AP通信
2008年12月3日
サンプラスはロンドンへ戻り、「最高」のマッケンローを破る


ピート・サンプラスは6年ぶりにイギリスへと戻り、ロンドンのブラックロック・マスターズ大会でジョン・マッケンローに6-3、6-4で勝利し、熱狂的な大歓迎を受けた。

サンプラスの意見では、マッケンローは7回のウィンブルドン・チャンピオンに対して今までで最も良いテニスをしたという。しかしロイヤル・アルバート・ホールで自分より若いアメリカ人を倒すには充分でなかった。

最初のサービスゲームでは、マッケンローはサンプラスを0-40まで追いつめたが、サンプラスのサーブで唯一とも言える機会をものにする事はできなかった。

その後もラリーや反射的プレーには、ピークを過ぎたとされる男たちにしては、息を呑むような見事さが見られた。

両者とも試合を通してサーブ&ボレーを続け、満員となったロイヤル・アルバート・ホールの観客は、あらゆる瞬間を味わい尽くした。2人のプレーヤーも同様だった。

「ここでプレーする事について何人かと少し話をしたが、観客は素晴らしく、競技場は目を見張るようだと教えてくれた。本当にそうだったよ」とサンプラスは語った。

「引退して6年になり、今でもこのような観客の前でプレーできるのは光栄な事だ。本当に楽しいテニスの一夜だった」

彼はマッケンローへも、惜しみない賛辞を送った。

「49歳でサーブ&ボレーや効果的なプレーができ、今でもあのようなタッチや動きを持っているなんて、信じがたいよ。テニス界では49歳は若くない。だから彼自身が体調を保ち続けているのには、さらなる称賛を送らなければ。僕は彼がコート以外のトレーニングもたくさんしている事を知っている。それが効果を上げているんだね。とても感銘を受けているよ」

マッケンローも同様だった。

「ここに出場してから12年が経つが、自分がこれほど良いプレーをし、それでも負けた試合がそれほどあったか覚えがない」とマッケンローは語った。「幾つかのゲームでは、少し不運だった。2回のサービスゲームや、私が第1ゲームで0-40を得た時のようにね。初戦でピートと対戦するのは、言わば狼の群れに投げ込まれたようなものだ。だが負けたとはいえ、この試合を経験できたのは素晴らしい」

サンプラスは木曜日に休日を利用して、ウィンブルドンを訪問するかも知れないと語った。彼は2002年にジョージ・バストルに敗れて以来、彼の最も素晴らしい勝利を生み出してきた場所へ行った事がない。

他方、グレッグ・ルゼツキーはステファン・エドバーグを7-6(7)、5 - 7、10 - 6(チャンピオンズ・タイブレーク)で下し、セドリック・ピオリーンはジェレミー・ベイツに6-3、6-4で勝利した。

マーレーは夢が実現する

ジェイミー・マーレー(アンディ・マーレーの兄弟)は、偉大なピート・サンプラスとグラウンド・ストロークを交わす事を夢見て成長した。水曜日にロンドンで、彼の夢は実現した。

ジョン・マッケンローとの対戦に先立って左利きの練習相手が必用となり、サンプラスはマーレーにそれを頼んだのだ。彼はダブルスに出場していた。

2人は笑い合い、冗談を言い合った。マーレーにとっては、それは格別の経験だった。

「とても楽しかった」とマーレーは語った。「テニスコートでこれほど真剣に集中した事が、これまでの人生にあったとは思わないよ。だがピートが相手では、そうでなければね。彼が最初に打ったボールは時速120キロくらいだった。それは大変面白かったです、彼は今でも惚れ惚れするようなボールを打ち、コートの後方からでも正確なショットを打っていた。

僕はそれを楽しんだが、自分の人生でこんなチャンスを得られるとは、考えた事も期待した事もなかったよ」

*2人の間にいるのは、トム・ガリクソンですね。彼もダブルスに出場しました。


インディペンデント
2008年12月4日
マッケンローを下し、サンプラスは満場をうならせる
文:Paul Newman


14回のグランドスラム優勝者が、ロイヤル・アルバート・ホールで観客を楽しませる


記録破りのキャリアを通じて、彼はピストル・ピートとして知られていた。昨夜のロイヤル・アルバート・ホールでは、おふざけ屋のピート――ベテラン・サーキットの新兵が登場した。

