カナディアン・プレス
2008年12月6日
ピート・サンプラスはロンドンのシニア大会で敗退する


ロンドン――すべての思い出がピート・サンプラスに押し寄せた。郷愁と共にタイトルが訪れる事はなかったが。

ロイヤル・アルバート・ホールのシニア大会に出場していた7度のウィンブルドン・チャンピオンは、土曜日、セドリック・ピオリーンに7-6(7)、7-6(5)で敗れた。しかし日曜日の決勝戦には進出しなかったものの、それが2002年にウィンブルドンで敗れて以来初めて訪れたイギリス旅行の楽しみを減ずる事はなかった。

「この地は思い出を呼び戻す……ここにいて、イギリスの人々と会うだけでね」と37歳のサンプラスは語った。彼は1993年USオープンと97年のウィンブルドン決勝戦でピオリーンを下した。「戻ってきて良かったよ」

「辺りをドライブしていると、タイトルの事を考える。勝利の事を考える。残念ながら、この大会では勝てなかったけれどね」

水曜日の初戦では、サンプラスは19本のエースを放ってジョン・マッケンローに6-3、6-4で勝利した。ピオリーンは現役時にサンプラスと9回対戦したが、一度も勝った事がなかった。しかし、両選手が各セットで1回ずつサービスゲームを落とすなかで、彼はついにサンプラスを下したのだ。

「激戦だった」とサンプラスは語った。「今日、セドリックはかつてより良いリターンをしていた」

ピオリーンもまた、彼に勝って決勝戦に進出できたのは、リターンゲームの出来だったと考えていた。決勝戦ではグレッグ・ルゼツキーと対決する。

「彼のサーブをリターンするのは常に難題だった」と39歳のフランス人は語った。「突然、彼のサーブを読む事ができたんだ。自分でも理由は分からないよ」

1997年は話が違った。96年の準々決勝でリチャード・クライチェクに敗れた後、サンプラスはウィンブルドンで新たな連勝街道を歩み始めていた。その年から4年連続優勝を成し遂げ、芝生における史上最高の選手の1人として、その地位を強固なものにしたのだ。

「彼はここでより、むしろ97年ウィンブルドンで勝ちたかっただろうね」とサンプラスは冗談を言った。

もしサンプラスが現役ツアーでプレーしたら、今でも競い合えるだろうとマッケンローは語った。だがサンプラスは答えた。「それはしない」と。

「競い合う事はできるかも知れない。だが競い合う事と勝つ事には、大きな違いがある」とサンプラスは語った。「ウィンブルドンに出場して、サービスを何回かキープする事はできるだろう。だがそれは僕がゲームをする理由ではない。僕は勝つためにプレーする。タイトルを勝ち取るためにプレーするんだ」

サンプラスはそれをプロ最後の試合で実行し、2002年USオープンで14回目のメジャータイトルを獲得した。

「USオープンの後、再びプレーすべく、あらゆる可能性を探った」とサンプラスは語った。「6カ月後……ウィンブルドンの時期が訪れ、そして過ぎ去っていった。それが、自分は終わったと知った時だ。次に何をするかは分からなかったが、分かっていたのは、テニスに関しては終わったという事だった」
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しかし彼はゆっくりとゲームに戻ってきた。今年はシニア大会に2回ほど出場し、マジソン・スクエア・ガーデンでロジャー・フェデラーとエキシビション・マッチを行った。彼はラファエル・ナダルと対戦してみたいと語った。ナダルは今年、フェデラーからトップの座を奪っている。

「ナダルのゲーム、球種、敏捷性を見たいな」とサンプラスは語った。「試合だろうが練習だろうが、かまわない。僕にとっては興味深いだろうね」

ふさわしい状況ならば、スペイン人に対してチャンスがあるだろうとさえサンプラスは考えている。
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「もしここで、このコートで彼と対戦したら、競い合う事ができるだろう。言えるのはそれだけだ」ロイヤル・アルバート・ホールの速い室内サーフェスにおけるサンプラス。「現在、彼は世界最高の選手で、僕はそうじゃないよ」

この旅行で、サンプラスはオール・イングランド・クラブに立ち寄る事を考えてみたが、否定の決断を下した。サンプラスは1993年から2000年まで、8年間で7つのウィンブルドン・タイトルを獲得した後に、2002年大会の2回戦で5セットの末ジョージ・バストルに敗れた。

「適切な機会ではなかっただけさ」とサンプラスは語った。もし13回のグランドスラム・チャンピオンであるフェデラーが、彼の14という記録を破る時が来たら、恐らく彼は戻ってくるだろう。「お膳立てが整った時に、僕は戻るよ」


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