USA TODAY
2008年6月9日
新しい本について、テニスエースのサンプラスが「 USA TODAY」紙に語る
文:Douglas Robson

テニスの偉人ピート・サンプラスが2002年USオープンで優勝を祝う。最後となった大会からほぼ6年後、サンプラスは自叙伝を出版し、テニスラケットを越えた人生について詳しく述べている。

記録づくしのキャリアを通して、ピート・サンプラスは「ひたすらグランドスラム・タイトルを追求する」という決意を守り、断片的にしか自身を語ってこなかったが、このたび自叙伝、チャンピオンズ・マインド(クラウン社、2008年6月10日刊)を新たに執筆した。例えば、彼は大きな勝利の後に、たまに地元のドライブスルー「チェッカーズ」のハンバーガーとフライド・ポテトで祝う以外には、放縦な食事をほとんど自身に許さなかった。

彼がテニス界を去ってから6年が過ぎ――サンプラスは子供時代からのライバル、アンドレ・アガシを2002年USオープン決勝で倒し、最後の試合で14というグランドスラム・シングルスタイトル記録を打ち立てた――36歳のカリフォルニア人は、15年のキャリアの最中には秘めてきた内心を少し明かす事にした。「今が自分を語るチャンスだと思うんだ」と、2007年に「国際テニス名誉の殿堂」入りを果たしたサンプラスは説明した。

この本は『テニスマガジン』編集主任でブログも持つピーター・ボドとの共著で、サンプラスが19歳で1990年USオープンに優勝し、やせっぽちで不安定な才能の持ち主から、いきなりスターへと浮上した事、彼の勝利が呼び起こした期待との戦い、長年のライバルだったアガシ、ジム・クーリエ、マイケル・チャン等との闘い、そして多くの人々がテニス界で最も偉大であると見なすチャンピオンへと変わっていった経緯を詳述している。

この本は「すべてを語る」あるいは誤解を正すための試みではない。しかし7回のウィンブルドン・チャンピオンは、現役時にはあまり語ろうとしなかった話題についても明らかにしている。例えばサラセミアとの格闘について。これは地中海系の人々にしばしば見られる貧血症で、体力を徐々に奪う病気である。サンプラスのうなだれた様子は悪名高く、「退屈」というレッテルも貼られ、真価を認められていないと感じる事もあったが、彼は内に燃える激しい炎を見せた。

女優のブリジット・ウィルソンと結婚し、2人の幼い息子の父親となり、サンプラスの本は彼が衆目の前に少しばかり戻ってきた事を物語るもう1つの兆しである。2年前には世界チームテニスに参加した。そして最近には現在のナンバー1、ロジャー・フェデラーとエキシビションのシリーズを行った。彼は兄のガスと共にスポーツマネージメント会社を設立し、友人のクーリエが主催するアウトバック・チャンピオンズ・シニアツアーに出場している。


Q:なぜ今になって本を出したのですか?

よくよく考えたよ。僕の一部は本を書く事を望まなかったが、別の一部は望んでいた。……最終的に、上質な本にしようと決心したんだ。自分が誇りに思える本、僕の子供、そして彼らの子供が読む事のできる本、つまり時代に限定されない本をね。そしてみんなに僕を少しばかり知ってもらおうと決めたんだ。この本は僕に語るチャンスを与えてくれる。あなたも知っているように、僕は現役時には物事をかなり内に秘めてきたからね。

Q:テニスに関心のある人々に、この本からどんな事を読み取ってもらいたいですか?

基本的には、僕が子供の頃にテニスでどんな事を経験してきたか、なぜ僕は控えめなのか、少しばかり無口な方なのか、若干の個人的な事柄、僕がキャリアを通して経験してきた健康に関する事などだね。さらに僕の家庭生活、ブリジットとの結婚やキャリアの終わりに僕たちが経験してきた事、さっきも言ったように、19歳でグランドスラム優勝者になった子供がそれに対処してきた事、そういった事のすべてを明らかにした……。

読者がそういった内容を通して、僕をもう少し良く知ってくれる事を望んでいるよ……。

ひたむきな集中に関する人生のレッスンといったものだね。ベストを目指すのに必要な途だ。

Q:あなたがラケットに物を言わせる男であるなら、なぜ本にあなたが遺したものを詰め込む必要があるのですか?

自分を語るチャンスではないかと思うんだ。僕が経験してきた事、どんな風に感じていたか……それを仕事の場で関わった仲間、メディアとは別の、一般の人々に語る機会だ。この本について話した時、みんな僕が本を書くという事に驚いていたよ。僕には語るべき事がたくさんあったが、現役時には自分の発言や明かす事について非常に気を使っていた。

あけすけに話す事はしたくなかったし、自分を売り込む事も望まなかった。そういう事はしたくなくて、勝つ事がすべてだった。振り返ってみると、これは僕が本当に話をする1つのチャンスじゃないかな。誤解を正すという言い方はしたくないが、ある意味では、僕が経験してきた事をオープンに、そして正直に話す機会だと思っている。

Q:あなたが経験してきた事柄について詳しく述べていますが、確かに「誤解を正す」ものではありませんね。ゴシップめいたものはありません。実際に何もなかったのですか、それとも触れないままにした部分があるのですか?

