テニス-X
2008年5月5日
ピート・サンプラス対ロジャー・フェデラー戦:
マジソン・スクエア・ガーデン対決の舞台裏
文:Weller Evans


先月、アメリカのテニスファンは特別な試合を堪能した。史上最高のプレーヤーと見なされる男、ピート・サンプラスが、いずれその称号を受け継ぐと予想される男、ロジャー・フェデラーと同じコートに立ったのだ。


マジソン・スクエア・ガーデンを埋め尽くした幸運な19,690人(チケットは2週間で完売)の1人だった者は、2人の偉大なチャンピオンが2時間半近く戦い、ロジャーがピートに6-3、6-7(4)、7-6(6)で逃げ切った試合をライブで観戦しただろう。テニス自体にはムラがあり、目を見張るようなショットと当惑するようなミスが同居していたが、ドナルド・トランプやレジス・フィルビンを含む観客は大いに楽しんで帰途に就いた。
訳注:レジス・フィルビン。1931年生まれ。エミー賞を受賞したアメリカのテレビ・タレント、俳優。

いや、私は1,000ドルのチケットも、「安い」50ドル席のチケットも持っていなかった。だが、私は舞台裏で働く機会を得た。彼ら2人が必要とするもの、予定されている行事を手配するためだった。たいていの「特別なイベント」やエキシビションでは、特にこれほど大規模なものだと、プレーヤーは開催地に滞在する短い期間、かなりの多忙となるのだ。例えば、ピートは試合を楽しみにしていたが、その理由の一部は、彼にとっては試合がその日の最も容易い仕事だったからだろう。

両プレーヤーとも、ビッグアップル(マンハッタン)には対決の前日、日曜日の早朝に到着した。ピートはジョージア州コロンブスからやって来た。その地でエキシビションを行い、トッド・マーチンに7-6(3)、6-4で勝利していた(さらに2晩前にはジャクソンビルで、地元出身のマーチンが6-4、6-7(5)、6-3でサンプラスに勝った)。両試合とも、ガーデンでのイベントに向けたピートの準備として組まれていた。一方ロジャーは、ドバイの大会序盤でアンディ・マレーに敗退した後、ニューヨークにやって来たが、悪天候のためにボルティモアで5時間の足止めを食った(スーパースターでも、時には我々と同じく移動が遅延する事もあるのだ)。イベント関係のあれこれに署名する以外は、2人は1日の大半を自由に過ごした。ピートは一眠りし、PGA と NBA の大会をテレビで少し見てから、イベント・スポンサーの NetJets が主催するパーティーへ出席する前に長いマッサージを受けた。ついでながら、両者とも NetJets 「プライベートな空の旅における市場リーダー」のクライアントである。

月曜日には、彼らは記者会見、メディアの選出メンバーとの1対1によるインタビュー等に臨んだ。滞在するイーストサイド・ホテルで彼らが待機している間に、私は世界で最も有名な競技会場へと向かった。その途中で、彼らのロッカールーム用に特別なリクエストを調達した……ロジャーにはオリジナル・プリングス(ポテトチップス)を4缶、ピートにはゲータレード(スポーツドリンク)の ニューG2 と無糖のレッド・ブル(スタミナドリンク)を。名士から楽屋用のリクエストがあれば、それを揃える――シンプルな話だった。

ガーデンの内部へ降りていくと、1987年のマスターズ大会にイワン・レンドルが16歳のサンプラスをヒッティング・パートナーとして連れてきた時から、殆ど変わっていない事に気付いた。今、20年ちょっとが経過し、レンドルはイベント興行主の1人となり、ピートをガーデンへと連れ戻した。ロッカールーム(ピートはニックス、ロジャーはレンジャーズのルームを使用し、両者とも背中に彼らの名前が入ったチームのジャージをもらった)とプレーヤーのゲスト用ラウンジの準備が整うと、コートをチェックする時間だった。ちょうど前の晩に、レンジャーズがこの同じ場所でブルーインズにシュートアウトで勝利し、スケートをしていたとは信じがたい気分だった。氷はまだそこにあるのだが、誰も気づかなかっただろう。絶縁グラスファイバーで覆われ、その上にプレミアコートが設えられていたのだ。

その晩の解説者を務めるジャスティン・ギメルストブと私は、短いヒッティングを行ってサーフェスを確認した。スピードは中くらいで(私はジャスティンと打ち合って速いと感じ……彼は私と打ち合って中くらいだと感じた!)、バウンドは低めだった。仮設コートには付きものだが、凹凸のある部分が幾つかあり、最も顕著なのはサービスラインの内側にある小さな起伏で、ピートは試合中にそれを見つけた。ロジャーのサーブが一度は彼の頭上を越えて跳ね、もう一度は向こう脛にぶつかりそうになったのだ。

