TENNIS.com
2008年3月11日
僕は続けられない、僕は続けなければならない……
文:Peter Bodo


昨夜、6-3、3-2でロジャー・フェデラーのリードとなった場面で、グランドスラム・シングルス史上最多優勝者であるピート・サンプラスとのエキシビション・マッチは、すべてを包含しているかのようだった――テニス以外のすべてを。

もちろん、近ごろの風潮からいえば、それは致命的な欠陥ではないかも知れない。それでも、( Tennis World 読者の健全な代表を含む)19,690人という満場の観客、マジソン・スクエア・ガーデンの神秘的な雰囲気、解説者席のジョン・マッケンロー、 接待用ラウンジのロイ・エマーソン、そしてコートサイド席のバリー・ディラーとタイガー・ウッズ(他多数)の存在――そのすべてが、ジミー・コナーズ対ギレルモ・ビラス(1977年マスターズのラウンドロビン)、あるいはイワン・レンドル対ボリス・ベッカー(1988年マスターズ決勝戦)のような白熱した試合である事をいくぶん示唆していた。もう1人の出席者、ドナルド・トランプの気まぐれな指令でないのなら。

しかしそこには奮闘し、ぎこちなく――サンプラスを描写するのに「ぎこちなく」という単語を使うなど、誰が考えただろう!――ネットへと向かうピート・サンプラスがいた。心臓はドキドキと鼓動を打ち(抑えがたい熱望からというよりも、確かに不安から)、ラケットを振り回し、ショットを強打し、いかにも並はずれた「現役」プレーヤーの掌で不面目を味わう「元」プレーヤー――実際に彼は「元」プレーヤーである――のように見えた。

フェデラーはインゲン豆のようにほっそりしていた(君たちは認めるべきだ、彼がサーブをする時、突き出した左脚がまさしくインゲン豆のようにカーブし、細い事を)。彼は黒一色のウェアを身につけていた。ショートパンツと半袖シャツではあるが、ビーチへ向かうジョニー・キャッシュを連想するような、面食らわせる出で立ちだった。
訳注:ジョニー・キャッシュ(Johnny Cash。1932〜2003年)。アメリカ合衆国のカントリー、ロック歌手・作曲家。特徴のある深い声、黒服の着用と振舞いから"Man In Black"というニックネームを得ていた。

要するに、見栄えが良くなかった。この大宣伝されたエキシビションが、退屈な催しとなってしまうかも知れないのは、テニスにとって望ましくなかった。そしてフェデラーがサンプラスを叩きのめすのを見るために、人々がチケットに100、500、1,000ドル支払っていたからには、プロモーターにとっても望ましくなかった。哀れな男のグランドスラム・シングルスタイトル記録を奪い去ろうとしている同じ指で、彼はセカンドサーブをクロスコートに鋭くひと打ちするのだ。

私は試合の早い段階で、フェデラー対サンプラス第4戦のテレビ放映を見る代わりに、直接見て気づいたものに失望した。サンプラスは不適格に見えた。彼が手堅いオーバーヘッドを打った時でさえ、私は「ご老人、気楽に!」という思いを抑えかねていた。そしてサンプラスが不意を突かれ、パッシングショットのために足を踏み出す事さえできなかった時には、ありえない事が心に浮かんだ。ここにナイキのショートパンツを穿いたリア王がいて、ロジャー・フェデラーのサーブとフォアハンドとなって現れた雷が夜空に閃く中、彼は荒野をさ迷っているのだと。

哀れなピート、と私は思った。それは年老いたチャンピオンの宿命なのか? ストリングスが切れるように、顔に皺を見いだし、年若いライバル・後継者が放つ顎を砕き鼻を折るパンチの中に、虚しくもまっすぐに進んでいくのは。彼らはその宿命を避けうるほど賢明ではないのか?