個人的な事柄という意味? うん、それは本から外したよ。恋愛に関する事は、いずれについても明かしたくなかった。そう決めたんだ。その部分には立ち入りたくなかった。

Q:あなたは正しく理解されていないと感じていたようですが。それについてコメントできますか?

はい。キャリアの早期、僕が世界ナンバー1プレーヤーになり、ウィンブルドンで優勝した頃にはそう感じていたと思う。数年間は自分自身とスポーツそのものを防御していると感じていた。まずい関係があったとは言いたくないが、僕はいわばマッケンロー - コナーズ時代の後に現れた訳で、みんな僕からあれこれ聞き出したがっていた。

僕が腹を立てる事を望んでいたんだ。僕が変わるべきだと要求される事には、いつも憤慨していたよ。僕は変わるつもりはなかったし、前向きだと感じられる事をしようと考えていた。

Q:ですが、「退屈」「感情がない」といったレッテルには、正当に評価されていないと感じる事もありましたか?

うん、時にはね。僕が同じ年にウィンブルドンとUSオープンで優勝し、支配的な頃があった。称賛されるためにプレーしていた訳ではないが、同時に誰しも認められたいと望むものだと思う。そして長い間、メディアは僕をあまり評価していなかったと思う。真価を認められていないと少しばかり感じていたよ……。

やりにくい時期だったね。メディアの人々が僕から何かもう少し引き出そうとする場では、責められているように感じる事もあった。でも僕は自分を変える、あるいは裏切るつもりもなかった。

Q:あなたが望み、取り組んで、そして得られなかった記録あるいは連続記録はありましたか?

正直に言って、成し遂げたい事は2つあった:(グランドスラム)記録を破る事と、6年連続でナンバー1の座に就く事。もちろん、フレンチで勝って四大大会すべてで優勝したかったよ。でも僕の頭に長い間あったのは、その2つの事だ。

Q:あなたはこの本でデビスカップの形式を批判しましたね。

うん、ひどいものだ。変えられなければならない。僕はいつも変えられるべきだと考えていた。ファンにとっては紛らわしいものだ、特に合衆国では……。

ナンバー1であり、年に2つのメジャー大会で優勝し、そして4つのデビスカップ・タイすべてでプレーする事を期待するのは、人間として不可能だよ。ロシアで優勝した年に1回それをしたが、その後は何カ月もの間、疲れ切っていた。多くの代償を払ったよ。だから1週間か2週間、すべての国が一堂に会して競い合うといったフォーマットに変わるべきじゃないかと思っていた。

Q:あなたは本の中で、テニス界は薬物について非常にクリーンだと思うと述べています。その意見は最近の何カ月かで、もしくは他のスポーツで起きた事を見るにつれて変わってきましたか? 

テニス界でも単発的な事件はあったが、全体的には問題となるほどではないと思う。

Q:八百長については? あなたの現役時にそういう事はありましたか? それはゲームに対する大いなる脅威ですか?

いいや。脅威だとは思わない。さっきも言ったように単発的な事象だ。今は断固たる措置がとられていると思う。何事かをしようとする不正な人間がたまたま現れたんだ。僕の現役時には、そういった事に関わったり、考えたりした事さえなかったよ。

Q:誰かがあなたに近づいてきた事はなかったのですか?

ない、なかったよ。

Q:チャンピオンとして最も重要な特性である自信を損なう事なく、敗戦に対処していましたか?

最後の2年間まではね。……最後の2年は、自分への信頼が失せてきていた時期だ。負けていると、失われてきた。 でも全盛期には、僕はとても上手く敗戦に対処していたと思うよ。

Q:あなたはとても未熟だったので、最初のメジャー優勝がもっと遅い時期でなかった事を残念に思うほどだったと述べていますね。本当ですか?

それを返そうとは思わない。だがもし選べるのだったらね。僕は若者としてそういったプレッシャー、グランドスラムのプレッシャーへの準備ができていなかったんだ。僕のゲームはまだ整っていなかった。素晴らしい2週間を送ったが、自分のゲームには幾つか穴があるとも感じていた。 そして個人的にも、まあ苦労したね……メディアへの対応にも慣れていなかったし。

僕は大学にも行ってなくて、ただの前途有望な男、むしろダークホースだったんだ。それが突然、世界的な名声の中にいた。それにどうやって備える?  無理だよ。 19歳では、記者会見場へ入る時にすべての答えを用意するなんてできないよ。その後の6、8、10カ月くらいの間、僕は言わば自分の途を探していた。自分のゲーム、テニス界における自分の位置について少し心もとなく感じていた。そして自分がどこを目指したいのかを本当に理解するのに数年かかった。

Q:ところで、あなたがブリジットに出会った経緯は、まるで作り話みたいですが。 あなたは彼女を映画で見て、デートを取りつけられる男を知っていて、この1回目のデートで一目惚れした、という風に聞こえます.