ピート・サンプラスは14のグランドスラム・タイトルを獲得する途上で、多くの優れた特質を披露したが、ユーモアのセンスは必ずしも含まれていなかった。しかしながら、ブラックロック・マスターズ大会の初戦でジョン・マッケンローを6-3、6-4で下すさなか、37歳のアメリカ人は観客を楽しませるという点でも、通常は異論のないチャンピオンである対戦相手を出し抜くという、注目に値する偉業を成し遂げた。

早くも第1ゲームで、マッケンローはライン判定で主審と線審に文句をつけていた。サンプラスは素速く大またで前方へ歩み寄り、エースに「イン」の判定を下してマッケンローを怒らせた線審に「脅かされちゃダメだよ!」と声を掛け、満場の観客を笑わせた。


サンプラスが第1セットを決めるゲームで、もう1本のエースが「イン」と宣告されると、マッケンローは主審に見ていたかどうか尋ねた。「僕は見たよ」とサンプラスは声を張り上げ、自らホークアイ・ビデオの再生を演じて大喝采を博した。彼はボールを高く掲げてその軌跡をたどり、ゆっくりとネットをまたぎ越えて、接地したと覚しきセンターライン上にそのボールを置いたのだ。マッケンローは言葉もなかった。彼の表情は、サンプラスに「真面目にやれ(You cannot be serious ――マッケンローの十八番)」と言いたがっている事を物語っていたが。

これはサンプラスがウィンブルドンで最後の試合をして以来、6年ぶりとなるイギリスへのお目見えだった。彼は同じ年に現役ツアー最後の試合を戦い、USオープンで優勝した。そして2年前に時折りエキシビション・マッチでプレーを始めるまで、ラケットを握る事はなかった。

49歳のマッケンローは仲間のアメリカ人より12歳年上だが、彼らのキャリアは短い期間重なり合っていた。サンプラスは3回の対戦すべてに勝利した。グランドスラム大会における唯一の対決では、19歳のサンプラスが4セットで勝ち、そのまま1990年USオープンで初のメジャータイトルを獲得した。今回サンプラスは、余裕を残してプレーをしているようだった。マッケンロー自身も厄介なゲームは健在で、効果的なサーブ、スライスを披露した。しかしサンプラスがサーブとボレーのリズムを掴むと、2人のギャップは歴然としていた。

第1セットでは、マッケンローは自分のゲームをキープしてきたが、ついにサンプラスがブレークして5-3リードとした。ブレークポイントをものにしたフォアハンドの破壊的なクロスコート・パスは、対戦相手を草刈り鎌で半分に切り裂くかのようだった。2本のエースも手伝い、サンプラスは自分のサービスをラブゲームでキープしてセットを取った。

第2セットも似たような経過をたどった。4-4でマッケンローはフォアハンド・リターンをミスジャッジし、ボールはベースライン上で跳ねてサンプラスがブレークを獲得した。数分後には、コート中央への強烈なサービス・ウィナーで勝利が確定した。

「とても楽しかったよ」と後にサンプラスは語った。「引退して6年が経ち、今でもこのような観客の前でプレーできるのは光栄だ」

昨年マッケンローは、もしサンプラスが再びウィンブルドンに出場したら、トップ5にシードするだろうと言ったが、現在もその意見は変わらないと語った。「あのサーブはただただ恐しい。「現在のトップ4を除けば、誰も彼と対戦したがらないだろうね」

サンプラスはラウンドロビン・グループの最有力候補で、日曜日の決勝戦でグレッグ・ルゼツキーと対決する見込みは高いと思われる。昨日、元イギリスのナンバー1はステファン・エドバーグを7-6、5-7、10-6で下し、2連勝を遂げている。

ルゼツキーは恐怖のサーブを放ち、ボールガールがその落雷を2度よけそこなうと、エドバーグは防具として彼女に自分のラケットを差し出した。エドバーグにもチャンスはあったが、第1セットでのムラのある出来を悔やむ結果となった。


タイムズ
2008年12月4日
ピート・サンプラスはロンドンへの帰還で、マッケンローを寄せつけない
文:Neil Harman


彼らはかつてフォークランド紛争の死傷者リストを読み上げた公務員の抑揚を偲ばせる、「一言一句も聞き漏らさないように」という口調で紹介された。ジョン・マッ――ケン――ロー、そしてピート・サン――プラス。それはまさにロイヤル・アルバート・ホール的だったかも知れない。だがどうにか、両者合わせて21のグランドスラム・シングルス・タイトルを獲得した2人の男たちの対決は、大仰な口上に値した。たとえ観客の半分はボックス席でシャンペンに酔いしれ、もっと安い席の観客はベージュ色のカーディガンを着た団体客であったとしても。

