サンデー・タイムズ(イギリス)
2008年11月16日
ピートサンプラス:王の帰還
文:Paul Kimmage


ピート・サンプラスの傑出したグランドスラムの業績は、
注目に値する男の1面にすぎない


ピート・サンプラスと会うためには、ロサンジェルスまで飛行機で飛び、サンタモニカ・マウンテン方面へ北に車を走らせ、そして巨大な鉄の門を持つ信じられないほど豪華なカントリークラブへ行く必要がある。そこでは秘書が待ち受けるゴルフクラブのロビーへと向かう前に、指紋と DNA のチェックを受けるのだ。

「サンプラス様はまだお見えでございません。お座りになってお待ちください」それはテニスプレーヤーにインタビューするための長い道のりだ。しかし1つの考えが、煩わしく退屈な道中を耐えさせてくれる。この男は並はずれていたのだ。7つのウィンブルドン、5つのUSオープン、2つのオーストラリアン・オープンのタイトルは忘れよう。史上最高の神殿における彼の座も忘れよう。私は我々が読んだ事のない物語、男が仮面の後ろに秘める内なる造りについて話しているのだ。

彼の謙虚さに関する有名な逸話を挙げよう。1996年、サンプラスがロサンジェルスからタンパへのフライトでファーストクラスに搭乗していた時、野球選手のバリー・ボンズがやって来て隣の席に座った。ボンズはサンプラスをちらっと見たが、世界ナンバー1のテニス選手だとは気づかなかった。彼は友人と一緒だったが、友人は後ろの席だった。「もしこの子供が席を替われば、君はここに座れるな」と、ボンズはサンプラスを睨みつけて言った。その「子供」は何も言わずに席を替わったのだ。
ウィンブルドンの男子シングルス決勝でアンドレ・アガシを下した後、アメリカのピート・サンプラスはトロフィーに口づけする。

共同シャワーに対する彼の恐怖感を例に挙げよう。

1991年、サンプラスはパリにいて、ローラン・ギャロスのクレーコートでフレンチ・オープンの準備をしていた。その日の練習は終わった。彼は汗まみれのウェアを脱ぎ捨て、タオルを手にシャワーを浴びに行った――なんと! フランスの選手がタイルの上で小用を足していたのだ! サンプラスはムカムカし、そしてそれはトラウマになった。彼は素速く着替えてホテルに戻った。それ以後は、キャリアを通じて更衣室でシャワーを浴びるのはやめたのだ。

彼の神経症的な睡眠の習慣を例に挙げよう。

2001年、サンプラスはほれぼれするほど魅力的な女優、ブリジット・ウィルソンと結婚していたが、フロリダで新しいシーズンの準備をしていた。もう夜で、彼は疲れていた。

彼の妻に人生の避けがたい事実を経験させる時だ。彼女は世界最高のテニス選手と共に眠りに就きたいと思うだろうか? 以下に挙げるのが、その条件である。1:毎晩、寝室の冷房を最強にし、凍えるほどの温度にしなくてはならない。2:ドアの下から洩れる光も、ケーブルテレビや電話充電器の小さな赤いライトも、部屋がまっ暗闇になるよう覆わなければならない。3:シーツは常にピンと敷かれ、皺があってはならない。4:どんな状況下でも、ベッドで彼に触れてはならない。

ウィンブルドンで彼が雇った南アフリカ人のシェフを例に挙げよう。

1998年、サンプラスはウィンブルドンのためにクリフトン通りにあるいつもの家を借り、優勝を目指してあらゆる事をしていた。寝室用にエアコンを購入し、食事の用意のために南アフリカ人のシェフ、キルステンを雇い入れた。メニューはシンプルだ。朝食にはワッフル、スクランブルド・エッグと1杯のコーヒー、昼食の弁当にはサンドウィッチ、夕食にはチキンと新鮮な野菜、あるいは自家製ソースをかけたパスタ。それだけ。そして彼女は金科玉条を絶対に守らなければならなかった。「僕がここにいる間は、家の中に雑誌も新聞も持ち込まないで」と、彼が彼女に告げたのだ。「気を散らすものは、何も読んだり見たりしたくないんだ」と。

