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2013年7月19日
ロジャー・フェデラー、ピート・サンプラスと世界ナンバー1ランキングの真の意味
文:Douglas Perry


40年前、コンピュータがテニス界を席捲した。

当時、SF映画の古典「地球爆破作戦(原題=Colossus: The Forbin Project『コロッサス:ザ・フォービン・プロジェクト』)」の現実的な恐怖が、プレーヤーの順位に猛威をふるった。もし点滅するスイッチと巨大な回転ディスクを持つ、新しいピカピカの IBM 大型汎用コンピュータが独自の仕事を引き受けたら、ツアーに何が起こるのか、誰にも分からなかった。

ある意味で、それは起こった。コンピュータは取り返しのつかないほどテニスを変えた。知覚力のある軍用スーパーコンピュータ「コロッサス(本来の意味はロードス島の巨像の名。第二次世界大戦時に、暗号解読器としてイギリスで使われた専用計算機)」のように、ATP コンピュータは方針を定め、あらゆる活動の中心になった。
ロジャー・フェデラーは7回ウィンブルドンで優勝したが、年末ナンバー1の座には5回しか就いていない。

ツアーが1973年にその機械を受け入れる以前は、ランキングは主観的で、様々なテニス連盟やジャーナリストが毎年リストを発表していた。多くの者は、ウィンブルドン・チャンピオンが事実上の世界チャンピオンであると考えていた。デビスカップ決勝戦まで待って、その年の王者を選ぶ者もいた。

もはや、そういう事はない。コンピュータは1〜2の人目を引く勝利だけでなく、シーズン全体を通して集められたパフォーマンス・データに基づく非情な決断を下した。

それは、ミスが一度もなかった事を意味するのではない。ATP のハル9000は1977年シーズンの終わりに、ジミー・コナーズの名前を吐き出した。ジンボはその年メジャータイトルを獲得できなかった。一方ギレルモ・ヴィラスは2タイトル(フレンチと合衆国選手権)を獲得し、さらに夏シーズンには7大会連続優勝を果たしていたのだ。

ヴィラスがコンピュータの寵愛を得られなかった一件は、テレビ視聴率がどうであれ、もはやグランドスラム大会が、テニスにおける栄光の究極かつすべてではない事を我々に気付かせる。コンピュータはシーズン全体という要件を提起したのだ。そして実際、ATP あるいは WTA のコンピュータ・ランキングでナンバー1になる事は、メジャー大会で優勝を果たすよりもずっと困難なのである。さらに困難なのは:世界ナンバー1でシーズンを終える事。

その達成がいかに難しいかについて、1つの例がある:アンディ・マレーは現在ウィンブルドンとUSオープンのチャンピオンで、さらに出場した過去4つのメジャー大会すべてで決勝戦に進出した。にも関わらず彼は2位で、1位のノバク・ジョコビッチとはかなりポイント差がある。

ヴィラスは1977年に年末ナンバー1にならなかっただけでなく、一度もランキングの頂点に立った事がなかった。

ウィンブルドンで3回チャンピオンになったボリス・ベッカーは、ナンバー1でシーズンを終えた事はなかった。8度のメジャー・チャンピオン、アンドレ・アガシが年末ナンバー1になったのは1回だけだった。

40年以上の間に、ナンバー1経験のある男子は25人しかいない―――1970年代と80年代の20年間にメジャー・シングルス・タイトルを獲得した男子の数と、ちょうど同じだった。1973年以降、ナンバー1でシーズンを終えたのは、たったの16人だった。

WTA は男子ツアーの2年後、1975年にコンピュータ・ランキングを用い始めた。コンピュータの女王としてシーズンを終えた事があるのは、11人の女子だった。7回のメジャー・チャンピオンであるビーナス・ウィリアムズは、2000年と2001年にツアー最大の大会2つで優勝を果たしてさえ、その中には入っていない。

