第一回「役立たずで風呂嫌いで筋肉過剰」


山水都市・南四龍地区
南四龍・臨海工場区域の一角に位置する下水処理施設敷地内
廃棄された施設が建ち並ぶ一角
0230日 時刻0330時

春近い、明るい月夜である。
海が近いため、微かに波の音や、船の汽笛の音が聞こえてくる。
あちこちひび割れて剥がれかけた白っぽいコンクリート道に、無人の処理施設の建物やパイプ群が、のたうつ龍のような濃い緑の影をくっきりと落としている。

その道をやけに背の高い男が独り歩いていた。
背丈は2メートル近くあるのではないだろうか。
それに比例するように幅もがっしりと広く、とにかく大きな男だった。
傷だらけの革フライトジャケットに、はちきれそうな白いTシャツ、褪せたジーンズ、鉄板入りのワークブーツを身につけている。
腰のベルトには、輪にした太いワイヤーのようなもの…革製のムチが吊されていた。

男は軽い足取りで、巨大なタンク群の横にさしかかった。
タンクと道を挟んだ反対側は、壁一面、ツタのようにパイプが張り巡らされた処理施設の建物。
海風の塩でサビを吹いて赤茶けたタンクと男の間を、風がそよと吹き抜けていった。
春にしては、生暖かい。
そして妙に生臭い風だ。
浜に打ち上げられ、腐りかけた藻の固まりのように。
その匂いに気づいて、男、梅崎漂平(ウメザキ・ヒョウヘイ)は鼻をしかめて立ち止まった。
どんどん匂いがひどくなってくる。
何か匂いの元が近づいてくるらしい。
風は漂平の背中側から吹いてくる。

(奴か?)
振り向いた途端、漂平の顔にすさまじい悪臭がまともに直撃した。
「ウヘッ」
思わず、目をつぶって後ずさる。
身体の脇を何かがワシャワシャとすり抜けたような気配を感じ、漂平は反射的に振り返った。
(違う、もう俺の後ろに回った。)
漂平が背にしていた、処理施設のさび付いた大きなシャッターの中央が音を立てて、いきなりへこんだように見えた。
次の瞬間、シャッターは真っ暗な建物内部に向かって激しくめくれあがった。
何かがシャッターに体当たりし、中に飛び込んでいったらしい。
そいつの姿は見えなかった。

奴の存在を知らない人間が見たのならば、強風がシャッターを巻き上げたのだと説明しようとするだろう。
だが、漂平は、奴の存在を知っていたし、ホタルイカの燐光のようなものを微かに目にしたような気もしていた。

何よりも、そいつは凄い臭気を発散し、その存在をアピールしていた。
三日ほど真夏の海を漂ってパンパンに膨れ上がった生ゴミ袋の内部の匂いを数十倍強烈にすれば、そいつの匂いに近いかも知れない。
とにかく鼻がもげそうな、まさに悪臭。
「こりゃ、たまらんな…こんな奴に、その辺をうろつきまわられたんじゃ、ハンターを雇いたくもなる。」
大きな手で顔を拭ったが、なんとなく匂いが顔に粘り着いているような感じがして、気持ちが悪い。
それに、さっき、奴が自分の隣をすり抜けていった時に感じた、あの寒くなるような感覚。

漂平がバタバタと手を振っていたら、駆け寄る靴音と落ち着いた女の声がした。
「いたの、梅崎?」

「ああ。奴はこっちだ。」
赤い光がちらついて、ショートカットでスラリと背の高いボーイッシュな女が、タンクの向こうから姿を見せた。
片手にフィルターを被せたライト。
もう片手に特大の捕虫網のような長い棒を肩に持たせかけるように持っている。
捕虫網の網部分は小さい鯉のぼりくらいの長さがあった。

「目標は?奴はどこ?」
「俺の横、ギリギリんとこをすり抜けてった。この建物の中だ。もう、ここにはいない。」
漂平は、破れたシャッターのほうへ首を巡らせた。
「本当でしょうね?」
女は捕虫網を突きだして、めくらめっぽうに振り回しつつ、漂平の方に歩いてくる。
タンクトップの上に、アイボリーのパンツスーツを着込み、ジャケットの袖を腕まくりしている。
そんな服装の女が、深夜の下水施設内で捕虫網を振り回している様は妙な感じだった。