彼の生涯にわたる犬への恐怖心を例に挙げよう。ラケットストリングスのテンションに関するこだわりを。スポーツカーへの永続的な嗜好を。神経質な胃と厄介で傷つきやすい足を。ピート・サンプラスは、スポーツ界のハワード・ヒューズとも言えそうだ。

「サンプラス様はあなたとお会いできます」と秘書が告げる。彼女は優雅な木製の階段を登り、家具が上品にしつらえられたダイニングルームへと案内してくれた。そこでは偉大な男がテーブルに向かって座り、『ロサンジェルス・タイムズ』を読んでいた。彼はジーンズとナイキのシャツを身につけ、2002年9月に引退した日と同じくらい体調が良さそうに見える。

ウエイターがコーヒーを運んでくる。彼は私的な秘書のグラントを紹介し、我々は歓談のために役員室に入った。彼は今朝、ゴルフをしたのだろうか? 「いいや、寒すぎるよ」と彼は微笑んだ。

「それでは、あなたはここに住んでいるのですか?」

「ええ、僕はこの辺りに住んでいるんだ。丘の上に家があって、この辺りをドライブすると見えるよ」

「見える?」私は驚いて尋ねた。

「はい」

「私が読んだものによれば、あなたはハワード・ヒューズのように、誰にも見通せない家に住んでいるとの事でしたが?」

彼は笑った。「うん、まあ、妻と僕が住んでいた2番目の家は、もっと人目につかないものだった。僕は干渉されない自由な私生活が好きなんだ。独身でロスに住んでいた頃、場所を探すのを手伝ってくれる友人に『僕は隣人に見られたくないし、隣人を見たくもない。木々の多い静かな場所でなければ』と言ったよ。彼は僕を非社交的だと考えていた。彼はいつも電話をかけてきて外出に誘ったが、僕は自宅にいるのが好きだったんだ。『君はハワード・ヒューズだ』と彼は言ったよ」

「彼は正しかったですか?」

「まあ、ハワード・ヒューズはちょっと大げさだけど、僕には少しその傾向があるね。旅をしてプレーしている時は、インタビューを受けたり、メディアに露出していると感じる。だからとにかく自宅へ帰り、2週間くらい閉じこもりたくなるんだ」

「他に何を認める用意ができていますか?」私は尋ねる。「睡眠についてはどうでしょう。暗く冷たい部屋、触れられる事は?」

「本当だよ」と彼は微笑んだ。「僕は冷えた暗い部屋が好きで、妻に触れられるのはダメだった。でも今はその事に関してもっとリラックスしているよ。それは精神的なもので、僕は睡眠について神経症的だったんだ。ヨーロッパではエアコンがなくて、僕はホテルに到着すると(ため息をつく)、『これにどう対処するっていうんだ ?』って感じだった」

「あなたはずっとスピードカーが好きでしたか?」

「うん、2台のスポーツカー、ポルシェ・ターボと BMW Z8 を持っているよ。面白い話をしてあげよう。2年ほど前、パームデザートで夜の9時頃だった。僕は人けのない道路を時速約110マイル(180キロ近く)で走行していた。すると警官が現れて車を脇に寄せさせ、僕に手錠をかけてパトカーの後部座席に押し込んだんだ。ものすごくビビったよ。僕は『あなたは一晩を刑務所で過ごす必要はないのでは?』と言った。それが最大の恐怖だったからね。『ない、ない』と彼は答えた。彼は免許証を見て誰かを確認し、そして僕を放免してくれた。ああ、とても怯えたよ! 以来、二度とそういう事はしていない」

「あなたは観光をあまり好みませんでした」と、私は水を向けた。

「そうだね、仕事だったからね。都市に到着し、空港からホテルへと向かい、そしてコートに行く。部屋に戻り、マッサージを受けて、ディナーに出掛ける。負けた時は去る。優勝した時も去る。観光でうろついたりはしなかった」

