メール17<ポコ先生へ>

暑中お見舞い申し上げます。朝日カルチャーセンターでの話、無事終りました。8月には山梨英和中学校・高校の山梨英和校内教育研究会「死への準備教育_慶應高校での試み」でさらに詳しく話をする予定です。今回はその原稿をお送りします。 邪身羅

 

■山梨英和校内教育研究会「死への準備教育-慶應高校での試み」■

「死への準備教育」のすゝめ

-みんなで学ぼう、死に方のコツ・死なせ方のコツ-

 

3つのポイント

(1)何を、どのように教えているのか(授業の内容と方法)

(2) どのようにしてカリキュラムの中に取り入れられたのか(導入の過程)

(3) どうして教えるようになったのか(経緯と動機)

 

キーワード

独立自尊、尊厳、自立、生きがい・愛の意義・死にがい、QOL

Informed Consent・Truth Telling・ Self-Determination

成長、コミュニケーション、新しいアイデンティティの誕生

 

1)前置き

小宮山校長先生、今日はお招き下さいまして、どうもありがとうございました。また、榎本先生をはじめ、皆様、こんなに大勢お集まりいただきまして、ありがとうございました。

今日は、慶應高校で2年前から始った「死への準備教育」についてお話をするために、ここに参りました。

ところで、皆様は「死への準備教育」と聞かれて、どのように思われるでしょうか。「死への準備教育」。英語ではDeath Educationと言います。Death Educationというのは、文字どおり「死の教育」ですね。「死生学」はThanatologyと言います。Thanatologyの語源はギリシャ語の「死」を意味するタナトスと「学」を意味するロゴス、タナトス・ロゴスが組み合わされて造られたのがThanatologyですから、「死学」になるわけです。

「死への準備教育」というと、どこか暗い、病的な授業のように思われがちですが、結論から申しますと、事実はむしろ正反対なのです。皆様は、びっくりされるかも知れませんが、むしろ死を見つめることが生についての考えを深め、現在の私たちの生をより豊かにしてくれるのです。この意味で、Death Education(死の教育)は、本当は Life Education(生の教育)、即ち「死への準備教育」は「生の準備教育」に他ならないのです、本当は。

たとえば、皆様の中にきっとご存知の方もおられると思いますが、大阪の淀川キリスト教病院にホスピスがありまして、そこに柏木哲夫先生というお医者さんがおられます。柏木哲夫先生は、こう言っています。自分が多くの死にゆく患者さんから教えてもらったこと、それは何かと言えば、人間は「生きてきたように死んでいく」ということ。つまり「人は生きてきたようにしか死ねない」ということを、教えてもらったのだと言っています。

それは一体、どういうことを言っているのでしょうか。柏木哲夫先生は、ホスピス医として400人近い患者さんの死を看取りました。柏木哲夫さんは著書の中で「患者さんの中には本当に平安な死を迎える人があるかと思うと、苦しみ、悩みながら死を迎える人もある。その有様は人それぞれ、実に様々。しかし多くの人々の死を看取ってきて、最も強烈に印象に残ったこと、また教えられたことは何かと言えば、それは『人は生きてきたように死んでいく』ということだった。つまり、しっかり生きてきた人は、しっかりと死んでいく。そして、人に感謝しつつ生きてきた人は、人に感謝しながら死んでいく。人をいたわって生きてきた人は、残される者をいたわりながら死んでいく。一方、周りに散々依存して生きてきた人は、やはり散々、医者や看護婦に、そして家族に最後の最後まで、依存しながら死んでいく。すべて、その人の生きざまが、死にざまに反映するということが、患者さんから教えられた一番大きなことであった」(「安らかな死を支える」)、と言うのです。

人それぞれに「死に方」が違うのは何故かというと、人それぞれに生きてきた人生が違うからだと言うのです。つまり、その人の「生きざま」がその人の「死にざま」に反映するというのです。だから、生き方が違えば、死に方も違ってくる。これを言い換えると、「死に方」と「生き方」は切り離することが出来るものではなく、同じだと言うことです。

ところが私たちには悪いクセがあって、「生き方」と「死に方」とを勝手に切り離して、別々に考えているのではないでしょうか。生を考えることは楽しいから結構なんだけれども、死はどこか不吉でイヤだから、考えない。つまり、私たちはどうも「臭いものには蓋をする」傾向があって、死を避け生きています。死をタブー化しているのです。

