※ 以下の「陳述書」は、3月1日の証人尋問(原告・藤井香)に際し、
    限られた尋問時間内で証言しきれない事実説明等を書面にして提出したものです。

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        陳  述  書

                        原 告   藤 井 香


   1 はじめに
   2 99年10月の入院から00年1月ころまでの沙織の状況
   3 事故以前の沙織の状態について
   4 在宅用人工呼吸器の練習について
   5 2月22日のCT検査について
   6 事故直前の沙織の状況とH先生の対応
   7 沙織の急変〜上皿(チャンバー)が交換されるまで
   8 上皿(チャンバー)の交換〜沙織が亡くなるまで
   9 沙織が亡くなった後〜帰宅まで
   10 帰宅後〜
   11 最後に



1 はじめに

(1) 沙織の生きてきた17年については、甲B17号証の年表や写真で説明し、またその思いはT看護婦さんに対する刑事公判での意見陳述(甲B180号証)でも、すでに述べてきたとおりです。

 沙織は、1歳のお誕生日の2日後初めて検査入院してから17歳3ヶ月で息を引き取るまでの約16年余り、京大病院にお世話になりました。小児神経の専門医であった○○先生宛てに紹介状を持って、そして、最初の命の危機を乗り越えてからは○○先生と京大病院を頼り、家族三人で岡山から京都に引っ越して来ました。それからも何度も急変時を救ってもらい、京都に来て本当に良かったと思っていました。

(2) ○○先生は、92年春別の病院にかわられましたが、その後もしばらく京大病院の外来に出られていたので、結局9年間ほど沙織を診ていただきました。93年頃からは、1歳の時お世話になったことがあるH先生が京大病院に帰って来られ、お世話になりました。H先生になってから4回の入院があったのですが、いつも急激に悪化した沙織を診るなり、自らテキパキと処置をし、その時の状態と治療方針を解り易く説明して下さり、私はH先生の顔を見ただけで、「ああ、これで沙織は大丈夫」と思えるくらい信頼し、恩人と思っていました。私は長年お世話になったH先生を、看護婦さんたちを、そして京大病院を信頼していました。

(3) ところが、H先生や京大病院は、事故を隠そうとし、その上度重なるウソがあり、さらには、あれだけ頑張ってきた沙織の17年をも傷付け続けています。私はそのことだけはどうしても許すことができず、気持ちを抑えることができません。

 H先生や京大病院が事実と違うことを主張していると判っていて何も声を上げない看護婦さんたちに対しても同様の気持ちでした。ただ、先日の証人尋問で、I看護婦、Ka看護婦、W看護婦さんが事故以前の沙織の状態について正直に証言してくれ、また、T看護婦、W看護婦さんは病院の事故隠しについても陳述書や法廷で証言してくれたことに少し救われる思いでした。でも正直、何故もっと早くに準備書面で触れてくれなかったのか残念でなりません。

 あれだけ信頼していたH先生や看護婦さんに事故と同時に一方的に信頼関係を断ち切られ、私は沙織を失ったことと共に二重三重に苦しんでいます。

(4) 事故から6年、医療事故はもちろんのことですが、事故隠しがどんなに患者や遺族を傷付け苦しめるかを知っていただきたく、事故に至るまでの経緯、それから、事故が起こってからの経緯について陳述いたします(夫の方が詳しい経過を知っている部分は夫の陳述書で記載されています)。



2 99年10月の入院から00年1月ころまでの沙織の状況

(1) 99年10月25日、沙織は前日からの嘔吐が止まらず、京大病院に12回目(※)の入院をしました。

 ※ 実体のある入院としては11回目です。87年9月22日の入院は、定期外来での採血検査後、すぐに輸血が必要という理由で緊急入院の扱いになりました。しかし、沙織は普段と変わらず笑顔も出て機嫌が良く、検査に疑問を持ち、当時の研修医の△△先生が改めて採血を行なったところ、全く異常がないことが判りました。おそらく外来の検査部で血液疾患の患者さんの血液と沙織の血液を取り違えたのだろうと説明を受けました。結局、昼間3時間ほど病棟に居ただけで帰宅したので、この日のことは入院とは考えていません。京大病院側の主張では、「5回目」と数えられていたので、形式的には12回目の入院として一応記載しておきます。

 入院に至った原因は、感染症と胃食道逆流現象でした。抗生剤による治療が始まりましたが、鼻注栄養(流動食)も入らなくなり、自力で出ていた尿も導尿に頼るようになり、呼吸もしんどそうで血中のO2濃度が下がったり、時々痰がつまって気管洗浄等の処置をすることもありました。

(2) そんなある日、血液の専門医の□□□先生(※)が病室に来られ、「さおちゃん、そろそろ呼吸器をつけた方がいいんじゃないかなぁ」と言われたことがありました。呼吸器をつけると生活が随分変わってしまうので、できれば気管切開の状態でギリギリまで頑張りたいという思いが私自身あったのですが、それが逆に沙織を苦しめているのかもしれないという不安が大きくなり、「さおちゃんは、どっちがいいの?」と何度も話しかけながら、悩んでいました。

 ※ □□□先生には、沙織を担当してもらったことはありませんが、先生が研修医の時代からよく知っていました。

 そんな中、CRPも下がり落ち着いたかなと思っていた矢先、12月21日深夜に沙織は呼吸不全になり、人工呼吸器がついてしまいました。装着したのは当直だった□先生でした。前回呼吸器が外れて丁度10年目のことでした。

 「とうとうこの日がきたか……」いずれ人工呼吸器を使用せざるをえないことは分かっていましたし、情報を収集し、心の準備もしてきましたが、実際に呼吸器に繋がれている沙織の姿を見た時は、やはりショックでした。最初は、呼吸器の送気と合わずにファイティングを起こしたり、口から泡をふいたりして、沙織も苦しそうでした。

(3) それでも、沙織は次第に呼吸器に合い落ち着いてきて、00年1月4日からはポカリスウェットが入り、1月11日からはエンシュアリキッド(流動食)も入り、1月26日には何と自力で尿が出るようになりました。そして、長い間繰り返していた感染症も治まり、CRPも下がり、1月13日以降は、抗生剤を使うこともなく、沙織は安定した日が続き、眼科検診や往診によるリハビリも始まりました。