「あなたは政治、名士である事、あるいは金に時を費やしませんでしたね?」

「ええ、金については僕が2回くらいメジャーで優勝した後、人に任せた。政治に関しては沈黙を守り、そして僕は自分を名士だとは見なしていない。運動選手、テニスプレーヤー、孤独を好むチャンピオンと考えているだけだ」

孤独好きなチャンピオンを見いだすためには、80年代初期のロサンゼルスへと時間を戻す必要がある。そこでは桁はずれのテニスの才能に恵まれた少年が、パロス・ヴェルデスの自宅でソファに寝転がり、『ライ麦畑でつかまえて』に没頭していた。ピート・サンプラス、両親であるサムとジョージアの間に生まれた4人のうち3番目の子供はホールデン・コールフィールドなどではない。

サンプラスははにかみ屋の内向的な子供で、愛情と堅実さにはぐくまれ、「どうぞ」と「ありがとう」を言うようにしつけられた。ラケットを投げたりはせず、常に自分の感情を抑えてきた。しかしその本は完全に彼を魅了した。特に「誰にも何も話すな」という一文が。19歳の時、彼はUSオープンで突如として有名になり、それを自分の呪文とした。

「僕がしてきた事はすべて、世界最高の選手になるためだった」と彼は言う。「かなりガードを高くして、無用の危険を冒すのは避けていた。それがいわば僕の成功の秘訣だった。メジャー大会でプレーする時は、あまり話したくなかった。僕の努力目標は、特にウィンブルドンでは『気を散らすような事は何も言うな』だったんだ」

1つ問題があった。騒動は人気を呼ぶものだったのだ。ファンは騒動を見慣れてきたのだ。ジミー・コナーズはジョン・マッケンローと争い、マッケンローは誰とでも争っていた。彼らは新登場の少年から「ちぇっ、つまらない」ではなく、驚きを期待していたのだ。マスコミは彼を退屈だと決めつけた――彼はピート・Samprazzzz だと。ジンボとマックは猛然と攻めたてた。だがサンプラスは自制を和合と交換する用意ができていなかった。

「僕は自分の育ち方、そして自分自身に忠実だった」と彼は説明する。「さらなる金、マーケティング、ナイキの契約などと引き換えに自分を売り渡すつもりはなかった。コート上で何かしたり、あるいは記者会見で何か言って論争を引き起こすつもりはなかった。僕は運動選手だった。自分を芸能人だとは見なしていなかった。僕は謙虚で物静かなチャンピオンだった。イメージや個性、 発言がより重視される時代の隠遁者だったんだ」

1993年に初のウィンブルドン優勝を遂げてからの4年間、サンプラスは称賛されたが、愛されてはいなかった。それは心の痛む事だった。私は『スポーツ・イラストレイテッド』の名記者、 SL プライスが1997年に書いた記事から引用した。「彼は現在でさえ、最大の敵はネットの向こう側にいるのではないと感じずにはいられない。それはジンボであり、70年代や80年代の派手で躁病的なうぬぼれ屋たち――マッケンロー、イリー・ナスターゼ、故ヴィタス・ゲルレイタス――で、彼らはいまだに合衆国ファンの心を掴んでいるのだ」

「タイミングが悪かったんだ」と彼は認識している。「彼らは論争好きでエキサイティングだった。そして僕はこういった物静かな男で、メディアの多くは僕がある種の行動をするよう望んだ。僕を困惑させたのは……。僕は前面に出て、世界最大のどあほうみたいに振る舞う事もできただろう。それが彼らの求めていたもの? 期待していたもの? 彼らは僕がもっと感情を表すよう望んだ――僕の表現手段はラケットで、口ではなかった」

「マッケンローとコナーズは、あなたがそうするのを容易にしませんでした」と私は示唆した。

「初期の頃はね」と彼は同意する。「僕はジミーよりもジョンと親しかった。デビスカップを通して親しくなる事ができた。だがジミーと僕は、ちょっと水と油みたいなところがあった。僕は1990年のUSオープンで大躍進していたが、思うに(言葉が途切れる)、どう言えばいいかな? 彼が僕を選手として尊重するのには、時間がかかったのだと思う」