メジャー大会で優勝がないエレナ・ヤンコビッチ、カロリーヌ・ウォズニアッキは、年末ナンバー1(各々2008年と2010〜2011年)リストに入っている。ビーナスの妹であるセレナが、体調と1年を通した集中を保つ事に、しばしば問題を抱えてきたのが主な理由である。シーズンのある時点でナンバー1の座に就いた事がある女子は、21人いる。

コンピュータが我々にもたらした、複雑さのつきまとうこの面白みを考えると、ランキング・システム到来から40周年を迎える今年は、着目する価値がある。さらに、まさに今週は ATP の電子ソロバンがらみで、もう1つの重要な記念日がある:ロジャー・フェデラーがナンバー1在位期間で、286週というピート・サンプラスの記録を破ってから1年が経過したのだ。

そこで、コンピュータが算出してきたなにがしかを提示した今、我々は一息ついて、その全体的な意味について思いを巡らさなければならない。テニス界のナンバー1である事の真の価値は何か?

「僕のヒーロー、ステファン・エドバーグ、ピート・サンプラスといった人々が達成した事を自分も成し遂げてきたのは、とても大きな事だ」と、フェデラーはコンピュータ・ランキング・システムの記念日を祝する ATP の刊行物で語った。さらに付け加えた:「世界ナンバー1の座は、向こうからやって来るものではない。自ら取りに行かなければならないんだ。それが、僕のした事だ」
ピート・サンプラスは6年連続で年末世界ナンバー1の座に就き、新記録を樹立した。

そこには次のものがある:落ち着き、自信。それなくしては、ナンバー1に達する事などできない。それが、多くの優れたアスリートが声高な愚か者である理由である。しかしこの点に関して、31歳のスイスの偉人は距離をおいている。彼には、接客係に対して無作法であるとか、あるいはボディーガードにサインをねだる者を遠ざけるよう指図するといった逸話がない。彼の好ましく愛想のよい公の顔は、まったくもって真実の姿に見える。これは、彼が富や人々からの絶賛といった喜びに、不自然なまでに影響を受けないからではない。彼は明らかに特典を楽しんでいる。それは主として、彼が金や名声を当然のものとしてではなく、ボールを打つ才能に伴う必然的な副産物として見てきたからである。彼は、自分が多くの点で常識から隔絶した世界に住んでいる事を承知しているのだ。

「僕はいつも、自分の郷里を、そして自分が何者かを思い出させなければならない」と、彼は昨年、7回目のウィンブルドン優勝を果たした後に語った。「僕は今でも普通の生活が好きだし、現実に戻り、家族や友人たちと穏やかに暮らす事が好きだ。そして時々、僕が過ごしている信じがたい生活に飛び込むんだ」

多分これが、世界を渡り歩くツアープロの生活、公的な存在であるが故の時に息苦しくなるような要求、そして技が衰え始めるにつれて激戦の末に敗北を喫する事などが、彼に不快感を与えない理由だろう。

彼は信じがたい生活を送っているが、そこから抜けだし、そして理解したのだ。

アガシもまた、30代でプレーヤーとして成功を収めた。それは彼が、キャリア早期には理解できなかった全体的な物事の捉え方を見いだしたからだ。彼の強敵だったサンプラスが、もはやトップの座にこだわらなくなった事も助けとなった。アガシは自伝の中で、過酷な要求をする父親が彼にテニスを「憎ませた」と書いたが、真の意味でアンドレに煮え湯を飲ませたのはサンプラスだった。毎年毎年、常にサンプラスはウィンブルドンに、USオープンに、そして年末チャンピオンシップに存在し、アガシをさんざんに打ち負かし、彼と彼の父親が当然与えられるべきだと信じていたものを拒絶したのだ。