 沙織のそれまでの苦しそうな様子がウソのようで、見た目にも楽そうで、私たちも、久しぶりにホッとできるひと時を迎えることができました。

 今までは、呼吸することに全エネルギーを使い果たし、食事をすることも排尿もできない状態になっていたのだと、人工呼吸器で呼吸を助けてもらい、やっと食事や排尿にエネルギーを使うことができるようになったのだと、沙織の穏やかな表情を見てそう思いました。10年もの間、気管切開だけで頑張らせたことが良かったのか複雑な思いはあったけど、私は「10年よく頑張ったね!」と誉めてあげました。



3 事故以前の沙織の状態について

(1) 国(京大病院)の第2準備書面の中で、最期となった入院当初から沙織は「持続植物状態になっていた」とありました。そして「外界に対する反応もほとんどなかった」「肉体的苦痛があったとしても、それをどの程度認識できたか不明」ともありました。

 裁判の進行の中で、私のH先生や病院への怒りが確固たるものになったのは、このようにして、沙織の尊厳が傷つけられたことが原因でした。

(2) 医学的に植物状態というものがどういう状態かは私には解りませんが、沙織は私たちが一般的常識として考える植物状態では決してありませんでした。確かに身体は寝たきりで自力で移動はできません。化膿性股関節炎により左足が動きにくいこともありましたが、右足は自由に動かし、怒った時は激しいキックをしていました。頭を触られることが大嫌いで、シャンプーをする時キックをして暴れるので看護婦さん一人ではできず、いつも私が身体を押さえていました。手の指も、ふざけて遊んでいると急に痛いほど握り締め離してくれないこともありました。嬉しい時は口元が緩み、辛く悲しい時は涙を流し、嫌な時は口を尖らせ、怒った時は顔を歪め右足を激しくキックする。見た目の表情は一見わかりにくくても、沙織の気持ちを知りたいと思う気持ちで向き合えば容易に解ることです。実際、沙織を長く担当してくれた看護婦さんの中でも、そのような気持ちで接してくれた看護婦さんや、全てのボランティアの人達は、程度の差こそあれ、理解をしてくれていました。

 沙織は、97年3月12日、14歳で初潮を迎え、エタノール誤注入による急変の直前2月28日まで生理がありました。水分出納表の尿欄のハートマークは生理の印です。ゆっくりではあるけれど確実に大人へと成長していました。

 また沙織は、91年12月25日の入院以来、角膜潰瘍による後遺症で磨りガラスを通して見るようにしか見えなくなりましたが、盲の状態では決してありませんでした。2月14日に301号室に移ってからは、南向きのため昼間にはベッドに直射日光が差し込み、急にカーテンを開けたりすると眩しがって眼を細めていました。このことはカルテの中にある眼科医の報告でも解ると思います。

 そして、耳は特に敏感で、眠ったかなと思いそろっと沙織の傍らから離れようとすると、パチッと目を開けることも度々ありました。眠れない夜が続くと、深夜担当の看護婦さんの中にはナースステーションのモニター(病室の天井の角にカメラが付いていて、詰所のモニターに映っている)を見て、沙織が寝ているか確認し、眠っている時は部屋の入口でサンダルをぬいで物音を立てずに入ってこられた人もいました。嬉しい気遣いに頭が下がる思いでした。

(3) 外界への反応がほとんどないとか、痛みを認識することができたかが不明であるなどということは、絶対にありません。沙織は、喜怒哀楽もはっきりしていたし、それが理解できないのなら、むしろ接する側の人間力の欠如によるものだと私は思います。

 この京大病院の書面を読んだときの私たちのショックは、とても言葉で言い表せるものではありません。

 お世話になった期間が短かかったり、経験の少ない人などが、沙織の喜怒哀楽までは分からなかったというのなら、まだ分かります(それでも、外界への反応や痛みの認識は分かったはずです)。しかし、看護婦さんの中には、沙織のことをよく分かってくれていた方もおられました。また、脳に障害を持つ子どもの専門医であるH先生もそのことが分からないはずがありません。

 それなのに、私たちが全てを頼り、信頼もしていた京大病院が、沙織のことをこんな風に言うことが信じられませんでした。しかも、H先生は、京大病院と一緒になって、それ以上に沙織を傷つけてきました。沙織ががんばってきた17年を、そしてこの事故による苦しさを、無念さを、理解しようともしない、それどころか否定しようとしてきた京大病院やH先生を、私は絶対に許せません。

(4) H先生は、その上、沙織の退院準備の事実とつじつまを合わせるためか、退院準備は、介護意欲を無くした私のためだった、などと言い始めました。そして、私が急がせたと言って、私のせいにしようとしています。事実は全く逆です(在宅用人工呼吸器の練習の事実経過は、後で詳しく述べます)。H先生が無理に進めた在宅用呼吸器の練習で、どれだけ沙織が苦しみ、私たち家族が振り回され、不安に陥れられ、苦しんだことか。それなのに、私たちの必死の思いも、努力も否定し、沙織だけではなく、私たち家族までも、一体どこまで傷つければ気がすむのでしょうか。

 事故直後に、沙織のことが誤って記者会見されたときにも、驚き、怒りを感じましたが、そのときには事情がきちんと伝わっていなかったのかもしれないから、と思う気持ちもありました。しかし、そうではありませんでした。京大病院やH先生は、あえて沙織をそして私たち家族を傷つける主張をしています。そのことが、くやしくて、悲しくてなりません。



4 在宅用人工呼吸器の練習について

(1) 初めてH先生から退院に向けて在宅用の人工呼吸器の話が出たのは1月半ばくらいだったと思います。このころ、沙織は呼吸器に合うようになって、すっかり安定してきたころでした。

