ブリーチャー・レポート(外野席からのレポート)
2008年12月23日
2000年サンプラス - サフィン戦:理論的枠組の転換
文:Rob York


2000年の夏まで、グランドスラムの決勝戦ではピート・サンプラスがまず間違いなく勝利すると思われていた。

彼は13個目のグランドスラム・タイトルを獲得して新たな記録の保持者となっただけでなく、これまでメジャー大会の決勝戦では、2回を除きすべて勝利していたのだ。

この事を考えてほしい:ロジャー・フェデラーは現在13のメジャータイトルを獲得しており、サンプラスの記録を破るのはほぼ確実である。だが彼は決勝で4回敗れている。

それは次に彼がグランドスラム決勝戦に進出した時、対戦相手は彼が決勝で24パーセント近く敗れていると承知して試合に臨める事を意味する。

しかしながら、サンプラスが2000年のUSオープン決勝戦に進出した時には、これまでのグランドスラム決勝戦で約14パーセントしか敗れた事はなかった。メジャータイトルの史上最多記録を樹立するというプレッシャーが消え失せ、偉大なカリフォルニア人は今や、自身と以前の記録保持者であるロイ・エマーソンの間に、何らかの差をつける事を目指していた。

新参者

彼の前には20歳のロシア人、マラト・サフィンが立ちはだかっていた。サフィンは躍進のシーズンを過ごし、つい2カ月前にカナダで開催されたマスターズシリーズでの優勝を含めて、3大会でタイトルを獲得していた。サフィンが1998年のメジャー大会でアンドレ・アガシとトーマス・ムスターから勝利を挙げ、ATP ツアーで波乱を起こしてから2年後の事だった。

2000年USオープンの2カ月前、私はウィンブルドンでアガシがビッグサーバーのオーストラリア人、マーク・フィリポウシスを破るのを見ていた。思うがままにエースを放ち、フォアハンドでもほぼ同様の事ができるようにも見える男に対して、アガシは絶え間なくフィリポウシスのバックハンドを攻撃するという手段に出た。その試合を見て私は考えた。もしフィリポウシスがすでに持つ技能に加えて、優れた両手打ちを備えていたら、どうだっただろうか?

サフィンはその方式へのぴったりな答えではないとしても、適切な判断材料だった。彼はオーストラリア人とほぼ同じくらい強烈なサーブとフォアハンドを打ち、ネットもこなした。しかし動きはかなり優り、そしてバックハンドは彼のベストショットだった。身体的には、グランドスラム・チャンピオンになるすべての資質が備わっていたのだ。

彼は大会序盤で苦戦し、ジャンルーカ・ポッツィとセバスチャン・グロージャンに対して第5セットまで押し込まれたが、それに打ち勝って、チャンピオンの精神性をも身につけ始めている事を示していた。

しかしUSオープンの決勝戦でサンプラスに対しては? それは多くを求めすぎるというものではないか?

確かに、アメリカ人は29歳で、テニス選手としては年金受給年齢に近づいていた。そしてほんの1日前には、レイトン・ヒューイットに対してかなりのエネルギーを費やす必要があった。それでもなお、彼が以前に何回もしてきたように、決勝戦ではゲームのレベルを上げるであろうという事にほとんど疑いはないように思われた。

第1セット

サンプラスは最初のサービスゲームをエースで始め、さらに3本のファーストサーブ・ウィナーを放った。サフィンはボールを相手コートに返す事さえできず、彼の前には高いハードルが存在している事を示していた。彼自身のサービスゲームも同じくエースから始まり、両者ともグラウンドストロークの射程距離を見いだすのに苦労したが、次第に調子を掴んでいった。

間もなく、両者ともサーブの砲弾を放ちつつ、サンプラスは徹底してネットへ詰め、若い対戦相手のパッシングショットをテストした。対照的にサフィンはベースラインに留まり、年長の男がエラーをするまでサンプラスとラリーを続けた。

私は頭の中で試合の展開を予想する事ができた。第1セットはサービス・コンテストとなり、恐らくタイブレークに突入するだろう。サンプラスのより豊富な経験が年下の男のミスを誘い、そしてひとたび彼がリードを掴めば、それを逃さないだろう、と。

ところが、3-3で転機が訪れた。サフィンはサンプラスのサーブを読み始め、彼にコート中央でボレー、あるいはハーフボレーを打たせるようになったのだ。それはロシア人がパッシングショットを打つチャンスへと結びついていった。彼はバックハンドで見事にラインを捕らえ、0-15とした。さらにミッドコートでサンプラスを捕え、サンプラスのフォア側コーナーへフォアハンドを打ち込み、15-30とした。彼は次のポイントでもほぼ同じ事をした。サンプラスが時速122マイルのサーブで攻撃をかけたにも関わらず、だ。

