第18回勉強会
 この国の教育改革は何をテーマに
            行われるのか


2000.3.3 
文部省官房政策課長 寺脇 研 氏


第18回勉強会は、3月3日「この国の教育改革は何をテーマに行われるのか」と題し、文部省官房政策課長寺脇研氏を招いて行われた。
当日は平日の夜にもかかわらず40名の会員、非会員が参加し、盛況のうちに開催された。

<教育改革における2つの流れ>  
教育改革には2つの流れがあり、1つには教育そのものに関する考えがあり、もう1つには教育制度に対する改革のながれがある。もちろんこの2つのながれは表裏一体のものではあるが、いわゆるハードウェア的な部分とソフトウェア的な部分といってもいいだろう。  
最近学力低下が言われているが、これはソフトの方の話であり、教育内容を減らそうとしているわけではなく、全員が共通に覚えなければならないことを減らしていこうとしている。その減らした分を学びたいことの方へ回していこうとしている。
具体的な説明として、週刊文春の批判を例にとってみると、今までThis is a pen.と教えていたところを、This is aまでしか教えないのか?という批判はそのとおりです。Penのような名詞は日常生活を通して覚えればよく、構文を教える時には省いて良いと文部省では考えている。

<教育の自由化=画一的教育の改革>  
今まで私達が受けてきた教育は、昭和20年代に確立された、50〜60人の教室での一斉授業における効率良く教えるために作られてきたものであった。更に、当時は中学までで学業の機会がなくなる人は6割という状況であった。従って中学3年間の内に英語を学ぶ必要があり、集団でThis is a pen.をおぼえなければならない、いわゆる詰め込み授業の形態がここに由来している。
しかし、時代が変わっても、同じような形態の授業を行う必要があるのだろうか?という疑念がしょうじてくる。構文はおぼえてもらわなければならないが、英語で表現したいことを自分の創意工夫で選択すれば良いという画一的な形をとらない方法もあってもよいのではないだろうか。
中学を卒業した後も高校で3年間英語は学ぶし、日常生活でも英語と接するチャンスも多い。自分で学びたいことは必修の量を減らすことで逆に増大するのではないだろうか。「詰め込み教育」を行っていくと、 詰め込んだはいいが、理解できない→落ちこぼれを排出していく→落ちこぼれの疎外感→いじめ、校内暴力等の様相の大きな原因になっていくのではないか。この時期に詰め込み教育をやめるべきではないかという考えにいたった。教えることが多すぎるのであれば量を減らせばよい。
しかし、全員一律に減らした場合、学力が低下してしまう。 そこで、全員画一的に教えていくことをやめて、みんなが知っていることは減らしていく、そのかわり、個々に興味のあること、好きなことは増やす方向で進めていく。中学校で英語はみんな学ぶが、フランス語でもドイツ語でも中国語でも、ハングルでも個々に選択してよくなる。

<21世紀のビジョン>  
20世紀の教育は単一の目標を設定して教育をおこなっていた。例えば「末は博士か大臣か?」と言う形で単一のモデルを提示してきた。しかし21世紀を目指そうという時に「こうなったら絶対に幸せになれる」というモデルを提示できるかは疑問である.だとするならば、どのような人間になっていくのかは自己決定させる外にない。自分でモデルを作っていけば良い。60%か70%の学ばなくてはならないミニマムスタンダードは何なのかまでは文部省では今すぐ決定できないので、これから国民的議論をおこなっていかなければならない。
学習指導要領今まで一度決めたら10年間は変えられなかったが、議論の方向によっては毎年変えていってもよい。先行きがみえないじだいであるから、どういうことをどれだけ子どもが知っている必要があるのかは流動的な時代 である。

<不易と流行>
これまでの文部省の教育は不易なことが多かった。これまでの不易な知識も必要だが、有効な知識も必要になっていく。しかし、その時に全員が有効な知識を持つということに無理がある。やはり分業化がはかられなくてはならない。その考えに沿って小学校、中学校、高校の教育を変えていきたい。

<大学教育の改革>  
大学の教育は文部省では変えられない。大学自身が変えていこうとしない限り、変わっていかない。日本の学校教育の中で最も劣っているのが大学教育である。日本の大学は研究分野では超一流かもしれないが、学生を教育する力は世界でも劣っている。日本の小学校と世界の小学校を比較してみた場合遜色ないが、日本の大学教育と世界の大学教育とを比較すると明らかにおとっている。
日本の大学は研究偏重で、、大学教育をおろそかにしているのではないかという批判に応えていかなければならない。 そのためには大学に対して2つの方向からの働きかけが必要である。1つには大学を支える社会からの働きかけである。もし、大学が教育を放棄して研究に純化するならば、大学の独立法人化や民営化という形で社会からの教育要請圧力が強まるだろう。 もう1つには「自ら学び考える学生を作っていくという内部からの働きかけがある。10年1日がごとく同じ講義内容教授に対するチェック機能を質問という形で持たせていく。
前述したオプショナルな30%自分で持たなければ、能動的な教育は受けられない。能動的な教育を目指せない大学は学生の方から選択しない時代が来ようとしている。現実に子どもの数が減ってきており、この春から大学全入の時代がやってきていること、高校を卒業した50%が大学に入っており、専門学校を含めると70%が上の学校へ入学していることなどから、この時代に自分に力を着けてくれない大学は選択しなくなるだろう。大学は社会からも学生からも大学教育の中身をつきつけられてくることで変わらざるを得なくなってくるだろう。 <地方分権と住民自治> 福祉や金融ばかりではなく教育の分野ニモ地方分権ト住民自治の流れが入ってくる。教員の定員をはじめとして財源も、決定権も地方へ分権していく。この結果、「月刊現代」誌上で清水よしのりとの対談で語ったが、「文部省をなくそう」という流れになっていくこともやむをえないだろう。 これが教育における地方分権とかんがえている。         


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