 私は夫と相談し京大病院の近くに一戸建住宅を購入することを決めました。当時(現在も同じ)の自宅はエレベーターのないマンションの2階にあり、浴室も狭いユニットバスでした。人工呼吸器はストレッチャーにのせるので、ストレッチャーにのったまま階段で移動することはまず不可能です。また浴室も狭いユニットバスなので、気管切開だけの時でも、スペースが足らず、大変でした。10年に亘る気管切開での在宅生活で一番不便であり大変だったのが入浴でした。でも沙織が一番喜んだのも入浴でした。

 この先長く沙織との生活を続けていくには、沙織の楽しみの時間を大切にするためにも、私たちの身体的負担を軽くするためにも、ストレッチャーごと入れる浴室が必要と考えました。でも残念ながら私たちの経済力では沙織の生活に合わせた注文住宅は無理でした。

 家探しや改装には時間がかかります。京大病院近くの建売住宅で設計変更可能な物件を探し始め、オープンハウス等に出向いて検討を始めました。

(2) 2月に入ると、H先生から在宅の話が具体的にありました。ただ、練習用の在宅用呼吸器の貸出期間が1ヶ月なので練習を始めると1ヶ月後に退院になる、と言われ、私は耳を疑いました。

 バクバクの会(人工呼吸器をつけた子の親の会)のお母さん達から、退院に向けての練習中、まず在宅用呼吸器に合い慣れてから、病院内を散歩や入浴等の練習を何度も重ね、大丈夫と安全が確保できて初めて外泊練習に移行し、半年から1年以上かけて退院した話を何度も聞いていたので、H先生の「1ヶ月で退院」という信じられない言葉に、私は不安で一杯になりました。

 呼吸器をつけて退院するということは、単に病室が自宅に変わるというものではありません。病院ではどんなに状態が落ち着いていても、沙織は24時間ベッドに寝かされたままです。でも家に帰れば生活が始まります。夜はベッドで、昼間はリビングに、入浴もするし、外出もする。その全てに呼吸器がついて回るのです。

 その体験や練習をしないまま退院というのは余りに無謀で、沙織の命を軽視しているとしか思えませんでした。在宅用呼吸器に慣れ、生活体験を重ねて大丈夫と自信がついても、日常生活では停電もあれば災害もあります。その全てに対処できる目処がたってこそ、沙織の命の安全が保障され、在宅生活が送れるというものです。

 私たちも、ずっと入院しているつもりはありませんでした。人工呼吸器をつけることで、沙織の負担が随分軽くなることも分かりましたし、人工呼吸器をつけて在宅で生活をするという新しい沙織との生活に期待していました。

 しかし、それが簡単なことではないこともよく分かっていましたし、沙織の命を保障できないような安易な退院だけはしたくないと考えていたのです。

(3) しかし、H先生は一度決めるとやり通す人であることは、よく知っていました。私も自分の考えを一度は伝えましたが、拒否されたら2度3度は言い難く、仕方なく研修医の0先生や沙織の担当でもある副婦長の□□看護婦さんや、E看護婦さんに、そんなに急に退院といわれても準備ができない、H先生にもそのことをお願いして欲しい、と訴えていました。

 それと同時に、すぐに退院するように指示された場合に備えて、あわてて在宅準備を進めました。最も重要な呼吸器とパルスオキシメーター(モニター)や吸引器等の必要な器械を載せて沙織を移動させることができるストレッチャータイプの車椅子の製作依頼の連絡を取りました。毎日昼過ぎに夫が来てからは、私は公衆電話に走り、バクバクの会のお母さんに業者を紹介してもらったり、情報収集に奔走しました。無理をお願いして、尼崎から2月13日に車椅子製作の打合せと採寸に来ていただきました。普通は半年ほどかかるところを約3ヶ月で作って下さるということで、その日の夕方、部屋に来られた0先生に、車椅子ができるのが早くて5月末になるからそれまでは退院はできないことを、H先生に言ってもらうようにお願いしました。

(4) しかし、私の不安は的中しました。翌14日、H先生が来られ車椅子がいつできるのか聞かれたので、「早くて5月末とのことです」と答えると、「それまで入院している必要はありませんね、それなら明日にでも在宅用呼吸器を業者さんに持ってきてもらいましょう」と言われ病室を出て行かれました。その後再び来られ、「自分は出張で留守だが、明日、業者さんが持ってきます」と言われました。私は在宅での公的支援体制をお願いするため、左京保健所の沙織担当の○○保健婦さんに連絡しました。

 翌15日昼頃、在宅用人工呼吸器PLV−100が病室に運び込まれました。
□□看護婦さんや0先生が次々に現れ、PLV−100を見たり触ったり操作方法をチェックしていましたが、□□看護婦さんは、PLV−100を扱うのは初めてで、看護婦全員が操作方法を理解した方が良いからと、ワゴンをナースステーションに持ち帰りました。私は正直ほっとしました。

 でも、その期待も虚しく、翌16日朝、H先生と0先生がいきなり部屋に入ってきて、病院用人工呼吸器サーボからPLV−100に交換してしまいました。

(5) 沙織は自発呼吸があり、サーボでも慣れるのに随分かかったので、今回も覚悟はしていましたが、PLV−100は、サーボの緩やかな送気に比べて、刺激の強い急激な送気になっていることもあって、沙織には合わず、見るからに苦しそうでした。せっかく落ち着いていたのにと思いながらも、家に帰るには超えなければならない試練だと自分に言い聞かせ、一緒に寄り添いました。

 しかし、PLV−100に変えてから、夜中になるとSpO2が60〜70台まで下がり、0先生が駆けつけ、O2(酸素)をバギング(※)し処置をしてやっと戻るという日が連日続き、苦しい練習に沙織が再び体調を崩さないか心配でたまりませんでした。

 ※ 手動の人工呼吸器アンビューバッグを使用して送気すること(06/05/04補足説明)。

(6) 2月19日、練習から4日目に沙織は元気なくしんどそうにしていたので0先生に報告し、採血するとCRP=7.4で、レントゲンを撮り軽い肺炎になっていました。

 1月13日以来行っていなかった抗生剤の投与が始まり、翌20日にはCRP=13以上に上がり、私は肺炎が落ち着くまでサーボに戻してもらうよう0先生にもH先生にもお願いしましたが、「PLV−100に慣れないと退院はできませんから」と拒否されました。

