USOpen.org
2008年9月5日
クイーンズの王、サンプラスがUSオープンのコート・オブ・チャンピオンズに選出される
文:Ed McGrogan


ピート・サンプラスといえば、ウィンブルドンのセンターコートにおける王者の威厳が思い出されるが、USオープンにおける彼の業績も同じく驚異的だ。日曜日に、サンプラスはもう1つのコートと同義になる――すなわちUSオープンの「コート・オブ・チャンピオンズ」である。5回のUSオープン・チャンピオンは2008年の選出者として、モラ・B・マロリーと共に輝かしいテニスの殿堂に加わる。この殿堂は USTA ビリー・ジーン・キング国立テニスセンターの南門の内側に位置する。

1988年、当時世界188位だったサンプラスは初めてUSオープンに出場し、20歳のペルー人選手ハイメ・イサガと対戦した。3歳年下のサンプラスは5セットで敗れた。翌年サンプラスはリベンジを果たし、3回戦でイサガを倒したが、4回戦で敗退した。その後サンプラスはキャリアを通して、USオープンでこの段階より前に敗れた事はなかった。

サンプラスが獲得した7つのウィンブルドン・タイトルは、確かに彼のキャリアで最も印象的なものである。しかし実際には、彼はUSオープンでより多く決勝戦に進出した事をご存じだろうか?

サンプラスはフラッシング・メドウで、日曜日の決勝戦に8回進出し、5回(1990、1993、1995、1996、2002年)優勝した。サーブの専制君主は1992、2000、2001年も決勝戦に進出したが、それぞれステファン・エドバーグ、マラト・サフィン、レイトン・ヒューイットに敗れた。

総計すると、USオープンにおけるサンプラスの勝敗記録は71勝9敗で、大会史上2番目の勝率を誇っている(50試合以上を戦った者の中では、ビル・チルデンの71勝7敗という記録だけが上回っている)。

USオープンにおけるサンプラスのプレーは全くもって群を抜いていたが、若干の失意も経験した。最も顕著なのは1992年だった。彼がすでにUSオープン・チャンピオンとなってから2年後の事である。大会時にナンバー3だったサンプラスは、準決勝でトップシードのジム・クーリエを下して決勝戦に進出し、ステファン・エドバーグと対戦した。サンプラスは第2シードに対して力強いスタートを切り、6-3で第1セットを取った。しかし3セット後に、頭上にチャンピオンのトロフィーを掲げていたのはエドバーグであり、サンプラスは2番目の地位に甘んじていた。

後年、サンプラスは「国際テニス名誉の殿堂」式典で、この4セットの敗北(6-3、4-6、6-7、2-6)が、実際には彼のキャリアにおける転機であったと明らかにした。「あの第4セットで言わば諦めてから、私のメンタリティ全体が変わりました」とサンプラスは語った。

「二度とそのような事はしないと自分自身に誓ったのです。エドバーグに対するあの1992年の敗戦は、私が真にこの事を理解する必要があるという目覚めの警告でした」

間違いなく、サンプラスは素早く学習した。1993年から、サンプラスは6年連続で ATP ナンバー1の座に就き、その間に10のグランドスラム・タイトルを獲得したのだ。それらのスラム優勝の3つはUSオープンにおいてで、サンプラスは決勝戦でセドリック・ピオリーン、アンドレ・アガシ、マイケル・チャンを下した。

1993〜1996年のフラッシング・メドウにおける4年間の疾走が唯一途切れたのは1994年で、4回戦でサンプラスが負けた相手は――誰あろう――ハイメ・イサガだった。運命の皮肉はさておき、この例外的な敗戦は、全盛期のサンプラスがUSオープンで見せた途方もないプレーぶりを否定するものではなかった。

しかしスポーツファンなら誰もが知っているように、運動選手の全盛期は永久に続くものではない。ミレニアムが近づくにつれて、サンプラスのプレーは徐々に衰え始めた。大会で優勝する事――スラム大会は言うまでもなく――は、以前よりもずっと厄介で骨の折れる仕事になっていった。

苦闘はしたものの、それでもサンプラスはツアー最後の年月にもいくつかの記憶に残るハイライトを創出した。サンプラスの生涯のライバルだったアガシは、そのうち2回で重要な役割を演じている。

外見はすっきりしたが未だ危険な脅威だったアガシは、USオープンにおけるサンプラスへの初勝利を挙げるつもりでいた。過去2回の対戦(どちらも決勝戦)では敗れていたのだ。

2001年夜、アーサー・アッシュ・スタジアムにおける彼らの準々決勝での対決は大いに期待され、試合はその期待を裏切らなかった。試合を通じて両者ともサービスゲームをブレークされる事はなく、4つのタイブレークでサンプラスが勝利を収めたのだ。

しかしながら、サンプラスはその準々決勝での勝利をUSオープンのタイトルに結びつけられず、決勝戦でヒューイットに敗れた。

しかし2002年には、サンプラスは最高の褒美を受け取る事となった。さしたる困難もなく決勝戦へと進出した後に、サンプラスがネットの向こう側に見つけたのは――イサガ。冗談である――アガシで、2年連続の対戦だった(イサガはとうの昔に引退していた)。

いま一度、試合は4セットまで持ち込まれ、そしていま一度、サンプラスが勝利を手にした。アガシがUSオープンでサンプラスに対する勝利を挙げるチャンスは、二度と巡ってこなかった――14番目のグランドスラム・タイトルを獲得した後に、「ピストル・ピート」は2003年にテニス界からの引退を公式に発表したのだ。

サンプラスの「USオープン・コート・オブ・チャンピオンズ」の記念額には、このような献辞が刻まれている。「静かなる自信、尽きる事のない勇気と卓越への比類なき献身により、ピート・サンプラスは記録を塗り替え、『チャンピオン』という言葉を再定義した」と。それより正当な言葉はないかも知れない。すなわち、記念額の最後の一文を読むまでは。「彼は長きにわたり、このスポーツをする史上最高の1人として記憶される」


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