「ジョンについては?」と私は尋ねた。

「彼がコラムに書いた事で、ロッカールームで一度やり合いませんでしたか?」

「うん、『ロンドン・タイムズ』の事だったと思う。僕がジョンについて抱えていた問題は……。彼は(新聞で)僕をこき下ろし、そしてロッカールームに来ると、『やあ、ピート。調子はどう?』って感じだった。それは僕には有効じゃない。新聞では僕をこき下ろし、それから突如として親友になれる筈がない。だから我々の間にはちょっとした事があったよ」

「それを見るためなら私は金を払ったでしょう」と私は微笑んだ。

「まあ、ジョンについては、あなたは分かるよね。彼は僕に腕を回し、顔を近づけて、そして言うんだ。『ねえ、いいかい、ちょっと冗談を書いただけなんだ』ってね。我々は長年の間に、起伏のある関係を持っていたよ。彼は常に競う者であり、現在でさえ、話し方や言う事は……彼は今でもコートに出て勝つ事ができると考えているんだ」

「デビスカップで一緒にプレーした経験は、きっと魅惑的だったでしょうね」と私は感想を述べた。

「魅せられたよ」と彼は同意する。「僕は当時(1992年のデビスカップ決勝、対スイス戦)まだ若かったが、我々がいかに違うかというのは興味深かった。僕はこれから起こる事について考えていた。彼はすでに起こった事について考えていたんだ。更衣室で座っていた時、彼がトム・ゴーマン(合衆国監督)に文句をつけ始めたのを覚えているよ。『何かしろよ! 審判に怒鳴りつけろよ!』と。彼は10分前になされたラインの判定について文句を言っていたんだ。身も心も疲れさせるものだった。僕はうんざりした。彼を見て言ったよ。『ジョン、もう済んだ事だ!』ってね」

一事成れば万事成る。サンプラスは誰よりも成功を収めた。キャリア晩年の頃には、彼への拍手喝采はより大きくなり、彼に対する認識は変化していた。

サンプラスにとって最も重要なのは、自分が変わらなかったという事だった。そう、彼は最後まで自分の流儀を貫いたのだ。結びは、2002年USオープン、14回目のメジャータイトルだった。彼は妻と*生まれたばかりの息子と共に丘の家に戻り、玄関を閉ざした。そして12カ月後に引退を発表した。
訳注:実際はまだ生まれておらず、妻のお腹の中にいた。

計画はゴルフをたくさんして、その後ずっと幸福に暮らす事だった。そして3年の間は、おおむねそんな風だった。彼はほぼ毎日ゴルフをして、ハンディキャップを2まで下げた。ポーカーの大会、レイカーズの試合に出掛け、友人たちとバスケットボールをした。ブリジットと2人の息子に身を捧げた。彼はテニスをしなかった。テニスを見なかった。テニスを必要としなかった。完璧な終局だった。

しかし人生に完璧はないのだ。

「2年半くらい経つと、徐々に飽きてきたんだ」と彼は説明する。「毎日ゴルフをして、少し体重が増えて、そして目覚めた時に不満を感じる。妻にその事を話したよ。彼女は僕が変化を求めていると分かった。彼女に言ったんだ。「僕はちょっと空しさを感じている。もう少し何かが必要なんだ」と。

「不満を感じる、とは激しい言葉です」と私は示唆した。

「きつい言葉だよね」と彼は言う。「だが正直な言葉でもある。思ったんだ。『この生活は60歳の人間が送るものだ。僕は34歳なんだ! こんな生活をして、今後15年を過ごせるのか?』ってね。容易ならない事だよ。僕が送ってきた生活は、とても集中し、予定が立っていて、規律正しいものだった……そしてそれから、はっきり言って、終わった。最初はそんな生活を気に入るが、しばらくすると落ち着かなくなる。『僕の人生、次は何があるのか? 次に何をするつもりなんだ?』とね。つらい事だよ」