 それでも0先生は、毎夜のO2低下を知っているだけに不安に思ったのか、この夜サーボの電源を入れモード設定をし、いざという時に繋げるだけの状態にして帰宅されました。H先生の許可がなければサーボに戻すこともできなかったのです。

 肺炎状態では退院できるはずもなく、状態の悪い時はサーボに戻して、元気になってから再び練習すればいいのに、なぜそんなに無理しなければならないのか、私には分かりませんでした。PLV−100が呼吸に合わないことと、軽い肺炎と、二重の苦しみでしんどそうな沙織を見ているのがとても辛かったです。

(7) バクバクの会のお母さんたちの話では、1日1時間くらいから在宅用呼吸器の練習を始め、少しずつ時間を延ばして何ヶ月間もかけて在宅用呼吸器に合わせていったと聞いていたので、H先生は余りにも急ぎ過ぎていると思いました。

 また、私たちが在宅生活で準備するものを聞いた時も、H先生はバクテリアフィルターもモニターも要らないと言われました。業者の方が来られて、初めてPLV−100の説明をされたのが、PLV−100に交換して沙織が軽い肺炎になった後の2月21日だったのですが、そのときには、バクテリアフィルターもモニターも必需品だと言われました。しかも、H先生がPLV−100の設定を間違っていて、その後で設定モードを変更していました(このころの詳細は、さおちゃん記録甲A4号証にも細かく書いてあります)。

 私たちは、余りにも性急に、器械もきちんと理解しないままに安易に在宅用呼吸器の練習をすすめるH先生に、沙織の命をどう考えているのか、不信感を押さえるのに精一杯でした。

 その後、ようやく2月22日、CT検査後に、病室に帰りサーボに戻してくれました。すると沙織の呼吸が余りに楽そうなので、改めてサーボの凄さに驚き、私はひと安心したのです。



5 2月22日のCT検査について

 ここで、2月22日に行なわれたCT検査について述べたいと思います。

(1) 2月10日過頃、PLV−100の練習を始める前に、沙織の状態がとても安定していたので、その間に何かして欲しいことがないかとH先生に聞かれ、私はCT検査をお願いしました。

 呼吸器をつけて在宅するに当たり、沙織のリー脳症がどのくらい進行しているのか知っておきたかったからです。前回のCT検査はいつ撮ったかすぐ答えられないくらい昔のことでした。CTを撮るには眠剤を使用しなくてはなりません。強い眠剤には呼吸抑制があるため、気管切開のみの10年間は万が一のことを考え検査できませんでした。でも、既に呼吸器が装着されている今なら、例え検査中呼吸器を外していても、緊急時すぐに繋げるから安心だと思ったのです。H先生もすぐに承諾してくれましたが、検査の実施は2月22日になりました。

(2) 2月24日の夜病室で、0先生も同席し、夫と私に画像を見ながら説明がありました。「大脳部は最終像です。基底核部はまだ少し大丈夫ですね。全体としてはかなり進行しています」と説明され、最後に「私の知っているリー脳症の患者さんでは一番長くて20歳までですねぇ」と言われました。

 画像説明については、92年当時の担当医である○○先生からも、ほぼ同様のことを言われていましたので、特に驚きませんでした。

 しかし、H先生が準備書面で書いている血圧については聞いていません。仮に「血圧が低下し突然死することがある」と言われたとすれば、普段は勿論、PLV−100で軽い肺炎になった時にも、血圧測定をお願いしていたでしょう。血圧低下により突然死がある状態であれば、そのような患者に血圧測定を1ヶ月間以上も1度もしないということは有り得ないと思います。医師も看護婦さんも沙織のことをそこまで重篤な患者と考えていなかったからだと思います。



6 事故直前の沙織の状況とH先生の対応

(1) 在宅用呼吸器の練習中に起こした軽い肺炎は、サーボに代えてから順調に回復し、2月25日にはCRP=1.8まで下がり、翌26日には沙織はとても穏やかで、2日連続でシャンプーをしてもらいました。

 27日明け方からSpO2が下がり処置をし、CRPは4.8と少し上がっていたので絶食となりました。しかし、翌28日はCRP=4.2となり、沙織は朝から表情も良く落ち着いているので0先生より指示があり、流動食をいつも通り始めました。

(2) この日の夕方、H先生が病室に来られ沙織を診察され、朝から食事が順調に入っていると報告すると、「胸の音もかなりきれいになってますねぇ、1日で良くなりましたね」と言われました。

 H先生が病室に来られる直前、在宅用呼吸器の業者の方が来られていて、「肺炎とか体調の悪い状態でのPLV−100の練習はきついので病院用のサーボに戻して、体調が良くなってから再び練習した方がいい」と言われたことを伝えると、H先生は、「昨夜(SpO2降下時)のような時でも、換気量を増やしたりO2(酸素)濃度を上げたりくらいの処置は、まぁ家でもできますからね」と言われました。

 その瞬間、夫は声を荒げ、「医者でもない素人の私たちに何でそんなことができるんですか!」と怒鳴ったので、H先生は慌てて訂正していました。16年余り京大病院にお世話になり、H先生には7年余りお世話になりましたが、夫が主治医に怒りをぶつけたのは初めてのことだったので、今でもよく覚えています。

 当直の医師が採血結果を見て抗生剤を変え、呼吸器の換気量と回数を増やし、O2濃度を上げ、気管洗浄までして、やっと落ち着いたというのに、「家でもできますよ」と軽く言われたことには、正直驚きました。確かに機械的に呼吸器のダイヤルを回すことはできるかもしれませんが、それは採血の結果を見てからのことです。しかも病院ではひとつの処置で効果が無ければ次の方法もできますが、在宅で結果が出なければ最悪のことも有り得るのです。