プレーヤーは午後4時頃に到着した。それは今夜の盛り上がりへと向かう台本の21ページ目だった。彼らは試合を放映するテニスチャンネルのために各自、そして共同のインタビューを行い、それからプロデューサーと会ってコート上で短いリハーサルをした。最終的に彼らがコートでウォーミングアップできたのは午後5時頃だったが、建物内にいる人々の注意を大して引かなかった。スタッフは開場ぎりぎりまで、細部にわたる最後の確認に大わらわだったのだ。スポーツ通のニューヨーク市民でさえ、全盛期にあるナンバー1プレーヤーと史上最高のプレーヤーとの対戦を見るチャンスはそうないと知っていた。

レンドルと私は、コート後方にネットやスクリーンがないと、高額チケットの所有者は予想よりアクションに近い位置になるかも知れないと心配していた。そこでピートがサーブ練習をする間、我々はサービスライン後方の最前列に座ってみた。サンプラスのロケット弾を何本か避けた後、反射神経に優れたボールボーイをコート後方に増やすと決断した。

練習が終わり、ピートは幸運な USTA(アメリカテニス協会)メンバー数名と、ロジャーは Make-A-Wish 団体が選んだ難病と闘う子供たちと会見するために別れた。それが終わると、再び NetJets の歓迎会とメンズ・ボーグのパーティーが控えていた。ジョン・マッケンローはロッカールームを出入りして2人を掴まえていたが、その後にガーデンとテニスチャンネル視聴者双方のため、ニックスのロッカールームで彼ら2人にインタビューを行った。

優勝した合衆国デビスカップチーム(デビスカップが展示されている)、トニー・トラバート、スタン・スミス、12回のグランドスラム・シングルス優勝者ロイ・エマーソン(ピートは2000年に彼の記録を破った)、ビリー・ジーン・キング、そして2人が一度だけ公式に対戦した2001年ウィンブルドン4回戦――5セットの末にロジャーが勝利し、ピートのウィンブルドン31連勝を途絶えさせた――へ賛辞が送られた後は、試合を始めるばかりだった。

スパイク・リーには申し訳なかったが、私はこの後に会場で最高の席に座る事になった。

プレーヤーのゲスト用ラウンジで、私はイワン・レンドル(出席した殿堂入り7人の1人……殿堂入りが確実なロジャーを入れると8人)、元トップ10選手ティム・メイヨットと共にソファに座り、間近からハッキリとすべてのアクションを目撃した。

言うまでもないが、我々は独自の論評を交わし合った。イワンとティムの間では多くの逸話や冗談が飛び交ったが、それはメイヨットに対して17勝0敗というレンドルの生涯記録ほど一方的ではなかった(アンディ・ロディックもロジャーに対して同じ立場だとあなたは考えましたね)!

その晩のハイライトの1つは、第2セットでピートがウィナーを決めた後に、最前列に座るゴルフ界の偉人タイガー・ウッズの有名な仕草を真似て、握りこぶしを振り上げてみせた事だった。タイガーは大きな微笑みを浮かべ、観客は大いに盛り上がった。ウッズは1997年から NetJets のオーナーだが、親友のロジャーと過ごすためニューヨークへ来ていた。その後にオーランドへと戻り、ベイヒルで開催されたアーノルド・パーマー・インビテーショナルで5回目の優勝を遂げたのだ。

翌日、「ニューズデー」のショーン・パウェルは次のように書いた。「何といっても、 フェデラーとサンプラスが一緒になり、マジソン・スクエア・ガーデンに一晩の興奮と楽しみを取り戻し、誰もが満足して帰宅する事ができたのだ。ニックスのゲームで最後にそんな事が起こったのは果たしていつだっただろうか?」

翌朝の夜明け前、ロジャーとピートは一緒にジェット機で西海岸へと向かった。ロジャーはナイキの写真撮影と、それに続く ATP インディアンウェルズ大会のために、ピートは疲れた身体を休め、2人の幼い息子と遊ぶために。そして私はフロリダへ(通常フライトで)戻った。もっと多くのテニスプレーヤー、3A 地区チャンピオンの Nease 高校男子チームの世話をするために。


Weller Evans は ATP の元ツアー・マネージャ、副会長で、現在は退職して楽しくテニスボールを打ち、フロリダ州ポンテ・ベルダ・ビーチで指導に当たっている。


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