「なぜ運動選手がカムバックするのか分かるよ。僕にはとても明確だった。脚光を浴びる事が恋しい人もいるだろうが、僕にとっては集中する事だった。スケジュールを立てる事、体調を整える事が恋しかった。それで『オーケイ、少しばかりプレーしてみよう』と思ったんだ」

彼は再びトレーニングを始め、そして2006年4月、引退から3年半の後にコートへ戻り、ヒューストンのエキシビションでロビー・ジネプリと対戦した。さらにチームテニスのイベントにも何回か出場した。

「その後さらにもう一歩を踏み出したんだ」と彼は語る。「シニア大会で2回プレーした。そして『これをしよう。本格的に取り組んだりカムバックするつもりはないが、3〜4カ月ごとにプレーするのはいいな』と考えた。体調を保つ事ができる。予定も立つ。実際、僕はもっと良い夫、良い父親になる。良い気分で帰宅するんだからね」

彼はこの12カ月で4回、ロジャー・フェデラーと対戦し(1回は勝利した)、ドイツのトミー・ハースを破った。そして来月には、ブラックロック・マスターズ大会のためにアルバート・ホールへやって来る。それは2002年ウィンブルドン以来、初のロンドンへの帰還となるのだ。

「『ウィンブルドンに戻るつもりか? USオープンに戻るつもりか?』と聞かれるよ。なぜ僕が戻る? そこで何をするんだい? スポンサーの人々と一緒に座って、金もうけを望む? それはない。テニスを見て、何かインタビューを受けたい? それも大してない。ロジャー(フェデラー)が僕の(メジャー)記録を破る時には、その場に居合わせたい。それがウィンブルドンだったら、とてもいいね」

「あなたは今年の早い時期に、ニューヨークで彼と試合をしましたね?」

「うん、マジソン・スクエア・ガーデンで、17,000人の観客を前にしてね。ワクワクしたよ。彼には本当に感謝した。彼には大して得るものもないのに、僕に敬意を表してそれをしてくれたんだ」

「あなたは何が分かりましたか?」

「僕は世界の誰に対しても、今でも競い合えるという事だね。彼らを打ち負かせるとは言わないが、競い合ったものにする事はできる。以前ほどの体調でもないし、以前のようには動けないが、1セットなら誰に対しても向かい合える」

「カムバックする気は起きませんでしたか?」

「いいや。競う事は僕が求めているものではない。誰かを叩きのめすためにロンドンへ行きたいわけじゃない。それは僕にスケジュール、ジムへ行き、そして少しヒッティングする集中心を与えてくれるんだ。その過程が、僕の求めているものだ」

「ジョン・マッケンローが出場します」

「うん」

「楽しみですか?」

「そうだね」と彼は笑いながら言う。

「芝居っ気はどうですか?」と私は尋ねる。

「マックはラケットを投げ、(アンリ)ルコントは道化を演じ……。それは本当にあなたが出場する舞台ですか? あなたは見世物師ではありませんでしたよね?」

「そうだね、僕はずっとじゃれ回るつもりはない。微笑んで、ちょっと楽しむんだ。でも僕は『ここに新しいピートがいる。皆はこれまで14年間、僕を分かっていると考えていたが、僕は自分の殻から抜け出す』と言うつもりはないよ」

インタビューは終わった。ロスでの生活における楽しみと危険についてしばらく歓談し、それから私は娘に頼まれた買い物リストについて彼に話す。「いちばん近い*ノードストロムの店舗はどこにありますか?」と尋ねた。
訳注:Nordstrom。全米に80店舗展開するシアトルのデパート。ファッションが中心で、靴のオンラインショップは米国でも最大級。

彼は明らか困惑して、首を振った。「それに関しては、グラントにあなたの手助けをさせなければ」

「あなたはご存じない?」

「知らない、僕はハワード・ヒューズなんだよ、覚えてる?」と彼は微笑んだ。


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