〜平成15年6月23日 刑事裁判・第6回公判 京都地裁101号法廷において〜

   「意 見 陳 述」 (原文)より           陳述者  藤 井  香



 私達のたった一人の娘、沙織は京大病院の医療ミスで亡くなりました。17歳でした。
人工呼吸器で強制的に53時間もの間、消毒用エタノールを吸わされ続け、エタノール中毒で亡くなったのは、世界的にも例を見ない初めての事だそうです。高度な先進医療を誇る京大病院の小児科で起きた、余りにも初歩的な看護婦さんのうっかりミスで、沙織は命を奪われたのです。

 私達にとって沙織は大切な大切な宝物でした。リー脳症という難病のため、寝たきりで気管切開をしていました。その為、全介助が必要で、私は娘から片時も離れることはありませんでした。進行性の難病だったから、いつかは私の側から旅立つ日が来るだろうという覚悟は、心の片隅にいつもありました。でも、その病気のせいではなく、寿命でもなく、看護婦さんの余りにも軽率なミスで沙織を失ってしまったという事が、今でも現実として受け入れられず苦しんでいます。そして、沙織も、なぜ自分があんなに苦しんで死ななくてはならなかったのか、悔しくて悔しくて無念でならなかったでしょう。

 あの日から3年余りが経ちます。

 沙織が元気だった頃は、ホームドクターや訪問看護婦さん、そして、沙織の在宅生活を支えてくれていた友人達やボランティアの人達など、毎日たくさんの人が訪れ、笑い声の絶えない我が家でした。しかし事故後、私達の生活は一変しました。精神的・肉体的苦痛、
経済的圧迫・・・・、いろんな事がありすぎて、何もかも現実感がなく、夢の中の出来事のようでした。

 沙織はいつも、私を見つめ、私を頼り、私に全てを委ねてくれました。私が落ち込むと沙織は不安がり、私が笑うと沙織は身体中で喜びを表現してくれました。いつも私の心を見透かし、勇気付け、励ましてくれました。だから私は元気でいられた。沙織は、私の元気の元であり、生きる力であり、希望でした。沙織の命を守り、育てることが、私の生きがいであり喜びでした。

 生活の全てが沙織中心だった私は、沙織を失い、毎日が失意と絶望のどん底でした。
何を見ても感じることがなく、私の心から魂が抜け、ただ思うのは沙織の事ばかり。遺影の前で骨箱を抱き、泣いてばかりの毎日でした。

 母親の私が24時間そばに居ながら、なぜ気付いてやれなかったのだろう。あんなに苦しんでいたのに、どうして沙織の叫び声を分かってやれなかったのだろう。沙織にすまなくて、何度も何度も沙織のところへ行こうと思いました。でも、そのたびに、主人は泣きながら、「そんな事をしたら沙織が悲しむ。何でこんな事になったのか、自分達できちんと報告してやろう。そうでないと沙織が可哀想で浮かばれない」、そう言って私を諭しました。

 事件の後遺症は、いろんな事で私を苦しめました。同じ年頃の子を見るのが辛くて、外に出られない。沙織のことを聞かれるのが嫌で、誰とも話したくない。掃除も洗濯も食事の支度もできず、ただ泣いてばかり。当り前のことが出来ない自分を責めてばかりの毎日でした。

 家の中は沙織で溢れています。いつも二人で寝ていた電動ベッド。寝返りをして私の後を追い、ぶつかってもがいていたテーブル。沙織が座りやすいようにと京都中を捜し回って見つけたソファー。いざという時のアンビューバッグ。何もかもが小さな主を失って嘆き悲しんでいます。沙織で一杯のこの家に居ることが苦しく・・・・、でも、沙織を感じていられるこの部屋を離れたくない。そんな押さえ切れない想いで胸が張り裂けそうです。

 遺影の沙織はいつも笑っているけど、私の頭の中では、急変してからの苦しむ沙織の顔が・・・・、そして、司法解剖から帰ってきた時の、変わり果てた無残な沙織の姿が離れないのです。


