九尾の狐-II/The 2nd Tale




「…いつもの奴でよろしいですか? 現金で、それとも?」

 苦笑いして煙草、と云うと、彼女は書類を読取機にかけた。シュレッダを兼ねた読取機から低い音と共に崩れた書類が吐き出される。全ての書類がそうして処理されると、噂屋は砕けた書類を一掴み抜き取り、無造作に番台の傍らの火鉢にくべた。ぱぁっと燃え上がったその脇に、ハイライト三箱とバラで八本を積んで、噂屋はそれを差し出した。

「どうぞ」

 私はバラの奴を一本口にくわえると、ゆっくりと、燃える炎に顔を近づけた。

*    *    *


 また、少しばかり世間話をしてから店を出た。三箱と八本。手持ちの情報は予想外に高く売れた。どうもたまたま誰ぞの欲しがってるネタに当たったらしい。気分が良いので、私は爆心街で一杯やっていくことにした。

 川沿いの二宮金次郎のすぐ近くに「べに屋」という屋台がある。屋台と云ってもくるまに載っている訳ではなく常設(はっきり云えば無許可の非合法店舗)で、どうも親爺は関西から流れてきたらしいがここの煮込みが滅法旨い。
 丈の長い暖簾をくぐると、もうそれだけで旨そうな匂いが漂ってきた。だが店内の、十ほどしか席がないカウンタはもういっぱいで、奥の方にどうやら一席空いているだけであった。隅っこの冷たい風が入ってくるところで、おまけに隣は初めて見る顔の胡散臭い黒眼鏡の爺いである。他所にしようか…? しかし並び待ちがいることもしばしばのこの店で席が空いてるだけでも見つけもんだ。それに、この匂いを嗅いでしまったらもう堪らない。 私は店主に熱いのを頼んでおいてから一旦外に出て裏に回った。

 まさか神田川で取れたものでもあるまいが、突出しに地物の煮穴子なぞが出てきて、すっかり私は嬉しくなった。…旨い。雑司ヶ谷の双葉寿司にこそ一歩譲るが、久々に旨い穴子だ。酒がたちまち底を突く。私は煮込みと、いくつかの肴と、もう一本熱燗を頼んだ。
 このご時世に平然と灰皿が出ているのも、ここが爆心街だからだろう。店内にも何人かが煙草を手にしていたし、なんだか一昔前に戻ったようだ。これなら、大丈夫かな…。私は懐からシガレット・ケースを取り出し、尻をとんとんと叩いてから煙草に火を灯けた。すると果たして隣りの黒眼鏡が声を掛けてきた。

 「恐れ入りますが」

 …きやがった。表で煙草なんぞくわえてると厚かましいのがこうして声を掛けてくるのだ。店の親爺もそれに気づき男を止めようとしたがどうやらそれは早とちりだった。

 「…幾野さんではないですか?」

 驚いて黒眼鏡を見直したがどうも見覚えがない。眼鏡を外してくれと頼んだが、目がよくないという仕草をするので諦めた。はて、どこで見た顔だ…?

 「いえ、ご存じないのも無理は御座いません、私はお父上と多少商売上のお付き合いがありまして…」


 コーンと鹿威しが(この店には何故かシシオドシがある。看板代わりか?)心地よい音を立てた。親父と? あの真面目一辺倒の親父が爆心街なんかと何の関わりがあったというのだろう。私は改めてこの男を観察した。くたびれた作務衣に黒いマフラー黒い眼鏡。そして禿あたま。いかにもいかがわしい出で立ちのその男は自らを暗号屋だと名乗った。
 暗号屋だ? 私は唐突に思いだした。そうだ暗号屋! 一昨年親父が定年して一緒に飲んだ時に云っていたではないか。爆心街に暗号屋というものがある、と。人を喰った男だが腕は確かだ、お前も何ぞ暗文で困ったことがあればこの男を頼るがいい。親父は何故だか楽しそうに笑い私にこう云ったのだ。そう、親父が笑うとこなんぞ餓鬼の時分から見たことがなかったからずいぶん奇異な感じがしたのを覚えている。
 この男がその、暗号屋? 私はこの男と話をしてみる気になり、一本だけ煙草を勧めてみた。案の定暗号屋はこれを受け取ったが、店主ももちろん今度は何も云わなかった。

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