(3) 私は夫と同じ気持ちでしたが内心ヒヤヒヤしていました。沙織にとって京大病院は最後の砦です。H先生に拒否されたら沙織の命の保障がなくなるということです。

 長い入院生活の中で、主治医とトラブルとなり病院をかわった患者を何人か知っています。しかし、沙織にはかわるべき病院はないと言っていい状態でした。ですから、いろんな思いがあっても主治医との関係は大切にしてきたつもりです。

 それでも一連の在宅用呼吸器の練習の経緯といい、「1か月で退院」とか「バクテリアフィルターもモニターも要らない」とか、その上この言葉です。

 私たちは、余りに沙織の命を軽く考え過ぎていることや、呼吸器をつけて在宅するということを安易に考えていることに、強い不信感を抱くようになっていました。

(4) そして、この日の夕方、T看護婦が滅菌精製水と消毒用エタノールのタンクを取り違え、誤注入が始まりました。

(誤注入から沙織が急変するまでの状況は、夫の陳述書に詳細が記載されています。)



7 沙織の急変〜上皿(チャンバー)が交換されるまで

(1) 2月28日夜からの一連の処置後も沙織は脈が速くしんどそうにしていたので、私は長期戦になると思い、夫の居るうちに睡眠を取ろうと(29日)午前1時頃に簡易ベッド(衣装缶)に横になりました。

 ふと目が覚めると夫は居なく、T看護婦さんがボーっと沙織の顔を覗き込んでいました。沙織の異常な息づかいを耳にした私は、とっさに体を起こし、沙織を見て息が止まりそうなくらい驚きました。「何してるの!すぐ先生呼んで!」T看護婦さんは慌てて病室を出て行きました。

 呼吸器がついているのに、口を開け苦しそうに息を吸い上げ、赤い顔をして、名前を呼んでも体を揺すってもビクともしない。何度も命の危機を乗り越えてきたけれど、一瞬にして頭の中を死がよぎったのは初めてのことでした。部屋の時計は(午前)4時30分を指していました。

 私は水分出納表に書いてある夫の記録を読み、O2はいいが脈が次第に高くなっていること、夫が3時30分に帰宅したことを知りました。

 しばらくして0先生が慌てて部屋に入って来ました。血圧を測ったり、採血をしたり、ポータブルでのレントゲンを撮ったり、慌ただしく処置をされました。そして、レントゲンの結果を、「(2月19日は)右肺中央部のみが白かったが、今回は肺が全体的に薄く白く拡がっている」と説明されました。

(2) その後、だいぶ時間がたってから、H先生が来られました。すぐに沙織を診察し、「何で急にこのようになったのかは解らないけれど…、敗血症性ショックですね、ショック状態です。CRPが2ですからフォーカスがどこにあるのか解らないですけど…。今考えられるのはオシッコですかねぇ、でもオシッコでここまでなるかな?……」そう言ってH先生にしては珍しく迷っているようでした。

 この説明を聞き終わった頃に朝の放送が流れました。朝の放送は、毎朝大体午前7時ころに流れますので、午前7時ころのことだったと思います。

 H先生は、「処置をしますからお母さんは外に出て下さい」と言って一旦病室を出て行かれました。処置に時間がかかると思いましたので、私は、身の回りのものやベッドの周りを片付けるなどの準備をしました。そのうち、大型のモニターやシリンジポンプ等の器材が運び込まれてきたので、私は病室を出て、少し離れたナースステーションの前のソファーで、病室の入口をずっと見ていました。部屋を出たのは、はっきりしませんが午前7時30分頃ではないかと思います。

(3) 間もなく、△△先生、△先生、□先生らが、次々と沙織の部屋に出入りし慌ただしくなりました。私が病室から出てきた□先生に様子を尋ねると、「血圧が下がっているからAラインをとっているけど、なかなか入らない」と言われました。夫への連絡を迷いましたが、午前3時30分に病室を出ているので、少しでも眠らせてあげようとギリギリまで待ちました。

 午前10時30分頃、看護婦さんに言われて部屋に入ると、それまでの沙織と全く違った状態になっていました。そして、H先生から「全ての菌に効く抗生剤を入れてます、血圧が低いので昇圧剤を入れてます、バルーンも入れました」と説明がありました。

(4) 午前11時30分頃に夫が駆け付けました。変わり果てた沙織の姿とモニターの数値を見て愕然としていました。夫が病室にいた0先生にどうなっているのか尋ねると、「敗血症性ショックだと思われます、よく解らないのですが…、血圧が下がって…、オシッコが…」と弱々しい声でボソボソと答えていました。

 0先生は何度も部屋を出たり入ったりし、抗生剤をシリンジポンプに繋いだり、IVHから採血をしたりしていました。沙織は反応を示すことなく、苦しそうにあえぎ呼吸だけしていました。私たちはただ、沙織の顔と、モニターの血圧・心拍を交互に見守るしかありませんでした。血圧は50を切り47〜48と徐々に下がっていました。

(5) 夕方4時頃、H先生から「明日まで持たない、今晩がヤマでしょう。会わせたい人が居れば連絡して下さい」と言われ、私は外来棟の公衆電話で家族と友人たちに連絡しました。次々に友人たちや家族が駆け付け、思いもかけぬ沙織の姿に言葉もなく立ち尽くしていました。そして、皆それぞれに「顔が赤いから大丈夫」「さおちゃん頑張ってるから…」と励ましてくれました。

(6) 小康状態が続き、翌3月1日夜8時前に血圧が10台まで急降下しました。H先生、0先生、W看護婦さんが駆け付け、H先生は一言「厳しいですね…」と言われました。私は夫と二人「さおちゃん、さおちゃん、お願いだから頑張って!約束したよね!」と叫び続けました。モニターの血圧の数値と沙織の顔を交互に見ながら、私の声に微妙に反応していることに気付き、沙織が大好きだった通園施設の歌を私は歌い続けました。すると、血圧がじわじわと上がり始め再び30台まで戻ってきたのです。「やっぱり沙織は生きたいんだ」と確信しました。母親のエゴで苦しませ続けているのではないのだと。