これは興味をそそられるもの、ニューヨークでならマジソン・スクエア・ガーデンを盛り上げたであろう試合、ラスベガスでなら彼らはやんやとはやし立てられ、アジアの国々の首都でなら狂喜を引き起こしただろう。旧き良きロンドンでは、彼らはマッ――ケン――ローとサン――プラスだった。しかし彼ら偉大なスラマーが、ストロークで、壮麗かつ奇妙で怒りっぽい感情の爆発――大体はご承知のあの男から――で、我々の思い出と戯れるのは、注目すべき光景だった。

現在は数百万ポンドのビジネスとなったが、OB達のどたばた喜劇リーグに関するアイディアが20年ほど前に初めて提起された時、これは創設者が念頭においていたものだった。 2カ月後に50歳の誕生日を迎えるマッケンローは、彼の肌のようなかすかに青白く見える上下白のウェアで、髪はグレーのもじゃもじゃ。

対するサンプラスは、いささか髪が薄くなり、短いソックスに、かつては右の親指で汗を払いのけていたが、両手首に巨大なリストバンドをはめている。髭を剃っていないので、「パイレーツ・オブ・カリビアン」のキャラクターか何かのようだ。しかし、ああ、彼らは今でもプレーできるのだ。

彼らは現役時に3回対戦し、サンプラスがすべて勝利した。2回目は1990年USオープン準決勝における4セットの勝利で、イワン・レンドルとアンドレ・アガシに対する勝利に挟まれていた。内気で自信のない19歳の少年は、自国の選手権の最年少優勝者として栄冠を勝ち得たのだ。彼が持つグランドスラム・タイトル14の1つ目だった。それはマッケンローがテニス界を支配した黄金の1984年に7つ目、そして最後となった優勝を遂げてから6年後の事だった。

彼は思い出す気もないほど長くシニアツアーに君臨してきた。しかしそれはマッケンローならではの表現で、承知の上で控え目に述べないのだ。彼がいなかったら、このツアーはどうなっていただろうか。サンプラスは戻る気になっただろうか。ポール・ハーフース、ヤッコ・エルティン、クリス・ウィルキンソン、ジェレミー・ベイツ等の人材にとって不利にはならないか? いや、マッケンローは独力でこういった一団を救ってきたのだ。そして49歳であっても、彼に対しては最高の選手が最高の調子でありたいと望むのだ。

サンプラスを倒せると彼が固く信じる事によって、この試合はいやがうえにも魅力的なものになった。今年アメリカのイベントでサンプラスが彼に敗れた時、彼はサンプラスが怪我をしていると承知していた。その事は今回の対決に、少しばかりスパイスを付け加えた。

彼らのラウンドロビン初戦は6-3、6-4でサンプラスが勝利した。主たる勝因はサンプラスが12歳若い事と、気分が乗れば彼は今でも自在なサーブを放つ事ができるからだ。

意外にもサンプラスが実際に観客を笑わせた時、マッケンローはゾンビのようによろめいている状態だった。第1セット最後のサービスゲーム、サンプラスは第1ポイントで唸りを上げるエースを打ち込んだ。

マッケンローはボールが落ちたと覚しき場所を凝視しながら、両手を腰に当てて、肘を張って立っていた。キム・クレイブン―― 彼は確かに苗字の持つ意味(craven には臆病者という意味がある)に従って行動しなかったが――は、ラインズマンのコールは正しいと言った。

コートの反対側から、突然サンプラスが大声で言った。「僕は見たよ」と。彼は素速く頭上にボールを掲げ、前方へとのんびり歩いて、腕を挙げたままネットをまたぎ、それからボールをセンターラインの上にそっと置いた。

相手が他の誰彼であったら、マッケンローは苦情のフルコースを3人前は提供しただろう。「ジョンには本当に感銘を受けたよ」とサンプラスは語った。「彼はツアーを引退してからも、ほぼ毎週テニスをしてきた。彼はサーブ&ボレーをし、僕は彼のサーブを拾うのに苦労した。これはプレーにはタフなコートだ――もう少し遅くしてほしかったよ」

今日、サンプラスは秘かにオール・イングランド・クラブへと向かうかも知れない。「スーツとネクタイなしでも中に入れるの?」と彼は尋ねた。それをビバリーヒルズに忘れてきたとしても、彼なら許されるだろう。


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