ボストン・グローブ
2007年7月15日
サンプラスにとって殿堂入りは名誉であり、解放でもあった
文:Bud Collins


ニューポート(ロードアイランド州)――ピート・サンプラスとアランチャ・サンチェス・ヴィカリオは街にいて、選手控え室の中では年長者だった。いいえ、彼らはカムバックした訳ではなかった。むしろ彼らは、スベン・デビッドソン、ラス・アダムスと共に、努力の末に「国際テニス名誉の殿堂」における最高の会員に選ばれ、テニス界の不滅の存在という新しい役割の仲間入りをする事になっていたのだ。

7月第2週の土曜日、一瞬一瞬が、過去が現在に上回る時だった。ジミー・ヴァン・アレン・カップの準決勝、合衆国で唯一の芝生コートにおける ATP ツアー大会は、予定通りに進行していた。だがこの日、輝かしい、晴れ渡った、そして海からの微風が吹く午後、過去の偉人に報いる2007年の殿堂入り式典によって、大会は影が薄くなっていた。(マサチューセッツ州レディングに住む77歳のアダムスは、写真の芸術的手腕を振るい続けているが、彼以外はテニスの仕事から離れている)

83位のサーブ&ボレーヤー、ニコラス・マウーと68位のファブリス・サントーロは今日、初のフランス人対決となった決勝戦を戦う。マウーは力強いフィニッシュで、36歳の左利きのベルギー人ディック・ノーマンに6-4、6-7(2-7)で勝利した。

賢い奇術師、フォア・バックとも両手打ちのサントーロは、彼ならではの手管――スピンとアングル――を駆使し、南アフリカのウェスリー・ムーディーを7-6(7-2)、6-3で屈服させて、5年前のドバイ大会優勝以来、初の決勝へと進んだ。

サンプラスはセンターコートをうろつく最も冷静な猫として、記録的な7つのウインブルドン・タイトルを獲得したが、謙虚なピートは式典で感極まり、芝生の上で声を詰まらせた。彼のスピーチは5分の予定で書かれていたが、むしろ5セットのようだった――「6セット」と、父親のサム・サンプラスは笑いながら言った。涙ぐみ、沈黙し、込み上げるものを飲み込み、言葉は切れ切れになり、スピーチは25分かかった。

「私がテニスコートで経験した、最も厳しい時です」ピートはやっと微笑む事ができた。これがピート・サンプラスだった。魅惑的なランニング・フォアハンドを放ち、爆発的なサーブ&ボレーを披露し、64のシングルス・タイトルを獲得した男は、殿堂の入り口でたじろいでいたのだ。「ラケットがないと難しい」

「今日はあなたの日よ、ベイビー!」と、会場を埋め尽くす3,781人の会衆から思いやりのある声が上がった。「ピート、愛してるよ!」と多数の呼びかけがあり、感情的に崩れそうな彼を助けた。

ウインブルドンの他に、5つのUSオープン、2つのオーストラリアンと、サンプラスは合計で記録的な14のメジャータイトルを獲得している。彼は「どのように、なぜ」テニスへと向かったのか、全く覚えていない。「私は7歳で、家にあった古いラケットを拾い上げ、壁に向かってボールを打ち始めました。私には手と目の協調力があり、そしてそれが好きでした。父は私にレッスンを受けるよう言ってくれました」

1978年の事だった。12年後、彼はUSオープンの最年少チャンピオンとなったが、その座に落ち着く事はなかった。1年後の準々決勝で王冠を失い、ジム・クーリエへの敗北でプレッシャーから「解放された」と表現し、そしてジミー・コナーズに容赦なく非難された。


「初めは憤慨しました」とピートは語る。「しかしその後、それは真実だと思い至りました――私には強靱さが足りず、さらに努力しなければなりませんでした。1992年USオープン決勝戦でステファン・エドバーグに負けたのは、目覚めの警告でした。私は第4セットで戦いを放棄していました。その事に心が痛みました。その敗戦が私の人生を変えたのです。努力して、ナンバー1であろうと決意しました」

彼はそれから6年間その座に就いた。同じく記録である。

「頂点にいる事、それは孤独でした。毎週毎週、私は皆のターゲットでした。オフシーズンもあまりなく、ストレスに満ちていましたが、それだけの価値あるものでした。多くの素晴らしい時がありましたが、最後の年(2002年)に、おそらく最高と最低を経験しました」

サンチェス・ヴィカリオ、快活な「バルセロナのマルハナバチ」は、スペイン女性として初めて、そしてマノロ・サンタナに次いで2番目のスペイン人('84年に殿堂入り)として殿堂入りする事を誇りに感じていた。そして、このような声明のできる数少ない殿堂入り選手として「私はこのコートで優勝しました」と言った。1990年、18歳の時に、彼女はジョー・デューリーを下して当大会の女子部優勝を遂げた。

アランチャは1989年、1994年、1998年にフレンチ・オープン、1994年にUSオープンで優勝、さらに11のメジャー・ダブルスタイトルを獲得し、キャリアの完成に当然な喜びを表した。29のシングルス、67のダブルス優勝。「私の年、今年が、4大大会すべてが男女同額賞金になった最初の年である事を嬉しく思います」


あまり知られていないが、金曜日に79歳になったデビッドソンは1957年にフレンチで優勝し、メジャー優勝を遂げた初のスウェーデン人である。長年ヨーロッパのタイトルを獲得してきて、現在は難病を抱えているが、上品に受賞の場に臨んだ。

スベンは気品をもって殿堂入りに感謝を表した。「私はアルツハイマー病と診断されました」と語り、強く心に訴えかける短い挨拶を述べた。

アダムスにとって、今回のすべてが新しい経験だった。彼はマサチューセッツ州スペンサーの小さな街の出身で、記憶に残るテニスの写真を撮り続けて世界中を駆けめぐってきた。1955年から数え切れないほどの選手、殿堂入りした全員を撮り続けてきて、彼は今、もう一方の側、カメラのレンズを向けられる側にいた。

彼は語った。「初めはゲームについて無知で、どのようにスコアをつけるかも知りませんでした。選手がボレーする写真を撮るよう頼まれても、『ボレーとは何だい?』と言う有様でした。しかし私は学ばなければなりませんでした。ロングウッドのニューイングランド・ジュニア大会が、私にとって初の大会だったと思います。ワイトマン夫人(当時のテニス界の偉大な女性、ヘイゼル・ワイトマン)が、私の面倒を見てくれました。コート脇で彼女は私の横に立ち、写真を撮るべき時に肘で私を小突いたのでした」

もう誰も小突く必要はない。彼は1968年USオープンのショットがお気に入りだ。「予想外の初優勝を遂げた後に、抱き合って泣くアーサー・アッシュと父親」。





<関連レポート>
「名誉の殿堂」レポート

7月14日の式典に参加した samprasfanz メンバーのレポートをご紹介します。
なんと! fanz のメンバー達は、式典の後にピートとの私的な会合をもったのだ
そうです。ピートやブリジットの様子、夢見心地なファンの感激ぶりをレポート
してくれています。文中に出てくるジョイとは、グループの代表者です。

そりゃ、端から見ればかな〜り感傷的でイタイタしいレポートかも知れないけど、
長年ピートを応援してきたファン仲間(特に女性は?)なら、この気持ち、分かり
ますよね!
ああ、それにつけても羨ましい……。(^^;