まあ、やがて私はテニスの神々がチッチッと舌打ちし、苦言を呈するのを聞くのだった:おお、なんじ信仰うすき者……と。なぜなら私は、サンプラスがチャンピオンである事を忘れていたのだ。そしてチャンピオンは途方もない事をするものだという事を。ここに1つの助言がある。もし次の出来事があなたの目をこすらせ、そして不平を呟かせたとすれば、私は自分が見ているものを信じない。

これは、あり得な……くもなかった。何か疑わしい事が進行していたのだから。これは老いも若きも、偉大な人々がする事である。これはジミー・コナーズが1991年8月に成した事、パンチョ・ゴンザレスが41歳の時に1969年ウィンブルドンで成した事だ。彼らが何年も昔に成した事である。彼らは思わせる、いいえ、こんな事が起きる筈がないと……。彼らはありそうもない驚くべき事をするものなのだ。そしてもし彼らがしている事の正当性を疑うのなら、彼らを見る資格はない。

みんな何が起きたかを見た:ゆっくりと、まるで氷河のように、サンプラスは立ち直ってきたのだ。その日早くに彼が抱いていた望み(「僕は数ゲームをキープして試合に入り、諦めすぎる事なく気持ちを安定させたい」と彼が語った時)は打ち砕かれていた。しかし見事にも、彼はすべての偉大なチャンピオンがいずれの時にか成した事、ロジャー・フェデラーもいずれきっと成すであろう事をしたのだ。

彼は長くゆっくりとした立て直しを始めた。1ポイント、さらに1ポイントと。自分に命じるベケット的な内なるモノローグに続いて:僕は続けられない、僕は続けなければならない、僕は続けられない、僕は続ける、と。それは時代がいかに変わったかの指標である。このモノローグは現在、偉大な事を成し遂げる人々の戦いの賛歌へのリフレインというよりも、人生の無意味さへの遺言だと見なされている。
訳注:サミュエル・ベケット(Samuel Beckett、1906〜1980年)。アイルランド出身のフランスの劇作家・小説家・詩人。不条理演劇を代表とする作家。1969年にノーベル文学賞を受賞。

サンプラスの心中では確かにリフレインだった。彼が長い、そして恐らく不可能な旅に乗り出した時には。しかしサンプラスは、その旅への装備が整っていた。勝敗は最後まで分からないという事を熟知する、チャンピオンとしての歴史があった。また彼には、注目に値する競争心、すべての試合を初戦であるかのようにプレーする残余の能力があった。それは焚きつけられた絶え間ない試練への探求心であり、彼の精神と心は革のごとく強靱な何かに鍛え上げられてさえいた(考えてみれば、恐らくそれこそが、もはや炎が彼を傷つけない、あるいはたじろがせない理由だろう)。

そしてサンプラスは、対戦相手のフェデラーと同じく冷静さを持っていた。これは結局のところ、ウィンブルドン決勝戦ではなく、エキシビション・マッチだった。そしてフェデラーは彼にポイントを与えた訳でもなく、へりくだった訳でもなかったが――全世界が見守る中では、必然の成り行きかと見えた6-3、6-4でフェデラー勝利という結果よりも、はるかに印象が悪かっただろう!――彼もまた我々よりも、サンプラスがそんなにも早く荒野に倒れ伏すのを見たくなかったのだ。

しかしこうも言える。フェデラーがどのように物事を秤にかけ、彼の親切心や才能に関する暗黙の計算がどうであったかにかかわらず、サンプラスにとっては生きるか死ぬかの奮闘に近いものだった。ガーデンのエキシビションにおけるフェデラー、USオープン決勝戦でのアンドレ・アガシ、いったいどんな相違があり得たのか? どんな相違があったのか、何をフェデラーが言い、考え、あるいはしたのか? あなたはピート・サンプラスで、そして尻を蹴っ飛ばされていた。あなたは続けられない、あなたは続けなければならない。

ゆっくりと、まるで氷河のように、サンプラスは立ち直っていった。時の手にしがみつき、何者かの夢に出てくる男のようにぶら下がり、引っ張って、引っ張って、かつてへと自分自身を引き戻して。フェデラーはそれを見ていた。時には苦笑いを浮かべて、時には困惑した様子で尋ねるように。うむむ……これは興味深い、大先輩の念頭には今、何があるのか? ご老体の念頭にあったものは、流行の黒いウェアを着た子供を蹴り飛ばし、そして恐らく目玉をえぐり出すか、あるいは耳を引きちぎる事だったのかも知れない。

そのセットではゲームが進むにつれて、サンプラスが最後のプレーから5年の間に置き忘れていたらしき何かを見つけ出し、それを特別な、チャンピオンがギリギリまで押し込まれた時に行く秘密の場所に据えたのが分かった。その場所では突然に、他の誰か(もう1人のチルデン、ゴンザレス、レーバー、ボルグ、ナダル )と対戦するのではなく、ひとり沈思内省するのだ――自己の内なる獣に喰らわせるものを料理するため、計量カップに己の天才の成分(サーブ1つまみ、フォアハンド・パス少々、 ビランデル〈の粘り強さ〉カップ1杯)を注ぎながらハミングするのだ。