                       * * *


 沙織と過ごした17年間は、かけがえのない何にも代えられない私達家族の大事な大事な歴史です。

 沙織は倉敷で産まれました。元気な女の子でした。ところが10ヶ月を迎えた日、突然の高熱で発病。私は沙織を抱き、病院を駆けずり回り、4軒目の病院で異常が見つかり、
「ここでは診断できないので京都大学まで行って下さい」と言われ、2日後には沙織を抱いて新幹線に乗っていました。丁度、1才のお誕生日を迎えたばかりでした。

 3ヶ月余りにおよぶ検査の後、主治医から説明を受けました。
「沙織ちゃんはリー脳症という病気です。予後は半年から2年です」、目の前が真っ暗になりました。主人と二人、無言のまま、長い長い廊下を歩き、病室を通り過ぎて、階段の踊り場で、声を噛み殺して泣いたことを、昨日のことのように覚えています。

 3週間後、リハビリのため入院していた訓練施設で、ある朝、沙織はグッタリしていました。私はあわてて沙織を抱き上げ、京大へ走りました。外来に着くと即入院と言われ、病棟へ向かうエレベーターの中で突然呼吸が止まり、付添っていた医師がマウス・トゥ・マウスでつなぎ、処置室へ運び、やっとのところで人工呼吸器を装着しました。
「あと10分遅かったら間に合わなかったでしょう」、そう言われ、身体の震えが止まりませんでした。沙織の生死の境を目の当たりにし、初めてこの病気の恐ろしさを実感しました。

 その後、人工呼吸器が外れ、担当の先生から、
「さおちゃん良かったね、半年前に購入した最新型の呼吸器だったから、さおちゃん助かったのよ」、そう言われ、この言葉が私達の人生を大きく変えました。
「京都に引っ越してこよう。何があっても後悔しないよう、沙織に最高の医療を受けさせてやろう」、主人も私も思いは同じでした。そして2ヶ月後、主人は会社を辞め、沙織が1才
6ヶ月の時、私達は家族3人で京都に引っ越して来ました。

 京都に来てからの沙織は、日に日に元気になり、寝返りをして家中を自由に動き回り、
名前を呼ぶと「ハーイ」と手を挙げて返事をし、私のことを「アーちゃん」と呼んでくれ、言葉も出てきて、ゆっくりではあるけれど心身共に確実に成長していく沙織を見て、親として我が子の成長を心から喜びました。

 しかし、その一方で、突然体調を崩し京大病院に駆け込むことも度々ありました。

 4歳の時には、チアノーゼが出て顔面蒼白となり、正面玄関の前に車を乗り捨てて、外来までの階段を一気に駆け上った事もありました。5歳の時には、2年余りにおよぶ長期入院もありました。116日間、人工呼吸器を着けましたが、自発呼吸が回復し気管切開をして退院できました。9歳の時には、「あと2週間の命」と言われた事もありました。

 それでも沙織は、先生達の言われた寿命をことごとく覆してきたのです。
「生きよう」とする人間の生命力は、検査数値や画像データ、過去の文献では決められない、計り知れないものがあるんだと、沙織は私達に身を持って教えてくれました。

 気管切開後の沙織は、感染症との闘いでもありました。夜中になると体調を崩し、主人と二人で懸命に処置をしながら、「直ぐに病院に連れて行くべきか」「もうしばらく様子を見ようか」、判断を誤らないように慎重に、でも不安で一杯になりながら、幾度となく朝を迎えたことを覚えています。そんな時いつも、私の頭の中には「死」という恐怖がありました。それでも、その度に、沙織は懸命に「生きよう」と命の輝きを見せてくれ、「生きること」に常に前向きな姿勢を示してくれたのです。命の大切さ、重さ、はかなさ、いろんな事を沙織は教えてくれました。