8 上皿(チャンバー)の交換〜沙織が亡くなるまで

(1) その後再び小康状態となり、友人たちが沙織の顔を見て帰宅し、久しぶりに病室で家族三人だけになった時、午後11時頃突然、W看護婦さんが人工呼吸器の加湿器の上皿(チャンバー)を持ってきて交換を始めました。備品交換は曜日が決まっていて、しかも日勤でするのに、「何でこんな時間に…」と思いましたが、私は尋ねる気力もなくただじっと見ていました。夫が「交換するんですか?」と尋ねると、「ええ」とW看護婦さんから一言だけ返ってきました。

 呼吸器の回路を上皿に接続する際、吸気側を先に取り付けたため、上皿からボコボコっと水が溢れベッドの上を濡らしました。W看護婦さんは「さおちゃん、ごめん」と言ってそのまま出て行かれました。この行為が消毒用エタノール誤注入発見直後のことだと後になって知り、ただ驚くばかりでした。

(2) それから少しして、深夜婦長の○○さんが、沙織の急変を知って来られ、しばらく話をしました。○○看護婦さんは以前小児科病棟で勤務されていたことがありお世話になった方です。少し遅れて□先生も入って来られ、「オシッコが出なくなって24時間が限度なのに、48時間ももってるなんて凄い!」と沙織を誉めてくれました。

 二人が出て行かれると、間もなく病棟医長の□□先生が来られ沙織を診察し、呼吸器をチェックして出て行かれました。今までに専門外の病棟医長が診察に来られたことは、重症時のお正月の当直時くらいだったので、沙織は本当にぎりぎりの状態なのだなあと思うと同時に、何も知らないこのときには、専門外の沢山の医師が沙織のことを診て下さることをありがたく思い、感謝しました。

(3) この後、(3月2日)午前1時頃に、0先生が「10分おきに別の薬を入れ徐々に増やしていきます」と言って処置をされました。続いてH先生が入室され、「他の先生にも相談していい薬を入れてもらっています」と説明され、「血圧が
30を切ってここまで頑張っている子は今まで見たことがないですね、本当に強い子ですね」と沙織を誉めて下さり、唇が乾くからと自らワセリンを塗って下さいました。

 今回の入院では、在宅用呼吸器の練習において複雑な思いを抑えるのに限界の状態でしたが、それまでのH先生への不信感や怒りがこの時スーッと消えていき、再び感謝の気持ちで満たされたのを覚えています。

(4) それから沙織は血圧20台を維持し頑張り続けてくれましたが、3月2日午後7時54分に、見る見るうちに心拍が下がり、茶色から蒼白に顔色が変わり力尽きてしまいました。17歳3ヶ月でした。

 H先生に臨終を告げられても私は信じられず、人工呼吸器を外そうとしたH先生をさえぎり、「やめて、さおちゃんが死んでしまう」と叫んでいました。先生と看護婦さんはそのままにして部屋を出て行きました。

 夫はボロボロ涙を流していましたが、私はしばらく涙すら出ませんでした。
絶対にいやだ、信じたくない、あんなに約束していたのに、呼吸器つけて家に帰ろう、バクバクの友だちみたいに今度こそいろんな所に行って楽しいこと一杯しよう……。沙織の死を受け入れることができなかった。「きちんと沙織を送ってやろう」、夫の言葉に促され、私は自らの手で沙織の人工呼吸器を外しました。



9 沙織が亡くなった後〜帰宅まで

(1) 沙織が息を引き取りしばらくして、沙織を綺麗にしてあげるからとY婦長さんや□□副婦長さんに言われ、私は夫と友人たちと一緒にナースステーションの前のソファーに座り待っていました。

(2) 午後10時頃、私たちの所へH先生が来られ、夫に「お話がありますので来ていただけますか」と言われました。私は沙織の死を受け入れられず「なぜ?どうして?」とそればかり考えていたので、他のことを聞く気持ちにもなれず、一旦は夫だけ一人でナースステーションへ向かいましたが、その後ろ姿を見て、やはり沙織のことは全て知っておかなければならないと思い、走って後を追いました。

 長い大きなテーブルのコーナー2辺(Lの字)に、私と夫、そして、H先生と0先生の順に座り、H先生から「この度はお気の毒でした」と一言あって、「こういうことです」と死亡診断書を差し出されました。そして続いて「病理解剖されますか?」と遠慮勝ちに言われたので、すぐさま私は無言で首を横に何度も振りました。0先生はH先生の横に居て終始無言でうつむいておられました。

(3) 私たちはナースステーションを出て友人たちが待つソファーに戻りました。私はこの時のH先生の言い方にとても違和感を覚え、すぐに友人たちに、「H先生おかしなことを言うんよ、『病理解剖されますか』って。病理解剖やったら普通『病理解剖させてもらえますか』よねぇ。私たちの方からそんなもの望むわけないのにねぇ」と言いました。この時のH先生の不自然な言葉は今も強く印象に残っています。

(4) その後、Y婦長さんに呼ばれ、チューブやテープが取れ綺麗になった沙織に対面しました。薄化粧に紅をさし口元が微笑んでいるようで、沙織が高貴な存在になったような気がしました。と同時に、周りが一変しているのに驚きました。少しの時間の間に人工呼吸器やモニター、輸液ポンプ等の病院の器材や備品が全て部屋から出され、狭くて通りにくかった部屋がすっきりと片付けられていました。

 その時、ベッドの足元のサイドテーブルの上にあった物まで全て無くなっているのに気付きました。一瞬信じられず周りを探しましたがどこにもなくて、夫や友人たちにも聞きました。

 サイドテーブルの上には普段から私物ばかりを置いてあり、沙織の生活記録である水分出納表や体温計、そして、タバコの缶の中に耳掻きやヘアピン、沙織の写真(シール)等がありました。水分出納表は病院の用紙ですが、記録は家族が付け、それを看護婦さんが見て看護記録用紙に写していました。今までの退院時にもいつも持ち帰っていました。他の物品も一目で私物と判るものばかりです。私は不思議に思いながらも、慌てて病院の物と一緒に引き揚げたのだろうと、少しして入室した□□副婦長さんに「さおちゃんの水分出納表と体温計とか詰所に持って行ってない?大事な物だから返してくれるよね」と尋ねると、□□副婦長さんは「うん、分かった」と答えました。でもすぐには返ってはきませんでした(※)

