生と死を考える授業としての「死への準備教育」の内容(1996年度から1999年度)

これまで「生活一般」では毎年、年度最初の授業において、年間授業内容を説明したプリントを生徒諸君に配布してきました。1996年度から1999年度までの各年度のプリントに載せた「死への準備教育」に関する部分の記述を御紹介します。

 

 

1996年度「死の教育(Death Education)」- 死とどう向き合うか

 ドイツの哲学者、マルティン・ハイデガーは人間を「死への存在」と定義した。誰にでも死は確実に訪れる。確実でないのは、それがいつかということだけである。死そのものは、誰も前もって体験することは出来ない。しかし、われわれはその死を身近な問題として考え、他者と自己の死に備えて、自分自身の心構えを準備することは誰にでも出来ることであるし、また必要なことでもある。

 また、人間は「生きてきたように死んでいく」とも言われる。言い換えれば、「人は生きてきたようにしか死ねない」ということである。しっかりと生きてきた人は、しっかりと死んでいく。人をいたわって生きてきた人は、残される者をいたわりながら死んでいく、と。一方、いい加減に生きてきた人は、いい加減に死んでいく。すべて、その人の生きざまが、死にざまに反映するという。従って、「よき死を迎えるためには、よき生を生きなければならない」という意味において、Death Education(死の教育)とはLife Education(生の教育)に他ならないのである。

 

 

1997年度「死への準備教育」

 人はこの世に生を享けた瞬間から、絶えず死に向かって歩み続けている。人生の終わりに死が訪れることは、誰にとっても確実である。ただいつ、いかにして訪れるかが不確実なだけである。

 諸君はおそらく、これまで火事や地震に備えて防災訓練を受けたことがあるであろう。一生の間に一度、経験するかしないかの不幸のために防災訓練をするのならば、誰にでも必ず訪れる人生最大の不幸ともいうべき「死」への備えをしたとしても、それは何も異常なことではなく、むしろ望ましいことであろう。

 死すべき存在であるわれわれは、どうしてもまず、身近な人の死を看取ならなければならないのである。そして、自らも身近な人を残して死んでいかなければならないのである。

 諸君、このことを忘れないでいただきたい。死に方には下手な死に方と上手な死に方がある。そして「死への準備教育」は諸君一人ひとりが、上手な死に方のコツを学習する場であることを。なぜなら、上手に相手が死んでくれないと諸君自身がたまらないし、また上手に自分が死ねないと残された者がたまったものではないからである。そこで学ぼう、死に方のコツ。一人ひとりが死に上手、死なせ上手になるために!

 

 

1998年度「死への準備教育」- なぜ今、「死への準備教育」か?

 現在の日本の社会では、核家族化と病院死の一般化によって、お産と同様に、死もまた畳の上という日常の家庭生活から姿を消してしまった。そのことによって現代の子どもたちは、自らの日常生活の実の場で家族の生と死を通して生命の神秘も、死の厳粛さも、実地に体験学習する機会を奪われてしまった。一方、中学生や高校生によるイジメ、自殺、薬物乱用、援助交際、殺傷事件なども頻発しており、自己や他者の肉体が傷つけられ、人間の尊厳や命の尊さが踏みにじられている状況がある。誰にでも例外なく訪れる「死」を学ぶことによって、われわれは生きているのと同じ確実さで死ぬとき、人はみな、同じ恐怖、同じ悲嘆をいだき、同じ運命を共有する存在であることを理解するに到るであろう。そして、そのことによって、彼らも互いに助け合うことを学ぶことこそすれ、互いに傷つけ合うことはしなくなるであろう。

 また、哲学するとは死の問題の研究以上のなにものをも意味しない、と教えているのは古代ギリシアの哲学者たちである。そして、「死というものがなかったら、この地上には詩人が生まれなかった」と語っているのはトーマス・マンである。あるいは、ミケランジェロは「死がそのミノをもって彫ったのではないどんな思想も、わたしのなかには存在しない」とも、述べている。