僕は一目で彼女に惹き付けられたんだ。

Q:彼女が単語を2つ話せるかどうか、と言っているみたいですが……。

まあ、彼女の外見的魅力ゆえだね。冗談みたいに「彼女は美しい」って言ったんだ。彼女にもそれを話したよ。でも最初のデートでは、僕たちはとても緊張していた。お互いを見る事さえなかったよ。

Q:彼女に対してとても臆病だったようですね。

僕がそういう事をするのは、冗談ぽくであれ友人に「彼女に会ってみたい」と言うのは、いかにも僕らしくないよね。なぜそう言ったのか自分でも分からないけど、でも僕はそう言ったんだ。

Q:リチャード・ウィリアムズ、ユーリ・シャラポフ等と比べて、あなたの両親は殆ど表に出ませんでした。彼らにもう少し側にいてもらいたかったと思いますか? プロテニスは孤独な生活です。

そうだね、孤独だ。そして年齢を重ねるにつれて、親に対して感傷的になっていくんだと思う。いま僕には子供がいて、現時点でかつてを振り返ると、僕がメジャー大会で優勝していた頃、もっと両親が側にいたら良かったなと思うんだ……。

それが、記録を破った時のウィンブルドンが胸を打ち、感動的だった理由だ。僕は胸の裡に、そういった思いをいつも抱いていた。それを両親に告げたんだ。彼らは僕が自立した人間になり、自分で決定をし、独り立ちする事を望んでいた。そして僕はそうしたんだ。

Q:あなたが本当のところアンドレ(アガシ)をどう思っているのか、ちょっと分かりにくいのですが。あなたは彼が好きだったと語っています。端から見ると、彼に敬意を払っていたようですが。彼に対するあなたの気持ちについて、もう少し話してくれますか?

僕はキャリアの早い段階から、いつも彼が好きだったよ。ただ僕たちはとても違ったタイプで、彼は言わば、外向的だった。そして僕はもっと控えめなタイプだった。よりまともな方だったとは言いたくないけど……(笑)。僕たちにはあまり共通点はなかったけれど、上手くやっていたよ。

Q:彼はあなたのベストを引き出したと思いますか?

そうだね。……彼に対しては、僕は自分のゲームに幾つかのものを加えなければならなかった。それがなくても他の男たちなら退けられるものをね。より厳しいセカンドサーブを打たなければならなかった。バックハンドをより上手くラインに打たなければならなかった。これで他の男たちなら負かす事ができた。だが彼とだと、もし僕がセカンドサーブを上手く打たなかったら、あるいはキレが不足していたら、彼は攻めてきた。

彼は僕をもっと優れたプレーヤーにさせたんだ。それによって、僕はもう少し巧みに他の男たちを倒せるようにもなった。

Q:あなたはイワン・レンドルを歴史上のトップ5に据えました。驚く人もいるでしょうね。

僕はそれぞれの世代におけるベストのプレーヤーといった見方をしている。1人の男がより優れているとか史上最高だとか言うのは、本当はできないと思うんだ。(ロッド)レーバーは60年代のベストだった。(ビョルン)ボルグは70年代、70年代後半のベストだった。レンドルは80年代、僕は90年代、そしてロジャー(フェデラー)は現在のベストだ……。

レンドルは公のイメージゆえに、与えられるべき評価を受けていないと思うが、彼はテニスを次の段階へ高めたと言えるよ。パワー、フィットネスを導入した。ナンバー1の座に250週も就いた。ウィンブルドン以外すべてのメジャー大会で優勝し、ウィンブルドンでも決勝まで進出したんだよ。

Q:96年以後は、まだ全盛期でしたが、あなたは基本的にローラン・ギャロスに白旗を挙げたましたね。

ただただ失望だったよ。僕は様々な事を試み、大いに前へ詰めようとしたり、ステイバックして前に詰める機会を選んだりもしたが、どれもあまり上手く行かなかったんだ。

Q:ピート・サンプラスのキャリアでベストの時というものはありますか?

個人的な見地から、プロフェッショナルな見地から、2つの素晴らしい時があると思っている。……両親が来てくれた時のウィンブルドン優勝、そしてブリジットと一緒に味わった最後のUSオープン優勝だ。あの最後のオープンは素晴らしい気分だった。僕は非難の不当性を立証したように感じたよ。僕が良いプレーができないのは妻のせいだと新聞は非難していたからね……。

Q:彼女の責任だとされたのは、2001、2002年の最も辛い部分でしたか?

そう、僕は何よりも嫌だった。彼女のために嫌だったんだ。不当だよ。僕を責めればいい、僕にラケットを崖から投げ捨てろと言えばいいんだ。だが妻を巻き込むのは許せない。僕はそれゆえに幾つかのメディアに憤慨した。そしてあの最後のUSオープン、その後の数カ月間、僕は目覚めると自分の正当性を味わっていたよ。

*下のリンクで、ピートが「ジェイ・レノ・ショー」に出演した時の映像が見られます。
http://jp.youtube.com/watch?v=44tWQh77OJ4


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