ナスターゼは1973年のプレーヤー・オブ・ザ・イヤーに選出され、金のテニスラケットを授与された。
しかしここで、ピートとアンドレの全盛期だった1990年代より遡る事にしよう。イリー・ナスターゼ、コンピュータ・ランキング初の世界ナンバー1となったルーマニアの魔法使いとは? キャリア初期のアガシのように、途方もない才能に恵まれたナスターゼは、スポーツの情緒面で苦労した。テニスは孤独なゲームである。コート上では、助けてくれる者も、プレッシャーを取り除ける者もいないのだ。

1972年USオープンの決勝戦で、ナスターゼはアーサー・アッシュに追いつめられていた。2セット対1セットの劣勢、そして精神的に取り乱し始めていた。それから、彼の心はポイント間に当てもなくさまよい、スタンドにいる1人の見知らぬ男に目が留まった。その男は彼を駆り立てていた。彼はポイントが終わるたびにその男を見るようになった。そのファンはラケットの一振りごとに死ぬような思いをし、ナスターゼが勝利への途を見いだすのを切望していたのだ。それはまさに、ルーマニア人が自分を鼓舞するために必要としたものだった。彼は猛然と試合に打ち込み直し、そして5セットの末に、初のメジャー・シングルス決勝戦に勝利した。「彼は私の人生を変えた」と、後に彼はそのファンについて語った。「だが彼に会う事はなかった」

それはナスターゼにとって、9カ月間の素晴らしい疾走の始まりだった。以前の彼は、コート上で癇癪を起こしたり、おどけたりする事でよく知られていたのだ。 彼は滑りやすい芝生でそのUSオープンに優勝し、その後には、ウィンブルドンで彼を下したスタン・スミスにリベンジを果たして年末ツアー選手権で優勝し、さらには遅くバウンドの高いクレーで、1973年フレンチ・オープンに優勝した。彼はゲームの頂点にいた。そしてコンピュータ・ランキングは周知の事実を成文化したのだった。

しかしナスターゼの快進撃は、そこまでだった。1973年の夏、イギリス国内連盟の独裁的な越権行為に抗議して、結成したばかりの選手組合によるボイコットが決定されたにもかかわらず、ソ連ブロック監督官は彼にウィンブルドンでプレーする事を強制した。そして彼は序盤戦で敗退した。彼のもろい精神力は、残りのシーズン中、ロッカールームで手に入るだろうと考えていたものを得る事ができなかった。プレーヤー仲間は、権力に屈服してウィンブルドンに出場した彼を、どう思ったのだろうか? 彼は二度と立ち直らなかった。

ナスターゼは新しいコンピュータ・ランキングでナンバー1となり、1973年を終えた。それは堂々たる業績だった。1週間、あるいは1大会の間だけではなく、1年全体を通して世界最高であったという証明だった。しかしなお、彼を人生に揺さぶり戻すには充分でなかった。それは彼に慰めも、爆発的な自信ももたらさなかった。テニス界のコロッサス、果てしなく送り込まれる冷酷に処理した情報は、 ダモクレスの剣のように彼の頭上に吊されていた。彼は間もなくランキングを転がり落ち、次のメジャー・シングルス・タイトルを勝ち取る事はなかった。
ダモクレスの剣:共和制ローマ期の政治家で哲学者、キケロが書いたシラクサの僭主ダモクレスの物語に由来し、権力者の生命に迫りくる危険を象徴して用いられる。

ナスターゼはその後も12年間、辛抱してプレーを続けたが、テニス界のキングというよりもむしろピエロ王子だと、ますます見なされていった。実際には悲劇ではないとはいえ、あまりにも残念だった。彼は持てる可能性に応える事はなかったかも知れないが、後代のチャンピオン―――彼はそれを成した―――の言葉で慰めを得る事ができる。「ナンバー1である事は偶像視される存在になるという事だ」とピート・サンプラスは語った。「その座に就く者は、それほど多くない」

ナスターゼは頂点に長期間いる事はなかった。しかし彼はその座に就いていたのだ。


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