など詳細な記録を残していました。それらを基にこれまで見たこと聞いたこと感じたことをさおちゃんへの思いと共に証言しました。その説得力は被告側の代理人18人が知恵を結集して医療専門用語を駆使したとしても、とても勝ち目はありません。

 U弁護士(取り違え発見後の会議から関わっている)が細かい記憶を崩そうとしたり、お母さんを揺さ振ろうとしました。しかし、お母さんの脳裏にはさおちゃんの全てが刻まれていて、意地悪そうな質問にもきちんと答えていました。U弁護士は自分の知らない記録以上の答えが出てくるのを恐れ早々に尋問を終えました。



* O医師(研修医)の証言

 事故前の在宅用呼吸器への変更についてはいずれは退院していくから練習が必要と考えた。
H医師が在宅用呼吸器の練習が疲れた両親に希望を与える為だったと言ったことについては、自分はそう思っていなかった。できれば退院の方向に持っていきたいと考えていた。両親が家の改造について話すのも聞いた。」と証言しました。

 前回、敗血症性ショックの診断の根拠となる記載の不自然な書き方が問題になり、H医師は研修医のO医師の間違いとか、O医師が書いたのでわからない、などと言い逃れをしていました。

 この日、O医師はH医師が訳がわからなくなったと弱音をもらした『顔面のやや紅潮、末梢は温かい』の記述について巧妙(?)な言い訳を用意してきました。
それらの症状は急変後駆けつけた5時前、心拍上昇とあえぎ呼吸とともに認めたが、先に心拍上昇とあえぎ呼吸に対する処置を連続して書いていった。後からまだ書いてなかった症状を記入した為6:30の処置の後の記載になった。『末梢冷感を認めるようになった』と言う記述は気付いたら冷感が認められたので書いたが、いつから冷めたくなったかは判らない。その時間まで温感があったわけではない(これも実際より後に書いたことになる)と説明しました。

 しかし反対に、敗血症性ショックの診断確定に重要な膿尿検出に関する記載については
「検査結果から得られた所見をさかのぼって検査時の記載の箇所に書いた。H医師の指示でなく自分の判断で挿入加筆した。」と証言しました。

 『注射の痛みに反応がなくなった』と言う記載は
「夜になってH医師から指摘されて気付き加筆した。また、『あえぎ呼吸がほぼ消失』の記載も、H医師に指摘され後から加筆した。自分は気付かなかった。
看護記録との相違点は、「診断、治療を行う上で看護記録を見ることはあまりない。あえぎ呼吸が1分当り3〜4回と、ほぼ消失の表現は矛盾するとは言えない。実際の状況は今は覚えていない。」と証言しました。

 両親への報告については、
「敗血症性ショックで全て説明がついたのでエタノールの影響は小さいと考えた。このまま亡くなるだろうから静かに看取っていただく、報告しないほうがいいと判断した。」「報告すれば過剰に捉えられると思ったので、後で落ち着いてから報告するつもりだった。」「死亡診断書に敗血症性ショックを死因として書かなかったことは警察で診断書を見るまで知らなかった。」と証言しました。

 エタノールの残量ははっきり憶えていない。確かめたり話すこともなかった。
事故発見をカルテに書かなかったのは影響が少ないと考えたからで、H医師に相談もしなかった。「一応指導することにはなっているが、あんまり、特に指導されたりとかなかったです。」
と答えて証言を終わりました。(事件後は珍しく熱心に指導したと思われます。)


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 看護師達は「今になって思えば」と言う前置き付きながら、自分たちのミスを認め何人かは事故隠しについても認め、謝罪の言葉を述べました。また、H医師に自分の証言を否定されてか、涙ぐむ看護師の姿もありました。

 その一方、すでに証言を終えた看護師長と副看護師長が他の証人の尋問中に笑いながらこそこそと話す様子を見ていると、この人達にとってはすでに事件は過去のこと、人事になってしまっているのかと虚しくなりました。

 さおちゃんはすでに末期だった、敗血症性ショックで全て説明できたと強気の発言でスタートしたH医師でしたが、途中で証言が陳述書や前の証言と変わり、
よくわからなくなった、混乱してきた、と言って休憩を求めました。

 O医師は事件後京大病院から離れ、今は別の病院の耳鼻科に勤務しているそうです。尋問当日は急患の為遅刻、約1時間後に法廷に姿を現した彼は一貫して不機嫌そうに尋問を受けていました。また、尋問が終了するなり足早に法廷から出ていき、最後まで両親と目を合わすこともありませんでした。

 先の刑事裁判は看護師の過重勤務と病院責任がクローズアップされ、毎回T看護師を支援する看護組合関係者が大勢傍聴していました。しかし、こうした人達は今回の証人尋問ではあまり見かけなくなりました。もっと多くの看護関係者に事故隠しの経緯と被害実態を知ってもらい、そうした被害の回避、回復に役立てて欲しいと思いました。
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