しかし、私たちは死を邪険に扱って、学校教育からシャットアウトしているから、死を閉め出してしまっているから、だから子どもたちはいつまでたっても、生も死もわからないままになっています。これが今日の学校教育の現状なのではないでしょうか。今の日本の教育の現場は、「君たち、学校にナイフを持ち込むな」とか、「持ち物検査」とか、その程度のことで、どうにかなるとでも思っているのでしょうか。そんな呑気な話ではない、と私は思うんです。そんなことより、なぜ学校教育の中に「死への準備教育」を取り入れようと真剣に考えないのか、と思うのです、文部省は。

亡くなった千葉敦子氏というジャーナリストは乳癌と闘いながら、上智大学で講義をしておりました。その時の講義内容が「よく死ぬことは、よく生きることだ」という本の中に収められていますが、千葉氏は次のように語っています。「人間は、だれもがいつかは死ぬのであって、死なない人はひとりもいないのですが、日本では死に関する勉強が大変遅れておりまして、ごく普通の日本人について言うなら、死についてあまり考えたこともない、という人が大多数ではないかと思います。死について考えたことがない、というのは、生きることについて真剣に考えたことがない、というのと同じです。」と述べています。 つまり、千葉さんに言わせると、死について考えたことがないというのは、生きることについて真剣に考えたことがないのと同じことです。『よく死ぬことは、よく生きることだ』という本の題名からもわかるように、千葉さんとって「死ぬこと」と「生きること」は同じことなのです。

今、私たちは学校教育の中で何をしなければならないのか。今、私たち一人ひとりが一番考えなければならないことは何なのか。それは、やはり、「真剣に考える」子どもたちを育てていくことではないでしょうか。そのために、私たちは勇気と自信をもって、「死」を子どもに教えていけばよいのです。なぜなら、明日の日本を担う子どもたちは、この「死への準備教育」の中から確実に育まれる、と考えるからです。そして、千葉敦子氏は講義の最後を次のように説いて、締めくくっています。「ひとつの文化の高さを計る尺度はいろいろあると思いますが、国民が豊かな気持を抱いて死ねる社会が建設できれば、その文化は非常に高い水準にあるといえるのではないでしょうか」。つまり、一国の文化水準を計る物差しはいろいろあるけど、その大事な物差しの一つは豊かに死ねるかどうかだ、と千葉氏は言うのです。では、豊かに死ねる社会というのはどういう社会なんだというと、「心豊かに死ねる社会というのは、どんな難病にかかっても、病気が人生をぶちこわしにしない社会でもあるはずです。どんなに重い障害を負っている人でも、生き甲斐を持てる社会でもあるはずです」と結んでいます。つまり、人がどんな病気にかかっても、病気によってその人の人生がぶちこわしにならない社会、どんなハンディキャップを背負っていても生き甲斐を持ち続けることのできる社会だと言うのです。

そういう社会を築き上げていくのは、国民一人ひとりの仕事であるわけですが、私たちは子どもたちに死を教えることによって、そのような子ども一人ひとりを育てていくことが出来るのではないでしょうか。また、育てていかなければならないのではないでしょうか。実は、そういう子どもたちを育てようとするのがこの「死への準備教育」なのです。

ある看護婦さんは「死」について、こう語っています。「死ぬとは誰もがいつかは行くところへ先に行くこと」。つまり、死というのはですね、この看護婦さんにとっては後、先だけの問題なんだというのです。結局、最後は誰でも死ぬんです。これが、これまで看取った多くの患者さんから学んだことだ、とこの看護婦さんは言っているのです。

本当に死なない人は一人もいない。みんな死ぬんでしょう。だから、死の話は暗いから「やめてよー」といわれても、死ぬのをやめることはだれにもできないのです。

お互いに死ぬ身の人間であればこそ、死ぬときは、なるべくよく死にたいと考えるのではないでしょうか。そして、もし「人は生きてきたように、死んでいく」のであれば、よく死ぬことは、よく生きるとに他なりません。敢えて残酷な言い方をしますが、年老いたお爺ちゃんやお婆ちゃんは、すでにこれまで生きてきてしまっていますので、それでもって死んでいってもらう他ない人たちなのです。そして、人生半ばまで生きてきてしまった私たちは、何も「すでに手遅れだ」と言っているわけではありませんが、死に方の半分がすでに決まっています。だから、これからの生き方次第によって、死に方の残り半分がこれから決まる人たちなわけです。ところが、これに対して、これからまさに生きんとする子どもたちというのは、私たちと違って生き方が100%オープンになっている分、これからの生き方一つで、どのようにも死ぬことができる人たちなんです。したがって、「死に支度」は「生き支度」でもありますから、「死への準備教育」は子どもたちにこそ、もっとも相応しいものなのだ、と言うことがのではないか、と思うのです。

少々長くなってしまいましたが、前置きはこれぐらいにして、これから本題に入っていくことにしたいと思います。

 

 

 

 

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