 ※ この水分出納表は、沙織の告別式の日、友人の大坂さんを介して□□副婦長さんから受け取りました。また体温計は、数ヶ月後の夏頃、刑事さんを通じて事情聴取の時に戻ってきました。刑事さんの話では、「処置室の流し台の所で見つかった」と言われたそうですが、私は不思議でなりません。手にした体温計は間違いなく沙織の物で、ケースの蓋を開けると沙織の匂いがしていました。でもケースに貼ってあった「ふじいさおり」と書いたシールは剥がされてありました。水に濡れても剥げるようなものではないし、同じメーカー(テルモ製)の体温計でも病院仕様と一般用とはひと目で違いが分かるので、なぜ病室にあった沙織の体温計が、返却を求めてもすぐには戻ってはこず、数ヵ月後に処置室の流し台の上にあったのか理解できず、納得できませんでした。そして、それ以外の私物は結局返却されないままでいます。

(5) それから、帰宅の準備で沢山の荷物をまとめていると、病室に▽▽教授が入って来られました。▽▽教授は沙織の手を握り「よく頑張ったね」と言って下さいました。私は、入院生活の中で、親しくしていた子どもさんが亡くなりお見送りを十数回してきましたが、教授が来られたことは一度も聞いたことがありません。それ故に、沙織の死を受け入れられない苦しみの一方で、手厚い対応に戸惑いすら感じました。

 帰宅の準備を済ませ、病棟の入口を出ると、エレベーターの前に驚くほど沢山の先生や看護婦さんが並んでいました。白衣を着た先生の中には私の知らない方もおられました。

 沙織が息を引き取ってからは、「なぜ?どうして?…」そればかりが身体中を巡っていたので他のことは何も考えられなかったけど、夜中の12時だというのにこんなに沢山のスタッフが見送りをして下さることに、気を取り直し、沙織のためにお礼の言葉を述べました。「17年間お世話になりありがとうございました。先生方には一生懸命治療をしていただき、看護婦さんたちには可愛がってもらい、沙織は幸せでした。京大病院にかかって本当によかったです」。

 エレベータに乗り1階へ降りドアが開くと、3階にいた先生のほとんどが再び待っていて、そのまま駐車場まで付いてきて、車に乗り病院を後にするまで見送ってくれました。手厚い見送りに本当にありがたくてそのときは感謝の気持ちで一杯でした。



10 帰宅後〜

(1) 帰宅してからも、沙織がもう一度目を開けるかもしれないと、顔をさわったり抱きしめたり、片時も離れることはできませんでした。3月3日、夫は駈け付けてくれた友人と葬儀の話をしていました。でも、私はお葬式などしたくはなかった。すれば最後に沙織は焼かれてしまう、お別れなんかしたくない、このままずっと家においておきたかった。

(2) そんな時、H先生から電話があり、夫が話を聞きましたが一旦切りました。そのことを私が聞き、改めて夫と二人で聞いていた番号にかけ直しました。「どうしても今日中に会って話したいことがある」と言われ、私は一瞬、「もしかしたら…」とある期待がよぎり、面会を約束しました。

 沙織が息を引き取ってから、病室に会いに来てくれた□先生に、私は「京大の技術があれば、沙織をこのままの状態で保存しておくことはできないかな」とお願いしました。□先生は研修医の時に担当してもらい、沙織が一番大変だった2年余りの長期入院の時にお世話になった先生で、プライベートなことも話せる信頼できる先生でした。葬儀の準備などで大変忙しい中でしたが、もしかしてそれが可能だという話ではないかと思ったのです。

(3) ところが、夕方4時、H先生とY婦長が来られ、思いもよらぬ事故の報告がありました。「2月28日、日勤のT看護婦が誤ってエタノールのタンクを持ち込み、誤注入があった」と。すぐさま一般細菌検査報告書を示し、「ミスはあったが、これを見てもらっても分かるように、沙織ちゃんは敗血症性ショックで亡くなったと考えています」、そう言われました。私はすぐに「それではミスがなくてもさおちゃんは亡くなっていたんですね」と確認すると、「そうです、ミスがなくても沙織ちゃんは亡くなっていました」と答え、床につくくらい頭を垂れ、H先生は泣いていました。

 正直、私はこの時、事の重大さを理解していませんでした。それどころか、H先生の取り乱し様に、私は「この事故でH先生に何か影響があるんだろうか、責任を取らないといけないような事になるんだろうか」と、逆に心配したほどでした。

 そして、私と夫の目の前で、携帯電話で「今報告が終わりました。……私たちはこれからどうしたらいいんでしょうか」と話していました。携帯を切ると、「事故届を出したので警察が来るかもしれません、検死だけですめばいいのですが、司法解剖になるかもしれません」、「これから記者会見をするそうですが、プライバシーには十分配慮しますので」と言われ、私は「よろしくお願いします」と答えました。

(4) まもなくしてインターホンが鳴り、警察の方が来られ、沙織を司法解剖するので連れて行くと言われました。私は、これ以上沙織に痛い思いをさせたくないし、傷つけたくもないので、絶対に嫌だと抵抗しました。その時、刑事さんが私に向かって言いました。「このまま葬られたら娘さんは無念でならないと思う」。刑事さんの真剣な表情と鋭い目付きに私は言いようのない胸騒ぎを覚え、不安で一杯になりました。そして、首を縦に振りました。それでもこの時はH先生のことを信じていました。

(5) その夜、沙織は下鴨警察署に連れて行かれ、翌4日、京都府立医大で司法解剖されました。夜、連絡を受け迎えに行き、解剖を終えた沙織に対面した時、私は愕然としました。死因に影響ないエタノールの検証をするのだから、気管切開部から肺と胃を確認するものと勝手に思い込んでいたのです。でも全く違っていました。喉に巻いたガーゼは赤く血が滲んでいて、見たこともない帽子をかぶらされ、その下からのぞいていた髪の毛は沙織の髪型ではありませんでした。明らかに頭がずれていて、一瞬にして頭の中まで全部取られたと察しました。「何てむごいことを……」、この時初めて京大病院を恨みました。