15-40となり、サンプラスは雷のようなサーブで1本目のブレークポイントをセーブした。次のポイントでも強烈なサーブを放ったが、サフィンは時速124マイルのサーブをものともせず、アングルに打ち返した。サフィンが1ブレークアップとなった。

サンプラスは気持ちを奮い立たせ、バックコートから意志のこもったフォアハンドを放ち始めた。しかしサフィンはサーブで解決を図り、間もなく第1セットを終えていた。

第2セット

ホットな対戦相手に1セットを落としたとはいえ、まだパニックに陥る理由はなかった。ディック・エンバーグが指摘したように、彼は第1セットを失った後でも8勝2敗の成績を誇っていたのだ。その上、もしサフィンのグリップが滑りでもしたら、サンプラスはその機会に襲いかかるだろう。

しかし最初のサービスゲームで、サフィンはなおファーストサーブを叩き込み、針に糸を通すようなパッシングショットを放っていた。そして30-15となったところで、彼はメッセージを送ったのだ。サンプラスはセカンドサーブに襲いかかり、フォアハンドでサフィンをコートから追いやって、次にドロップボレーを放った。6フィート4インチの身長に200ポンド近い体重のあるサフィンは、フォア側のダブルスアレー後方からバック側のアレーすぐ横までネットに突進し、それから片手バックハンドのパスでサンプラスを抜いたのだった。

彼はそのショットを成功させなくてもかまわなかった。その場合でも30-30となるだけで、彼のビッグサーブでゲームを勝ち取る事もできたはずだ。しかし、それを成功させた事で、サンプラスにその日は容易ではないという事をアピールしたのだ。彼は時速134マイルのサーブで次のポイントを勝ち取り、ドロップショットでゲームを決めた。

2人の男はサービスをキープし合い、再び3-3まで来た。そして再び、 サフィンは素晴らしいリターンとパス―――特にバックハンド側―――を成功させた。彼は再びブレークして4-3リードとした。

「今のところ、ピート・サンプラスのボディ・ランゲージは好ましくないわ」と解説者のマリー・カリロが言った。1セットダウンは1つの事象であった。しかし2セットは?

次のゲームで、サフィンは再びサンプラスのサーブに襲いかかった。今回はアメリカ人にミッドコートでハーフボレーをさせ、そしてミスを強いた。30-30となったところで、彼はサンプラスの頭上にバックハンドのトップスピンロブを揚げた。次のポイントで、アメリカ人はダブルフォールトを犯し、ロシア人に2セットのリードを与えてしまったのだった。

第3セット

「サンプラスが自分を害する事はできない、と今や彼はほぼ承知しているようだ。そう考えるのは恐しい事だが」と解説者のジョン・マッケンローが言った。サンプラスはセカンドサーブでステイバックすべきだ、と彼はそれとなく言い始めた。コートサイドでは、パム・シュライバーがサンプラスのコーチであるポール・アナコーンに、サンプラスは怪我を抱えているのかと尋ねた。

「いいや、問題はない。今のところ彼はただ圧倒されているのだ」とコーチは認めた。「サフィンが試合の最後までそれを続けられるか、見てみよう」

サフィンは第1ゲームをラブゲームでキープし、サンプラスの最初のサービスゲームでは、パスで第1ポイントを勝ち取った。前日の試合でエネルギーは衰えており、サンプラスはダブルフォールトを犯して頭を振った。サフィンはさらに2本の見事なリターンを放ち、そして突然、サンプラスは3回連続でサービスゲームをブレークされていたのだった。速いハードコートで。メジャーの決勝戦で。

男子テニス界を支配してきた男は、アナウンサーが名字の発音さえあやふや(言う者によって、あるいはその時々で「サ - フィン 」とも「サ - フィーン」とも発音された)な男によって、今や叩きのめされていた。これは番狂わせではなかった。理論的枠組を転換させるものだった。

ジャーナリストのタマゴだった私は、大学の学生センターから見守っていた。目を見開いて、すべてのパッシングショット・ウィナーを。テニス仲間である友人が立ち寄って、私に尋ねた。まず第一に、サンプラスの対戦相手は誰かと。そして次に、試合はどんな展開かと。