「おい、俺の頭を引っかけんでくれよ。」
「しょうがないじゃない。見えない相手なんだから。発信機はちゃんとつけてくれた?」
漂平は頭を掻いた。
「それが…すまんね。不意をくらったもんで。」
女の整った眉が夜目にも明らかに、つり上がった。
「信じられない。あんた、何やってたのよ?」
「面目ない。少なくとも、あれだけ匂えば居場所はわかる。すぐに見つかるだろう。」
「匂いねえ…うちのラッシーも連れてくれば良かったわ。」
浮遊生物(エクトプラズム)研究家であり、専門の駆逐業者…ハンターでもある佐木枕・和衣(サキマクラ・カズイ)は、冷たい目で漂平をにらみつけた。

「犬じゃなくても、わかるさ。依頼人に聞いた通り、こいつはかなり強烈だ。側を通られただけなのに、匂いが移っちまったような気がする。」
「そういえば、あんた、なんだか臭うわ…」
和衣が漂平につと顔をよせた。
「う。ホント、何これ…?ラッシーにこんなの嗅がせたら、鼻がバカになってしまう。」
漂平の鼻に、女の身体から石鹸の爽やかな香りが漂った。
思わず、大きく息を吸い込む。だが、和衣は、彼からサッサと離れてしまった。

「初めてだわ、こんな匂い。浮遊生物はあまり匂いなんて出さないわ。無臭に近いのよ。
…わかった、梅崎、あんた、最近、お風呂に入ってないんでしょう?」
発信機の取り付けミスで、むしゃくしゃしている和衣にしてみれば、最後の台詞はちょっとした意地悪のつもりだったのだが、漂平は真面目に受け取ったらしい。
心配そうに自分の袖口に鼻を近づけている。

「俺の匂いだって言うのか?ま、確かに、ここ三日ばかり、風呂にはご無沙汰だが…」
「ちょっと!本気?それ以上、私に近づかないで。」
「忙しかったからな。それに風呂はあんまり好きじゃないんだ。昔、溺れかけたもんでな。」
言い訳する。
「それに三日くらい入らなくても、どうってこたないし。」
「大問題よ。入りなさいよ、風呂くらい!」
彼女は露骨に眉をしかめた。
さらに漂平から離れ、腕時計に目をやってから、東の空を眺めた。
「…駄目だわ。今日はもう引き上げましょう。この建物、大きすぎるわ。探している間に夜が明ける。」
「明るいと駄目なのか?」

和衣は溜め息を付いて説明した。
「奴ら、夜しか活動しないのよ。見えない上に動かないものをどうやって見つける?
それに、奴ら、夜は発光してる場合がある。光ってる方が見つけやすいでしょう?」
燐光を見たことを思い出し、漂平はうなずいた。
「スプレー塗料でも浴びせられれば別だけど、めくらめっぽうに、落ちない塗料を吹き付けながら、奴を探すわけにはいかないわ。…あのねえ、あんた、何年、ハンターやってるのよ?
発信器はつけそこねるわ、そんな基本も知らないわで?」
「そう言わんでくれ。俺は人狼専門なんでな。」

「あんた、ワーウルフハンターなの?」
和衣の声が急に冷ややかさを増した。
「浮遊生物(エクトプラズム)を狩ったことないのね?あきれた、それでよく引き受けたわね、この狩猟。エクトプラズムハントにワーウルフハンターを雇う方も雇う方だけど。」
「何事も経験だと思ってな。」
照れたようにそう言うと、漂平は丸太のような首をぐるりと回した。
ゴリゴリと漂平の首が鳴るのを聞いて、和衣は嫌な顔をした。

佐木枕 和衣と梅崎漂平は、昨日の夕方、依頼主である下水処理施設長の事務所で顔を会わせたばかりだった。
今回の狩猟には彼女独りが雇われたはずだったのだが、「今晩、いざ、狩猟」という段になって、この男がいきなり、猟に割り込んできたのだった。

当然、割り込まれた和衣は面白くなかった。
加えて、彼女は筋肉過剰な肉体を持つ男どもが大嫌いだった。
(そんなに鍛えてどうするの?何に使うつもり?脳味噌を鍛えた方がいいんじゃない?)
ついでに、三日も風呂に入らない人間も大嫌いだった。

和衣は漂平を冷ややかに睨み付けた。
「先に言っておくけど、私、あんたのこと、雇い主に抗議するつもりよ。
大体、これは私独りの仕事だったんですからね。
それを後から割り込んできた挙げ句、発信器も取り付けられないような役立たずだなんて。
さっさとお得意のワーウルフハントに戻ってしまえばどう?」

和衣のきつい声に大人しく耳を傾けながら、漂平はうなずいた。
「失態だったからな。それでクビにされても異論はない。好きにしてくれ。」
妙に嬉しそうな声だった。

 (次回・第二回・「談判と最低男どもと和衣の事情」)