 家を出る時は、薄化粧をして口元も少しゆるんでいたのに、解剖後の沙織は赤黒い顔をして半開きの目で私に訴えていました。「ママ苦しかった、私苦しんだんだよ、どうしてこんなに苦しまなきゃいけないの、本当のことを教えて」、何かがあると感じました。

 そしてその後、執刀医の◎◎教授から「エタノールの血中濃度が致死量を超えています」と告げられ、「H先生の説明と違う」、頭が混乱する中、一気にH先生への不信感が沸いてきました。

(6) 3月6日、通夜の席に刑事さんが来られ、「沙織さんの死因をエタノール中毒死と断定しました」と報告を受けました。翌7日、葬儀を終え自宅に帰ると、夜のニュースで沙織のことが報道されていました。

(7) そして、翌日、8日付の新聞を見て驚きました。

  「10年以上前から人工呼吸器を装着」
  「2月下旬から危篤状態だった」
  「(発表が遅れた理由は)家族を説得するのに時間がかかった」

 全てが事実と違います。余りにも沙織の命を粗末に扱っている。大きく膨れ上がった不信が怒りに変わりました。

 それから間もなく刑事さんが二人自宅に来られ事情聴取が始まりました。沙織が苦しんだ時間を何度も何度も繰り返し思い起こし、私には耐え難い辛い作業でした。

(8) 01年1月、書類送検を終え、長い間の疑問や不信を正すため、京大病院に事故説明を求め、3月23日、4月4日の2度に渡り事故説明会が行なわれました。

 この説明会の中で、私たちの決意は確固たるものに変わりました。何故ならH先生の言葉にウソがあったからです。第三者には水掛け論に思えても、当事者にははっきりと判るウソです。

 中でも、3月3日事故報告に訪れた時、「病理解剖を勧めた」と「記者会見の承諾を得る説得をした」という2点については、絶対にウソです。

 前述したように、この時、H先生は病理解剖については一言もありませんでした。そして、私たちは記者会見を拒否したこともないし、当然説得を受けたこともありませんでした。H先生から「プライバシーには配慮しますので…」と言われたことに対して、「よろしくお願いします」と答えただけで、H先生の陳述書(甲第B80号証−18頁)にある「それは嫌です。そっとしておいて欲しい」などとは一言も言っていません。

(9) H先生が、何故こんなウソを言うのか、私は理解に苦しんできました。それまでの新聞記事や刑事さんの事情聴取の中から漏れてくるH先生の供述内容に間違いがあっても、人を介して誤って伝わったことかもしれない、H先生がそんなことを言うはずがない…、という思いが心の隅にありました。しかし、2度の説明会終了後、疑問は解けるどころか不誠実な回答に怒りは増すばかりでした。

 私たちとH先生との会話のことですから、第三者からは分からないと思っているのかもしれません。しかし、私たちには分かっています。目の前でH先生の口からウソを言われ、沙織の死の現場に大きな闇を感じました。ウソが判った以上、後ろめたいことがあるから、不正があるからだと確信し、司法の場で明らかにするしかないと提訴を決意しました。



11 最後に

 H先生は自らの陳述書の中で、「障害の重い子供にとっては『誰かに愛されていること』が『生きている証し』になる」と書いてありました。

 でも、私は違うと思います。
 この子たちは、そんな受け身の存在ではなく、私たち健常な人間がどんなに頑張ってもかなわない強さと輝きを持っています。自らは何もしなくても周りの人間を動かす力です。私たちは重い障害や難病という過酷な運命を受容する強さがなかったから健常な人間として生まれてきたのだろうと、私は沙織を見ていて思うようになりました。

 沙織は一人では動けないし何も話さないけれど、何度も何度も命の危機にあいながらも見事に復活し、『生きたい!』という意思を全身で表現してくれました。私が悩み落ち込んでいる時も、沙織に心の内を話すと不思議に胸が軽くなるし、こんな些細なことで迷っている自分が小さく思え、元気と勇気が湧いてきました。それまでは全く知らなかった人たちが、沙織のことを聞き、ボランティアとして6年以上に亘って毎週沙織の介護に通ってくれたのも、沙織が難病にも負けず頑張っていたからでしょう。私がこの友人たちに出会えたのも沙織のおかげです。

 今まで私は沙織から沢山の幸せをもらいました。そして、沙織が私を母親に選んでくれ、私たちのところに生まれてきてくれたこと、それは私の人生で最大の誇りです。だからこそ、17年間の頑張りを傷つけられ、その最期までねじ曲げられた沙織の名誉を守るため、私は残りの人生の全てをかけて闘います。

 そして、今もなお増え続けている医療事故を防止するためにも、事故隠蔽をなくすことが最も重要だということを訴えたいです。


 W看護婦さんは陳述書の中で、「事故はあってはならないことであり、なかったことにしよう」という医療現場の風土を指摘され、「患者さんにぶつかっても(訴訟にならないために)謝るな」と教育を受けたと書かれてありました。また、事故後1年経った事故説明会の中で、Y婦長さんは、「事故が起きた場合に、ミスはあまりしゃべるなという教育を受けている」と発言されました。

 システムを整備したり、人を増員することも大切でしょうが、それはあくまで二重三重のバリア。最も大切なことは、医師や看護師の患者に向き合う姿勢です。一人一人の命を大切に思う気持ちがあれば、たとえ事故が起こっても隠蔽などできないでしょう。でも残念ながら今の医療界に自浄能力があるとは思えません。

 医療過誤裁判の原告のほとんどは、事故により家族の命を奪われたことに対してはもちろんのことですが、事故隠しやカルテ改ざん、病院のウソの弁明等、不誠実な対応に対して納得できず、提訴に踏み切っているのです。真の再発防止のためにも、事故隠蔽に対して言及していただき、不正のない信頼できる医療の実現を切に願っています。



                   平成18年2月27日

                   氏名  藤 井  香


 京都地方裁判所第6民事部合議係 御中


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