「『ロッキー - 4』を見た事があるかい?」と私は訊いた。

「もちろん!」と友人は答え、無骨なロシア語のアクセントをしてみせた。「オレはお前を倒さねばならぬ………」

「そいつが、今ピートが対戦している奴だ」と私は言った。「忌々しいイワン・ドラゴ」

サンプラスは次のサービスゲームでもブレークポイントを握られたが、キープして試合に踏みとどまるエネルギーをどうにか見いだした。その後、サービスゲームでは、彼にガン・シューティングで行くよう私は秘かに念じ始めた。センターへのファーストサーブの爆弾を。30-30で、彼はまさにそれをした―――が、サフィンがバックハンド・リターンのウィナーを放つに終わった。

私はとても信心深い家庭で育ち、みだりに主の名前を唱えないよう躾けられてきた。だが、そうせずにはいられなかった。私は「おお、マイ・ゴ………!」と叫んだ。お気に入りのスポーツについて、知り尽くしていると思い込んでいたすべてが、私の眼前で変化していくようだった。

振り返ってみれば、サンプラスがゲームに踏みとどまり、5-3でサフィンに自らサービング・フォー・マッチを決めるようにさせたのは、雄々しかったとさえ思われる。最初のポイントでサフィンがダブルフォールトを犯し、彼の奮闘は報われるかも知れないかに見えた―――試合全体で2本目にすぎなかったが。サフィンのフォアハンド・エラー、次にサンプラスのフォアハンド・ウィナーで、アメリカ人は突如として初のブレークポイントを握った。ニューヨークの観客はチャンスを感じとり、活気づいてきた―――サフィンはビッグサーブと返球不能のスウィングボレーで、その期待を打ち砕いた。

マッチポイントはそれまでの流れにふさわしい展開となった。サンプラスはネットへ突進し、そしてサフィンはバックのウィナーでとどめを刺した。グランドスラムの帝王は、私が想像しえる最も衝撃的なやり方で、王位から退けられたのだった。

余波

サンプラスはその日、最高の調子ではなかった。しかし1998年と1997年の敗戦時にも、同じく絶好調ではなかった。どちらの場合も、対戦相手だったパトリック・ラフターとペトル・コルダは―――両者とも有力な武器を持つスラム優勝者だが、サンプラスを下すのに5セットを要したのに対して、サフィンは彼に10ゲームしか取らせなかった。

サンプラスのウィナーが32本だったのに対して、サフィンは37本だった―――サンプラスが通常はより多くのハイライトを生み出す、ネットに突き進む攻撃的なスタイルでプレーしていた事を考えれば、誤解を招きかねない数字だった。

試合はサンプラスのゲーム状態を表す指標というだけでなく、ネットに突き進むプレースタイル全体への指標でもあった。リターナーはサーバーよりも優位に立ち、強烈かつリスクを冒す事なくグラウンドストロークが放たれうる現在、もはやボレーはテニスにおける主要な武器ではなかったのだ。

サンプラスの敗北は、長い下り坂の始まりとなった。その後2年間にわたり、新たなタイトルを獲得する事はなかったのだった。2001年のオープンでは、彼は鏡像にも似た状況に直面した―――今回は競り合った3セットでサフィンに打ち勝っていたが、翌日のヒューイットに対しては、充分でなかった。

幸いにも2002年には、ついに彼はキャリアにふさわしい終局を用意した。準決勝と決勝を2日連続で戦った事は、アガシ―――彼自身よりも年上のプレーヤーに対しては、チャンスに致命的なものとはならなかったのだ。

その日サンプラスを破った後、 サフィンはトロフィー授与式の最中に、どうやってサンプラスのサーブをいとも容易にさばいたのか尋ねられた。彼はチャーミングに崩れた英語で「僕に分かると思うかい?(You think I am know?)」と答えた。

サフィンは、サンプラスが10年前のオープンでアガシに勝利した時と、うす気味悪いほど似通ったやり方でサンプラスを打ち負かしていた。1990年時のアメリカ人よりも、1つ多いゲームを与えただけだった。サンプラス―――初優勝の時は19歳になったばかりだった―――もサフィンも、初のスラム優勝に伴うプレッシャーには、精神的に準備ができていなかったと語った。サンプラスは少年の頃から、世界最高の存在になるようコーチに仕込まれてきており、後にはその期待に応えた。

サフィンは、残念ながら、そうはならなかった。彼はキャリアの大半を、遅刻して現われ、時計を叩き壊し、そして顰蹙を買うといったやり方の、より魅力的で、より収入の良いバージョンとしてテニスに取り組んでいるように見えた。2005年のオーストラリアン・オープンでもう1つのメジャータイトルを獲得しはしたが、いかなる時でもメジャー優勝を遂げるためには不可欠である労力を注ぎ込まなかった。

なんとも残念だ。2000年のあの日、彼はテニスの理論的枠組を変えたのだ。それを見守るのは途方もない事だったのだ。


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