胃の中に何かあり、げっぷをしたらサンプラスは気分が良くなった。第2セットのタイブレークを勝ち取るまでには、彼のゲームは落ち着き、安定していた。そしていま一度、我々はかつてのサンプラスを目にした――楽々とエースやウィナーを取るサービス、ラリーの選択を排除した果敢なテニスを。極上のサンプラスと対戦する時には、ポイントは――あれやこれやで――6〜7本以内のショットで終わっていた。後にフェデラーが言ったように。「今日は少し違っていた、プレーの仕方がね。多くの男はただラリーをするか、ミスを望むか、あるいはベースラインから攻撃しようとする。だがピートは、彼はもっと威圧的だ」

それがピストル_2なのだ。しかしもう1セットがあった:僕は続けられない、僕は続けなければならない。サンプラスは0-2と遅れをとり、それからブレークバックした。僕は続けられない、僕は続けなければならない。彼はさらに5-2リードとした。しかし彼がトンネルの終わりに光を見たとは言いがたい;その光を見る者は勝つのだ、以上。続ける事ができなくなっても、それでも彼は続けた。彼は自分のリードが消えていくのを見た、そして彼は続けた。彼はタイブレークに入り、そして続ける事ができなかった。しかし彼は続けた。

そして突然、第3セットのタイブレークという「聖域」に到達した。そこは――かつて彼が精通していた場所だった。ドイツのハノーバーではボリス・ベッカー戦、ニューヨークではコレチャ戦、アガシ戦。長く消耗する苦闘の後に、甘やかなしばしの間、彼はその驚くべき場所に戻っていた。試合は彼のラケットに懸かっていた。

タイブレーク、サンプラスのサーブ、と主審が告げた。

なんと奇怪な、と私は思った。それは私に Cacoon という映画を思い出させる。あるいは抗ヒスタミン剤の薄気味悪いコマーシャルを。そこでは哀れな薄のろがとびきり明るい青空の下、ウィルソン No.4 サイズの鮮やかな黄色の花に取り巻かれて、歩道のように密生した緑の芝生をさ迷っているのだ。

もちろん、それは長続きする筈もなかった。それを神に感謝する。私はあの抗ヒスタミン剤のコマーシャルが嫌いなのだ。

サンプラスはタイブレークを堅実にプレーした。しかしフェデラーはエキシビションの価値と目的をきちんと要約したやり方で、カムバックを果たして勝利した。私は相手が誰であったか、あるいは誰であるか、相手がいかにプレーしたか、あるいはプレーするかは気にしない。速い室内サーフェスで、もし全盛期のピート・サンプラスに対して第3セットで5-2ダウンだったら、称賛の的だったのだ。

だがこれは全盛期のピート・サンプラスではなかった。ロジャー・フェデラーが忍者のような装いにもかかわらず、完璧な暗殺者ではなかったのと同様に。これは楽しいロール・プレイングであり、現実の再確認を見込んだエキシビションであった。しかしある時点では、現実それ自体が主張しがちだ。そしてこのエキシビションの大きな成果は、それが最後の瞬間まで起きなかったという事だった。それゆえ、観客が目にする事になっていたものを確実にするため、おおっぴらにインチキをしたり、ポイントを捨てるという手段に訴える必要がなかった。

フェデラーがサンプラスの拙いボレーに対してバックハンド・パスを放ち、タイブレーク6-6で決定的なミニブレークを得た時、私は公正さ――そしてそれ以上のもの――の目的に適ったと感じた。

私は明日には戻り、この魅力的なエピソードを入れて未完成の原稿を仕上げる。

ついでながら、連中はガーデンで、そしてイベント前後のカクテルに出席していた。道では、スティーブ・ティグナー(テニス記者)と私が真夜中に到着するまで、黒ビールに留まる事ができなかった読者の何人か(Joella? 君はいるかい?)にも出くわした。出席者の中には次の人々がいた:GVgirl 、ルース、サム、JB、NDK、DWiz、レイ・ストナーダ、エド・マクグローガン、ロロ・トマシ、フェリックス(フリーマン)、 Ptenisnet(と美しい妻のカレン)、スキップ……スヌー・フーの姿もあったが、 彼女は試合後にいなくなった。

君たちに会えたのは素晴らしかったよ。試合を観戦した君たちが、コメントで印象を書いてくれるよう望んでいる。


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