 リー脳症と診断された当初、沙織の病気を受け入れるまでには、価値観との闘い、苦悩はあったけれど、それが吹っ切れた時の爽快感は言いようのないものでした。人生観が大きく変わるような感動に日々出会いました。勉強ができるのがいいとか、たくさんお金を稼げるのがいいとか、そんな事ではなくて、人と人が、気持ちが通じ合うという事が、こんなに嬉しいことなんだ、こんなに大事なことなんだ、その事を沙織は気付かせてくれました。

 寝たきりでも、見た目の表情が判りにくくても、小さな変化を見逃さず、人間の可能性を信じて向き合い、働きかけていく中で、引き出されるものがたくさんあります。そういう手応えを感じる時、私は心から喜びを感じました。声かけをすることで、目を大きく見開いたり、身体にグッと力を入れたり、手をかすかに動かしたり・・・・、沙織が必死に応えようとする心の動きが見えた時は、本当に何物にも換えがたい感動がありました。

 命を見つめてきたからこそ感じる深い幸せや喜びを沙織は一杯くれました。
歩けなくても、話せなくても、とにかく私のそばに居て欲しい。
生きてて欲しかった。生きてるだけで十分だった。


                       * * *


 京大病院での入院生活は辛く厳しいものではあったけど、先生達には何度も命を助けてもらい、看護婦さんには可愛がってもらい、私達家族にとって京大病院は、「第2の我が家」のようなものでした。

 最期となった入院で、沙織は3たび人工呼吸器が必要となりましたが、呼吸器を着けることで身体が楽になった沙織は、感染症も起こさなくなり、体力も次第に回復して、状態も安定していました。そんな折、H医師から退院の具体的な話があり、病院用の人工呼吸器を在宅用に切り替え、退院の練習を始めていました。そんな矢先に医療事故が起きたのです。

 看護婦さんはミスを犯した原因に、慢性的な看護婦不足による過酷な勤務状況を全面に出しますが、取り違えミスの原因は本当にそうなのでしょうか。私には責任を逃れるために問題をすりかえているとしか思えません。

 確かに小児科病棟は重症の子供達が多く、看護婦さんも激務を強いられていたと思います。でも、Tさんが調乳室からエタノールのタンクを持ち出した時、一度の確認も出来ない程、疲労困ぱいしていたのでしょうか。
ラベルの文字も読めない程、目も開けていられない程、疲れ切っていたのでしょうか。

 「人は誰でも間違える」、この言葉はミスを犯したことを正当化するためのものではなく、
ミスを犯す者だからこそ、人の命に関わる仕事をする人は、心して対処しなければならない、という戒めの言葉でもないのでしょうか。

 看護業務の基本的義務である「確認の三原則」を常に頭におき仕事を行なっていたのでしょうか。忙しさや慣れに、心に油断はなかったのでしょうか。都合のいい大義名分を掲げるのではなく、今一度、自分の胸に手を当てて問いただして下さい。

 私は、人工呼吸器を着けて何年も在宅で子供をみている親達をたくさん知っていますが、加湿器に精製水以外のものを間違えて注入するという事は、絶対にあり得ない事です。
看護婦さんに親と同じだけの愛情を持って欲しいとまでは言いませんが、患者は人間なんです、人を看ているんだと、命の重さに真剣に向き合っていれば、あり得ないミスです。
絶対にあってはならない、許されないミスです。

 京大病院全体の組織的な問題や、安全管理システムにも大きな問題があります。
しかし、だからと言って、Tさんの責任が軽減されるものでは決してありません。

 私達は、沙織を失った悲しみの一方で、事故後のTさんを含む病院関係者の不誠実な
対応に、その上、更に2重に苦しめられています。

 先の公判で、Tさんのお母さんが、「事故直後に、藤井さんから看護師長を通じて、被告人に対して、『仕事を辞めることなく、これからも頑張ってください』と言っていただいたと聞いて、本当にありがたく思っています」、こう述べられました。

