タイムズ
2008年6月28日
ピート・サンプラスとウィンブルドンとの恋愛関係
文:Peter Bodo


それは振り返ってみれば、苦難によって成就した結婚だった。ピート・サンプラスはウィンブルドンで7つのシングルス・タイトルを獲得し、14という史上最多のグランドスラム・シングルス記録を打ち立てた。彼はピート・フィッシャー博士によってウィンブルドン・チャンピオンへと育成された(何よりも、アマチュアのコーチとなったこの内分泌学者は、サンプラスの父親サムに、息子は芝生でより有効な片手バックハンドに変える必要があると納得させた)。

サンプラスは子供時代、カリフォルニア州パロスヴェルデスの自宅で、ダイニングルームの壁に家庭用16ミリ映写機で映し出されたロッド・レーバー、ルー・ホードといったウィンブルドンの偉人たちの揺らめく映像を見て何時間も過ごした。この楽しい教化にサンプラスは感銘を受けていた。しかし10代後半になって、ついにウィンブルドンでプレーするチャンスに恵まれた時、彼は困惑し、うんざりさせられた。

彼はセンターコートに畏敬の念を抱いた(初出場の1989年に、彼は付き添ってくれた兄のガスと一緒に内部へ入り、あんぐり口を開けたまま数分間座っていた)。しかし南カリフォルニアのハードコートで育ったサンプラスは、芝生で勝つ手段を持っていなかったのだ。

「僕はウィンブルドンの芝生のすべてが好きだった」と、最近出版された自叙伝『チャンピオンズ・マインド』を共同制作しながら、彼は私に語った。「だが芝生の上で実際にプレーするとなると、少し問題があったんだ」

1993年7月には、サンプラスは芝生の謎を解き明かした(ウィンブルドンで初のタイトルを獲得した時には、彼は既に世界ナンバー1の座に就いていた)。彼がその問題を解決して、時代のウィンブルドン・チャンピオンの座を不動のものにし始めると、もはや溢れるような愛情を抑える必要性を感じなかった。

『チャンピオンズ・マインド』における申し分のない要素の1つは、いかに、そしてなぜ、サンプラスが他の大会に増してウィンブルドンを愛するようになったかという物語である。それはすべて適切な理由によるものだった(そう、彼がそこで圧倒的だったというのは理由の1つである。我々は戦士である運動選手について語っているのであり、思い悩むロマンチックな詩人についてではない)。この生来的に無口で控えめなチャンピオンは、大会後のパーティーで請われる優勝スピーチを楽しむようにさえなっていった。それは他の尊敬に値する優勝者の多くにとっては手の届かない境地だった。

サンプラスと共にこの本を書く事は、大いなる喜びだった。彼は現役の間、用心深く過ごし、雄大な大望を追い求めつつ、意図的に世界から距離を置いてきた。しかしその使命は達成され、彼は自分の物語を自分なりの方法で語る事の価値を認めるようになった。

この語り尽くすという過程は、時に彼を居心地悪い気分にさせた。彼の話をテープに録音する作業(その大半はビバリーヒルズにある彼の自宅で行った)の間、彼は何回も神経質そうに笑い、「ああ、すべてを覚えている訳がないよ」と言ったものだった。あるいは、数時間のディスカッションで精神的に消耗した。「僕はセラピストのカウチか何かに横たわっているみたいに感じるよ」

しかし彼との共同作業はやりやすかった。彼は常にドラマ性、内省あるいは情緒的な冒険主義には頼らない現実主義者だったからだ。それは悪い事ではなかった。フィッシャーが男児の患者に性的いたずらを加えた廉で、刑務所に収監されるのを見た者としては。彼を偉大さの入り口へと導いたコーチのティム・ガリクソンが、2人の努力が完遂する前に脳腫瘍で亡くなるのを見守った者としては。

サンプラスはまた、胃潰瘍とサラセミアに悩まされてきた。サラセミアとは地中海地方出身の人々が冒される貧血症である。彼はそれらの「弱点」を秘密にしておくため、大いに骨折りした。

サンプラスは本を書くにあたって、本質を語る――「現実的である」事について、驚くほど苦もなくやってのけた。彼は『チャンピオンズ・マインド』をテニスの回想録にしたいと望んだ――彼の孫が読んでも差し支えない本に。キャリアに真の傷跡を残す事はなかったそれら私生活上の事柄に関して、清算する気も覗き見趣味を満足させる気もなかった。彼は正直に、隠し立てしない事を望んだ。だが本当に重要だった事についてのみだった。

こういった抱負は、告白本、懺悔録、悔い改めし者の自叙伝を求める今日の感情過多好みの市場には、慎ましやかで、恐らく古風にさえ見えるかも知れない。しかしサンプラスはサンプラス、常に己に忠実である。それは彼が、ステージ上で穴の空いたリーバイスを穿いて下手くそなエレキギターをかき鳴らしたりしない理由を説明する一助ともなる。サンプラスはほぼ何についても、どのように感じたかを500語以下で私に語る事ができた。我々は蝋燭の火に照らされた長時間のディナーをとる事もなかった。赤ワインの瓶をテーブルに積み上げ、泣き崩れ、父親について本当はどう思っているかを延々と話す事もなかった。

その美徳を過小評価するなら、自分の責任でしてほしい。人生・キャリアの早期に望んだすべてを手に入れる事は、サンプラスにとって最重要事だった。もしそれが容易だった――才能に恵まれた者になら――と考えるならば、この本はあなたを驚かせるかも知れない。

これは殊のほか真実である。史上最高とも目されるプレーヤーとウィンブルドンとの結婚は、ゴラン・イワニセビッチとの恐ろしいまでのサービス合戦という苦行の場で生み出されたのだ。ウィンブルドンにおけるサンプラスの歴史が充分に証明してきたように、そこで始まる結婚は至福のうちに完成されうるのである。


情報館目次へ戻る  Homeへ戻る