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アイダホ・ステーツマン 2006年12月6日 サンプラスはかつての仕事に戻りたがっている 文:Brian Murphy |
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競技テニスにおけるキャリアの間、ピート・サンプラスは運動選手である事に満足感を見いだしていた。費やされたエネルギー、流された汗、身体的な天性に。 引退して、サンプラスはたくさんの楽しみを見いだした――ゴルフ、ポーカー、2人の幼い息子と過ごす有意義な時間。しかし、かつての努力ほどの満足感を与えてくれるものはなかった。 「誰しも働く必要がある」先週の電話インタビューで、サンプラスはアイダホ・ステーツマンの記者に語った。「僕はビジネススーツにネクタイで働くタイプではないし、コンピュータと電話を使いこなすタイプでもない。僕は運動選手だ」 35歳のサンプラスは、14というグランドスラム最多タイトルの記録を持っているが、金曜日にボイシ市中心部のクェスト競技場でコートに戻ってくる。聖ルーク・アイダホ・エルクス・リハビリテーション・サービス( SLIERS )が主催するテニス・シュートアウトの中心人物として。 サンプラスはアメリカ人プロ、ロビー・ジネプリと対戦する。これは2人が今年行う3回のエキシビション・マッチのうち2番目にあたる。2002年USオープン後に引退してから、サンプラスは競技的なイベントではほとんどプレーしてこなかった。 彼は妻である女優のブリジット・ウィルソン、息子のクリスチャン(4歳)とライアン(1歳)と共に、カリフォルニア州ビバリーヒルズに暮らしている。 幾つかのエキシビションでプレーする機会は、サンプラスにとって申し分のないものに思われた。彼はゴルフとポーカーを堪能したが、もっと身体的な仕事を必要としているように感じていたのだ。 「レクリエーション活動より、もう少し何かが必要だと思っていたんだ」と彼は言った。「それは僕に何らかの規律、集中、かつての感覚を少しばかりもたらしてくれた。身体を動かす事が懐かしいよ」 いかにもサンプラスらしい。彼が64のシングルス・タイトルを含むキャリアを通して、プレーに本気で取り組んできたのは明らかだった。サンプラスの物静かな取り組み方は、ボイシ市で昨年の12月に行われた、似たようなエキシビション・イベントに参加したアンドレ・アガシと申し分のないライバル関係を築いた。アメリカ人同士のライバルは、1990年代の大半、テニス界を席巻した。そして彼らの対照的な個性は、大いに見栄えがした。 「それがライバル関係を素晴らしいものにしたんだ。自然だった。アンドレはより剥き出しで、ショーマンといった風だった。僕はずっと大人しかった。生まれるべくして生まれたライバル関係だった」 サンプラスが初めてアガシと対戦したのは、7歳の時だった。 10代の時でさえ、サンプラスは目覚ましい手腕を披露していた。――そして、偉大な才能には時に付きものの傲慢さが殆どなかった。 「信じがたい才能を持つ、はにかみ屋で内向的な子供だった」ボイシ市のテニスコーチ、グレッグ・パットンは語った。彼は1980年代半ばに合衆国ジュニア・デビスカップ・チームでサンプラスを指導したのだ。「彼はコートで、年齢を上回る事をしていた。そして彼の運動能力は、ただもう信じがたいものだった」 史上最高のテニス選手と見なされるサンプラスも、テニス界で最も目立つ個性の持ち主であるアガシも、競技テニスからいなくなり――共に幼い子供を育てており――アメリカではテニスの人気が下降してきた。アンディ・ロディック、ジェームズ・ブレイク、ジネプリといった若手のアメリカ人選手たちは、前の世代のような成功を収めてこなかった。 「スラム大会は今でもスタジアムを満杯にするだろう。だが抜群の人気になるためには、やはりアメリカ人の存在が必要だ。ファンは(ラファエル)ナダルと(イワン)リュビチッチを区別できない。フットボール好き、バスケットボール好き、野球好きな大衆を引き込むには、アメリカ人選手の存在が必要なんだ」とサンプラスは言った。 それが、テニス好き以外の人々がスイスのスター、ロジャー・フェデラー の支配にほとんど注目してこなかった理由である。フェデラーは9つのグランドスラム・タイトルを獲得し、サンプラスの記録に迫っている。――しかし、真の競争相手がいない。 ジョン・マッケンローにはビョルン・ボルグとジミー・コナーズがいた。サンプラスにはアガシがいた。フェデラーには、時折ナダルがいるだけである。 「彼を絶えずプッシュする者は誰もいない。彼はテニス界すべての記録を塗り替えようとしている。彼は16〜17のメジャー・タイトルを獲得する事もできるだろう。望む限り長く1位の座に留まる事もできるだろう。明らかに、彼は最高のプレーヤーだ」とサンプラスは言った。 サンプラスは自分たちのキャリアが重ならなかった事を残念に感じている。しかし、いかにフェデラーと対戦するであろうかは承知している。ネットに突き進む事。アガシを含む素晴らしいベースライン・プレーヤーに対して、彼が行ってきたように。 だが、彼は勝つだろうか? 「何とも言えないね。僕がベストだった時は、負けを知らないように感じていた。彼の全盛期、どちらが優れているかは何とも言い難い」 彼は1993〜1998年の間、1位の座を守っていた。 競技テニスに戻るという考えは、特にウインブルドンのシーズンには、「頭を過ぎった」とサンプラスは言った。サンプラスはタイ記録である7つのウインブルドン・タイトルを獲得した。そして彼は、ベースライン付近に留まるのを好む今日のプロに対して、自分のサーブ&ボレー・ゲームは今でも効果的だろうと考えている。 今のところ、彼は仕事へ戻る事に満足している。サンプラスは幼年時代、2つの仕事をしていた父親の顔を見る事は滅多になかった。彼は息子たちと過ごす時間を愛しているが、彼らが仕事について間違った考えを抱くのは望んでいない。 「息子たちには、それが普通だと思わないでほしい。ちゃんと教えるよ」 |
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