 私達は、沙織が亡くなり、事故のことは何も知らされずに、病院を後にしました。深夜にも関わらず、信じられないほど沢山の医師や看護婦さん達が見送ってくれ、悲しみの一方で、本当に最期まで沙織は幸せだったと、京大病院にかかって良かったと、感謝の気持ちで病院を後にしたのです。

 しかし、亡くなった翌日、H医師とY婦長が自宅を訪ねて来られ、私達は、その時初めて医療事故のことを知らされました。

 「人工呼吸器の加湿器に、蒸留水と間違って消毒用エタノールを注入していたことが判りました。しかし、医療ミスはあったけれど、沙織ちゃんは病気で亡くなったのです」と、H医師から初めて説明を受けたのです。「ミスがなくても沙織は亡くなっていたんですね」との私の確認に、「そうです、ミスがなくても亡くなっていました」と、H医師ははっきりと答えたのです。私達は驚きを隠せませんでしたが、長年お世話になったH医師の言葉を疑いもせず信じたのです。

 その後で、Y婦長から、「Tさんが、ご両親にお詫びしたいと申しております」と言われ、それに対して私は、「この経験を活かしてと伝えて下さい」と言いました。

 しかし、もしこの時、死因がエタノール中毒と判っていれば、また、エタノールの疑いがあると説明されていたら、あのような発言は絶対にしていません。
考えてもみて下さい。冷たくなった娘が、沙織が目の前に横たわっているのです。その娘を前に、医療ミスで命を奪われたと知って、どこの親がそのような事を言えるでしょうか。
しかし、公判では、こうした背景や事実は何も述べられず、私は辛くてなりませんでした。

 Y婦長の証言も、刑事裁判と民事裁判とで、態度が180゜違います。先日の公判でY婦長は、「4リットル容器を採用した時、両者が似ていると思い、取り違えの危険性を感じました」、また、「薬品管理の責任は私です」、そして、「私を含めた病院及び国の責任がたくさんある」、そう述べて、Tさんをかばっておられます。

 しかし、婦長自身が責任を問われている民事裁判では、「保管場所から持ち出す際に注意すれば、見分けることは十分に可能であったから、その取り違えによる事故が起きることは事前に予見できなかった」、そして、「京大病院の薬剤管理に問題があるとしても、それは京大病院全体のシステム的な問題であり、婦長ら現場の末端管理者個人が責任を負うべき問題ではない」と、責任を否定しています。

 刑事と民事の一体どちらの発言が、Y婦長の本当の言葉なんですか。
傍聴席にいて、私はそう叫びたい気持ちを抑えるのに必死でした。

 また、Tさんは、事故後の私達との説明会で、次のように言われました。
「私がエタノールと滅菌精製水を取り違えたことを知ったのは、3月1日の午後11時過ぎでした。・・・・処置室のベッドの上に置いてある白い容器を見た瞬間に、私は2月28日に自分が日勤でその容器を換えたことを思い出しました。その時、頭が真っ白で、自分が取り違えたということを、その場で言わなければいけないと解っていたんですけれど、言い出せなくて・・・・」、このように、私達の目の前で、自分の取り違えをはっきりと話されました。

 しかし、先日のS看護部長の証言で、京都府看護協会が主催の嘆願書の話しがありましたが、そこには次のように書かれています。「看護師は、自ら『自分が間違った可能性は高い』と認識しており、・・・・周囲の状況から考えて、自分が間違ったのだろうという結論を出し、これを受け入れているのです」とか、「客観的に見ると、彼女が間違ったという確かな証拠はありません」、このように書かれています。

 嘆願書には、事件の経緯も、沙織がエタノール中毒で亡くなった事も書かれていません。この嘆願書の在り方自体にも問題を感じますが・・・・。Tさんは、私達との説明会では、自分の取り違えをはっきりと認めているのに、この嘆願書にある内容は決してそうではありません。ここに書かれている事がTさんの本心なのですか。

