ボストン・グローブ
2008年4月27日
これはサンプラスに有効である
チャンピオンズカップ・シリーズは彼から落ち着かなさを取り去る
文:Barbara Matson


15年の間、ピート・サンプラスは己を駆り立て、そして一身を捧げたプロテニスプレーヤーだった。世界を巡り、タイトルを追い求めてきた。彼の自我は試合の勝敗、そしてツアーの厳しさと融合していた。人生はトレーニングと大会だった。

彼は常にあちこち旅行していたが、まるで自分の部屋がないかのように感じていたとサンプラスは語った。仕事は彼が目覚めた瞬間から始まった。身体によい朝食を準備をするか見つけるかして、それから午前の練習、午後の練習、 オフコートでのワークアウト、マッサージなどを秩序だってこなしていき、6〜7時までには終了した。

そして2002年、5回目のUSオープン・タイトルを獲得した後にサンプラスは引退した。彼は31歳で、女優のブリジット・ウィルソンと結婚して間がなく、ふたりには最初の子供が誕生するところだった。サンプラスは空気の抜けたボールのようにテニスを手放した。

「ある意味で、引退すると自分自身を作り直す事ができる」と、サンプラスはカリフォルニアの自宅から電話で語った。「僕は目覚めてゴルフをするか、もう少し朝寝してからゴルフをする。妻と一緒に何回か旅行した。食べたいものを食べるようになった。15〜16年で初めて、本当に息をついたんだ」

サンプラスはたっぷりゴルフをして、ハンディキャップを4にした。

「まるで週に8日ゴルフをしているみたいだった」と彼は語った。「テニスの記事は読まなかったし、見る事もしなかった。しばらくの間、テニスからは遠ざかっていたんだ」

それは数年続いたが、やがてサンプラスは居心地が悪いと感じ始めた。最初は、ウエストが少しきつく感じられるジーンズだった。その後は落ち着かない気分を持て余すようになった。彼の父親はギリシャ移民の息子で、家族を養うため2つの仕事に従事した。サンプラスは安逸な生活に、ますます落ち着かなくなったと語った。彼は2人の息子(クリスチャンは5歳、ライアンは2歳)を育てていたが、自分が息子たちに望ましいメッセージを送っているかどうか不確かだった。

「僕は外に出て、少し仕事をする必要があった」とサンプラスは語った。「父親が1日じゅう家庭にいて、仕事をしないというのは――生活とはそういうものだと息子たちに考えてほしくなかったんだ。それが根本だ」

サンプラスはグランドスラム大会での14を含め、64の生涯シングルス・タイトルを獲得し、6年連続(1993〜98年)で年度末ナンバー1選手となった。彼は今週アガニス・アリーナで開催されるチャンピオンズカップ・ボストンに出場するため、ボストンへ戻ってくる。この54,000ドル大会は水曜日に始まり、日曜日の決勝戦で終了するが、8人の有名な(30歳以上の)テニスチャンピオン達が優勝を目指して競い合う。サンプラスの他にジョン・マッケンロー、ジム・クーリエ、トッド・マーチン、ジミー・アリアス、アーロン・クリックステイン、ウェイン・フェレイラ、ミカエル・ペルンフォース等が出場する。

昨年、サンプラスはボストン大会で、引退以来初めてとなる競技的な試合に臨んだ。

「僕にとって最初の大会だったが、良かったよ」とサンプラスは語った。「楽しかった。競い合う事は愉快だったし、ボストンは素晴らしい街だ。ある晩ジョンと対戦し、頑張って勝利したんだ。素晴らしい経験だったよ」

サンプラス対マッケンロー――確かにこの大会でも目玉となる対決――は、金曜のナイト・セッションの第2試合に組まれている。

「ジョンと対戦するのは好きだ」とサンプラスは語った。「彼は49歳だが、今でも途方もないよ。素晴らしい手練を持っている。彼の存在にはある種の迫力があるんだ。僕はそれを楽しみにしているよ」

何をしたくないか知るのは、何をしたいのか知るよりも容易な時がある。サンプラスは多くの成功を収め、銀行口座には豊かな預金(彼の生涯獲得賞金は4,300万ドルを超えている)があり、家族を養うために稼ぐ必要はなかった。

しかし落ち着かない気分は彼に、玄関の外に歩み出て、時折仕事をする必要があると呼びかけていた。

何年も費やした移行期間の最中、妻は非常に辛抱強かったとサンプラスは語ったが、彼は気をもんでいた。

「僕は『何かを見いだす必要がある。ビジネスか何かを始める必要がある』と考えていた。僕たちはその事をじっくり話し合った。ある晩、彼女に『僕は外に出て、少しばかりテニスボールを打つつもりだ』と言ったんだ」

プロのツアープロから引退へ、そしてシニア大会に出場するパートタイム・プロへの移行はサンプラスに、決してないと言うべきではない事を教えた。

彼が25歳の時には、シニアテニスをする事はないだろうと主張していた。30代に入り、彼は考えを変えた。2006年、ヒューストンのプロモーターがサンプラスにエキシビション・マッチ出場を依頼した。それが楽しかったので、彼は2007年にチャンピオンズカップ・シリーズに参加し、出場した3大会すべてで優勝した。

彼のプレーは充分にシャープで、通常ツアーへの復帰の可能性についても取り沙汰された。そしてサンプラスは、今でもそういった質問を受けるが、復帰する気はないと語った。彼は生活と両立できるバランスを見いだしたのだ。

「引退すると、テニスに関する事はかなり限定される。解説かプレーするかだ」

現役中は寡黙で真剣だったサンプラスが、解説に関心を持たないのは驚くに当たらない。あるいはコーチングにも。それは15〜20大会のスケジュールを通して、彼をロードに引き戻す事になる。

彼にスリルをもたらすのは競う事なのだ。昨年末にアジアで、彼は現在の男子世界ナンバー1であるロジャー・フェデラーと3回のエキシビションを行い、3セットマッチの1試合に勝利した。そして今年3月にはマジソン・スクエア・ガーデンで再びフェデラーと対戦した(6-3、6-7[4-7]、6-7[6-8]で敗れた)。

「僕の一部は知りたがっている、どれくらいの間これをするつもりなのか?と。40歳になってもこれをしているだろうか? 分からない。それは進行中の仕事なんだ」


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