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何故「嫌い」=「悪い」になってしまうの?

 バーチャファイターシリーズで共通して存在する戦略に「待ち」がある。試合全般にわたって自ら技を仕掛けずガードに撤して相手がスキのある技を出したところを反撃するという戦略である。これは相手の技をきちんとガードすることができるのなら非常に有効な戦略である。当然といえば当然だがこの戦略をとる相手と戦うのは非常に神経をすり減らす。なにしろこちらが出す技はことごとくガードされ、スキの多い技でも出そうものなら手痛い反撃を喰らってしまうのだ。私の神経を逆撫でするこの戦略をとる相手が私は大嫌いだ。技を出しても出しても勝てないのが納得いかない。好戦的意識を感じさせないところも気に入らない。なんで僕が負けるの?

 近所のゲーセンに「待ち禁止」の貼り紙があった。「待ち」の相手に汚い言葉を直接発する人を見たこともある。パソコン通信でも「待ち」で戦う人をまるで犯罪でも犯しているかのように扱っている発言も見られる。「待ち戦略」=「悪」という図式ができているのだ。私はこの状況を非常に悲しい思いで見ている。「待ち」が嫌いなのは結構。私も「待ち」は大嫌いだ。それは私の戦略思想と相容れないからだ。

 だけど何故「待ち禁止」になるの? そこが私には納得がいかない。自分達の思想と合わないものを何故排除するの? 何故異質なものの存在を認めることができない? 何故戦略の多様性を好しとしない? 「自分達が気に入らないもの」=「悪」という排他主義が僕は悲しい。楽しくゲームがしたいから「待ち」は禁止? 何なのその自分勝手な思い入れは? ゲームの遊び方はいろいろあっていいはずでしょ。遊び方に勝手に枠をつくってその枠に入らない遊び方をする人を認めないなんて寂しいよ。これが小さい頃から枠からはみ出す者に対して寛容になれない教育を受けてきて、いつの間にかそれに飼い慣らされてきた私たち校則世代の典型なのか。「待ち」を好きになれと言ってるんじゃない。存在を認めよう言っている。格闘スタイルには信長(鳴かぬなら殺してしまえ)がいてもいいし、秀吉(鳴かぬなら鳴かせてみよう)がいてもいいし、家康(鳴かぬなら鳴くまで待とう)がいてもいい。「嫌い」と「悪い」を混ぜこぜにしちゃいけないよ。