 私には、Tさんが、「本当に自分の犯したミスに、正面から向き合っているのか」、それすら判らなくなってしまいました。私達が今もなお苦しんでいるのは、こうしたTさんを始めとした病院関係者の、その時々の、場面場面での一貫性のない言葉や態度にあるのです。

 また、これまでの公判での証言で、傍聴席の私は、一体誰が本当の被害者なのかと憤りを感じました。Tさんの取り違えで、あんなに苦しんで死んだ沙織の存在は、一体どこに在るのですか。被害者は沙織ではないのですか。それとも、患者1人が死んだ医療ミスなんて、医療者にとって大した事ではないのですか。死んだ沙織に、本当に「すまなかった」と、心の底から思っているのでしょうか。

 民事裁判で京大病院は、その後の調べで、沙織の血中アルコール濃度が元気な人間でも致死量とされる数値の2倍にも達していた事が明らかになっているのに、Tさんの取り違えから直ぐの急変、そして沙織の死を、「死因はエタノール中毒だけではない」と主張しています。また、「エタノールによる苦痛はなかった」とも言っています。

 病院のミスで沙織はあんなに苦しんで死んでいったのに、何でこんな理不尽なことを言われなければならないのか。沙織が可哀想でなりません。

 しかも、Tさんのミスさえ無ければ、沙織は、あんなむごい司法解剖をされる事もなかったのです。我が子の臓器を1つ1つ確認しなければならない親の気持ちが、どんなに辛く苦しいものか、あなた方には解っているのでしょうか。

 現在、私達は、Tさん1人を起訴とした処分内容を不服として、検察審査会へ申し立てをしています。医師や婦長の過失責任も明らかです。Tさん以外の関係者についてもきちんと責任を取ってもらいたいと思います。


                       * * *


 今の私は、Tさんが本当に心から反省しているのか疑問に思っています。Tさんは、精製水と消毒用エタノールを取り違え、誤注入したことだけを認めているに過ぎず、発見後の事実経過を明らかにしようとはしていません。

 私達がなぜ訴訟を起こしたのか、Tさんは十分に判っているはずです。しかし、民事裁判でもTさん自身の声は何一つ聞こえてきません。

 事件の本質に目を向けて欲しいのです。私には、Tさんは組織に従順としか映りません。事件の本質や、被害者の痛みをおきざりにして、再発防止だ安全システムだとか言っても、それは「机上の空論」にしか過ぎません。その前に当事者として、まず第一にやるべき事があるのではないでしょうか。

 いくらマニュアルができても、システムが整っても、それを使いこなすのは人間なんです。その人間が、被害者の痛みや苦しみを理解して、心から反省し、自身が知り得る事件の全容を明らかにして、きちんと責任を取ってこそ、医療の改善につながるのではないでしょうか。それが「事故に学ぶ」と言う事であり、再発防止への第一歩だと思います。

 発見した看護婦さん、そして、ほぼ同時刻に自分の取り違えに気付いていたTさんは、なぜその場で私達に知らせてくれなかったのか。なぜ私達に事故を隠したのか。感謝もしており、信頼もしていた、その人達に事故を隠され、裏切られた時の、私達の気持ちが分かりますか。

 信頼していた病院だったからこそ、誠実な対応をして欲しかった。

 看護婦として誇りを持っておられるのなら、自分の犯したミスに対して、プロとしてきちんと責任を取って頂きたい。医療事故防止のための活動なら、看護婦としてではなくても出来るはずです。

 私は、この先一生、Tさんを憎み続けたくはないのです。一生かけてでも、Tさんを許すよう努力したいのです。だからこそ、その為にも、Tさんには、自らの言葉で、病院内であった事実を、ありのままに正直に声にして欲しいのです。

 難病にも負けず、17年間頑張ってきた沙織の最期を、これ以上汚すような事はしないで下さい。

                                                 以上
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