 それならば、「死への準備教育」を学校教育の中に取り入れない理由がどこにあるであろうか。しかも、人類最古の歌が葬送歌であったとするならば、死は哲学、文学、美術に限らず、音楽の領域においても偉大な霊感の賦与者でもあった。ましてや、死はまた人間の倫理的な態度に強い影響力を及ぼし、倫理の偉大な教師でもあるならば、学校教育の中に「死への準備教育」を引き込みながら死を学ぶことは、豊かな人間教育であり情操教育ともなり得るであろう。

 ところで、もし「人は生きてきたように死んでいく」のであれば、「死への準備教育」は老人には酷であろう。何故なら、老人たちはすでに人生の大半を生きてきており、その生をもって死んでいく他ないからである。しかし、高校生諸君にとっての死に方は、これからの生き方次第なのである。「死への準備教育」は「生への準備教育」であり、諸君にこそ相応しい所以である。

 

 

1999年度「生と死を考える授業としての『死への準備教育』」

 かつて、家族の祝福の中で産声をあげ、悲しむ家族の交わりの中で看取られながら、誰もが住み慣れた自分の家で死んで逝った。誕生と死は日常的な生活の延長線上に存在する自然な営みであった。昔は誰もがそのことを日常の生活の中で学んでいた。

 ところがこの50年の間に、日本人の誕生と死のありさまは大きく変化した。誕生と死の病院化が急速に進み、現在では誕生も死も家族や日常生活から切り離されてしまった。1950年には、誕生の95%、死の90%は自宅であったが、その後、在宅分娩、在宅死は急激に減少し、今ではほぼ100%の人が病院で生まれ、約8割の人が病院で亡くなっている。

 このように誕生も死も日常生活から隔離された結果、我々は死への準備が困難となった時代に生きている。一生に一度、発生するかしないかの火災や地震に備えて防災訓練をするように、発生率100%である死に対して高校時代に一度ぐらいは心の備えをする、このことは必要なことではないだろうか。「死への準備教育」というのは、死が現実のものとなった時、誰もが慌てふためかなくてもよいように、非常に大事で、必要なことではないだろうか。

 人間の寿命は一様でない。短命な人もいれば、長命な人もいる。世の中には、死産で生れてくる子、成人式を迎える前に世を去る人がいるかと思えば、きんさん・ぎんさんのような長寿の方もいる。また、生命維持装置のような医療器具の高度な発達によって、人間の命を機械的・技術的に延命することも可能になってきた。

 クオリティ・オブ・ライフとは何か。第二次大戦中、ヒットラーの命令により38歳の若さで処刑された、あるドイツの哲学者は、死を前にして人間の一生の意味について、独房の中で次のように書き残している。「もし、一人の人間によって、少しでも多くの愛と平和、光と真実が世にもたらされたなら、その一生には意味があったのである」と。神父でもあったこの若き哲学者は、命の長さの中に人間としての価値を見い出してはいない。逆に言うなら、もし「愛と平和、光と真実」の代わりに、「憎しみと争い、闇と偽り」をもたらしたのなら、その一生に意味があると言えるかどうか。まさに苦難と絶望の中にあって、この哲学者は「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題」になっていた。死を見つめることによって、我々もまた、このことを学ばなければならないであろう。

 かつて、ドイツの名指揮者フルトヴェングラーの演奏について、ある著名な日本の政治学者は次のように語った。「『明日がない』、『これが最後のコンサートかもしれない』と覚悟したとき、人間は音楽をやるんだねえ。ましてや、フルトヴェングラーですからね。もう、ベートーヴェンの曲も、シューベルトの曲も区別がつかない。ブラームスも同じです。人類の音楽体験は、フルトヴェングラー戦時中の演奏をもってそのとするんじゃないだろうか。戦後の録音にはこのが欠けるんです」と。フルトヴェングラーの熱狂的愛好者のこの言葉に、ある対談者が思わず「でも、あんな悲劇的な状況と、悲惨な経験を抜きに最高の演奏が生れないとしたら、〈音楽〉とはいったい何なんでしょう」と問いかけた時、「人間の本質にかかわるテーマですね」と一言、静かな口調で答えたという。

 生と死について考える「死への準備教育」では、この「人間の本質にかかわるテーマ」について諸君と共に考えていきたいと思う。