第六回「単純で…鈍すぎる」

0301日・時刻0520時

漂平が倉庫の戸を開くと、東の空が白々と明るくなってきていた。
爽やかな潮の匂いを含んだ早朝の空気。
朝の光に容赦なく照らし出された漂平と和衣、二人の姿は惨憺たるものだった。

「うちの祖父に今回の狩猟結果を報告するんでしょう?」
漂平はうなずいた。
「そうするように頼まれてる。」
「あいつを捕まえたのは、あんただわ。」
「捕まえたのは俺かもしれんが、しとめたのはあんただ。俺はありのまま報告するよ。構わんか?」
和衣は黙って、漂平を見つめ、それからうなずいた。
「そうね。そうして。」

実際、認めるのは少々口惜しいが、漂平がいなければ、今回のハントは失敗に終わっていただろう。
そして、もう一つの事実にも、和衣は気づいていた。
最初は確かに自分が主導権を握っていたのだが、何時のまにやら、それはこの男に移ってしまっていたのだ。
だが、別に和衣はそれが嫌ではなかった。

(この男は祖父が、なぜ自分を私の監視に任命したのか、本当の理由に気づいていない。)
知らぬが吉だわ、と和衣は思った。
知ったら、どう思うだろうかと考えると可笑しくなり、和衣は一人微笑んだ。

なあ、と漂平が声をかけてきた。
「なあ、スパイは疲れるな。俺には向いてない」
「私も、あんたはスパイ失格だと思うわ。」
(単純で鈍すぎるからよ。)

漂平は改めて、自分の前に立っている和衣を眺めた。
彼女のバサバサになったショートカットの頭の先から、革靴を履いた足の先まで。
汚水と赤サビ、ゴミ。その他、謎の物質にまみれている。
グッショリと塗れそぼり、肌に張り付いた春物のパンツスーツは、あちこち裂き傷が出来て、不思議なグレーに変色していた。
しかも、ものすごく匂う。
彼女がいつもさせていた石鹸の良い香りはどこかに消えてしまっていた。
だが、嫌な感じはしなかった。
むしろ、今の薄汚れた彼女は、昨日の彼女よりも好ましいと、漂平は思った。

「何、見てるのよ。」
「別に。」
あまり、じろじろと男が眺めているので、和衣は落ち着かなくなった。
お返しに…という訳でもないが、挑むように漂平を眺め返す。
漂平のごつい顔と体の前面は、ゴカイの足と剛毛に引っかかれて傷だらけだった。
グシャグシャに突っ立った短髪の頭の先から、ワークブーツのつま先まで、汚物とサビにまみれてドロドロ。
着ているTシャツは、数時間前、彼女が顔を埋めた時には、かろうじて白かったのだが、今は赤サビ色のボロ雑巾と化していた。二目と見られない有様だ。
しかも、漂平全体は、昨夜にも増して匂った。

「ねえ、まだ私の指示に従う気、ある?」
漂平の口元に太い笑みが浮かんだ。
「指示内容によるがね。」
「お風呂に入ってよ。」
真剣な目をして、和衣は言った。
「…っていっても、この有様じゃ、いくら筋金入りの風呂嫌いでも入らない訳にはいかないだろうけど。」

漂平はニヤリと白い犬歯をむきだした。
「いいとも。コーヒー牛乳の美味い飲み方と、エクトプラズムの弱点の他に、風呂の入り方も指導してくれるのか?」
和衣が眉をひそめた。
「あんた、そこまで手がかかる人なの?」
「…うむ。」
漂平は黙り込んだ。

鈍い女だ。オヤジジョークや回りくどい台詞は通じない相手だ。
「寝たいのだ、欲しいのだ」とストレートに言わねばわからん女だろう。
だが、その言葉を口にするタイミングは、既に失われているようだった。

漂平は気まずそうに、首をぐるりと回すように動かした。
太い束のような筋肉が皮膚の下でうねり、ごりごりと音を立てた。
ついで、破れたシャツの下で、岩板のような胸筋と腹筋がぐいんと波打った。
和衣は面白そうにそれを眺めた。
(まあ、過剰なのも、そんなに悪いもんじゃないわね。役に立つときもあるわけだし。)

「…さて、そろそろ行くとするか。」
「そうね。」

漂平は太い眉をしかめて、ワークブーツのつま先で、ふるふると蠢いているゴカイ型浮遊生物をつついた。
「なあ、俺が昔、林間学校に行ったとき、洗面所に特大のゲジゲジがいた話はしたか?
真っ黒で本体は小さい癖にまわりに長い足がワラワラ生えてる奴だ。
俺は掃除当番で、箒を持っていたから、思わず、ひっぱたいた。
そうしたら、とたんに足が本体からバラバラ散らばって、次の瞬間、床の上でビンビンと飛び跳ねていた。俺は思わず、床にへたばりこんだ。そうしたら、足の一本が俺の半ズボンの裾から中に…」
和衣は遮った。
「今度から、箒で叩くのはよせばいいわ。っていうか、半ズボン?一体、いつの話よ?
…ほら、あんた、そっち、持って。足の方。」

薄汚れて疲れ果てたハンター二人は、のたうつ大きな荷物を引きずって、倉庫を出ていった。
後には、節のある足が点々と落ちては、朝日を浴びてほとんど見えなくなっていく…。

(終劇)      

(そして蛇足・「回りくどいのはきらいなの」)