デカン・クロニクル(インド)
2013年6月22日
フェデラー、サンプラスとウィンブルドンの関係
文:Khelnama Santhosh





落雷の後に続く静寂は、耳をつんざく空の唸りそのものより恐ろしいものだ。威勢のよい19歳のスイスの若者が、ウィンブルドンにおけるピート・サンプラスの10年間にわたる支配を終わらせたあの曇りの日、あたりに広がるピンの落ちる音も聞こえそうな静寂は、そんな例の1つだった。少なくともセンターコートの観客たちは、自分の目にしたものが信じられなかった。「ピストル」ピートは単に無敵だっただけではなく、およそ人間に可能な限り神に近い存在だったのだ。1993年から2000年までの間に、サンプラスはウィンブルドンの芝生で一度しか負けた事がなかった。その敗戦は徹底的なサーブ&ボレーヤー、リチャード・クライチェクに対してだった。その年、クライチェクはそのまま待望のタイトルを勝ち取ったのだった。しかし、この無名のスイス人がどこからともなく現れ、そして観客たちが愛し、声援し、畏敬の念すら起こさせるプレーで彼らを楽しませてもくれた男を王位から退けたとは、なんたる事か。

その日に生み出された歴史的出来事を消化するのは困難であり、近代テニスの幕開けには終わりが訪れたとはいえ、観客はなんとか折り合いをつける事ができた。しかし、彼らが気づかなかった事は、歴史の流れを不可避的に変え、そして彼らのヒーローを王座から追い落としたまさにその男を、それから2年のうちには愛し、崇拝するようになっていくという試合の重要性だった。

この10年間の終わりには、サンプラスに対するウィンブルドンでの勝利は、ボリス・ベッカー、ステファン・エドバーグ、アンドレ・アガシといった最も偉大なテニスプレーヤー達の名前を思い出せないまでになっていた。サンプラスが「ピストル」ピートと命名されたのは伊達や酔狂ではなかった。彼のサーブは10フィート近い高さから発射される文字通りのミサイルだった。そしてたいていの場合は、細心の注意を払ってプレースメントされていたのだ。稲妻のような速いサーブには、もしリターンされれば、ネットへの秘やかなアプローチが、さらにはファースト・ボレーが続いた。これは公平に見て、サンプラスのゲームにおける1つの裂け目とも言える欠陥であった。サンプラスはネットにおける最も手ごわいプレーヤーの1人と見なされてはいるが、彼はネットでの最初のショットそのものでボレーウィナーを決める事はできなかった。たいていのプレーヤーが効果的に活かせなかった弱点である。しかし、どちらかと言えば平凡なボレーがひとたび返球されるや、サンプラスは途方もなく簡単に、苦もなくそれを素速く片付けた。ウィンブルドンにおける彼の支配はあまりに専制的で、グレッグ・ルゼツキー、ゴラン・イワニセビッチといった最速サーバーでさえ、女王陛下の庭でサンプラスが勝利へと歩み寄るのを見守る事しかできなかったのだった。

恐るべきサーブと同じくらい効果的なネットゲームを別にしても、サンプラスにはまた、レパートリーとして素晴らしい自在なグラウンドストロークもあった。バックコートからは最も優雅なプレーヤーという訳ではなくとも、サンプラスは決して他より劣りはしなかった。彼には強烈なフォアハンドと、同じく効果的な片手バックハンドがあった。サンプラスに見事な5つのUSオープン・タイトルをもたらし得たのは、これらの特質だった。また彼はオーストラリアのロッド・レーバー・アリーナでも、2回の優勝を果たす事ができた。1990年代にウィンブルドンだけでなく、他のグランドスラムでも本当にサンプラスをギリギリまで追いつめた数少ないプレーヤーには、彼が深い敬意を抱いていたマーク・フィリポウシス、ロシアのイブジェニー・カフェルニコフ、そしてもちろん、10回の対戦中6回サンプラスを破る事に成功したクライチェクがいた。

彼のゲームはパリのクレーには不向きで、驚くにはあたらないが、ローラン・ギャロスにおける戦績はあまり褒められたものではない。1996年フレンチ・オープンでは、計り知れない苦闘の末に準決勝へと進出を果たしたが、最終的にチャンピオンとなったカフェルニコフの前に敗れ去った。キャリア・グランドスラムを成し遂げられなかった事は、彼を批判する者たちがこだわる点である。彼の宿敵で親密な友人でもあるアガシが1999年にローラン・ギャロスで優勝し、サンプラスに果たせなかった快挙を成し遂げた事実も、逆風となった。

「時」はしばしば、それが最高であると人間に強い印象を与える。しかしそれは非常に劇的なかたちで決する事が多いため、忘却は世の習いであっても、後代の人々が忘れるとは考えにくい。フェデラーに対するサンプラスの敗北は、そういった例の1つだった。30歳を間近にして、サンプラスは2001年ウィンブルドンで4回戦までは対戦相手の大半を一蹴し、年齢による衰えの兆候を見せていなかった。彼のファンは、年齢は単にもう1つの数字でしかない、と考えていた。さほど致命的な影響は受けない、と信じていた。夏のイギリス、あの忘れがたい試合には、運命のいたずらが存在する。サンプラスは、31歳を迎えようとする宿敵のアガシに敗れたのではなかった。ビッグサーバーのクロアチア人、イワニセビッチに敗れたのでもなかった。彼のことは2回のウィンブルドン決勝戦で下していた。それが運命だったのか、サンプラスは自分がウィンブルドンで対戦相手を粉砕する光景を吸収しつつ成長してきた、若く元気あふれるスイスの若者によって敗れ去ったのだった。「時」は無言でサンプラスに語っていた:君の時は終わりだ、友よ、と。

しかし、1年と数カ月後にアメリカで、サンプラスは14のグランドスラムの最後となったタイトルを勝ち取り、情熱が残っている事を示した。しかしながら、サンプラスはゲームとの逢い引きは終わりだ、と知った。そして決勝戦でアガシを下した1年後に、その同じ場所、アーサー・アッシュ・スタジアムで引退した。

彼の引退は、テニス界におけるフェデラーの止めがたい上昇と時を同じくした。フェデラーはクロアチアのマリオ・アンチッチに打ち負かされた1年後、 2003年にウィンブルドンへと戻り、フィリポウシスを破った。彼はその年、人生を懸けるかのようなかたちで、7つのうち初のウィンブルドン・タイトルを獲得した。決勝戦への途上、フェデラーは準決勝でアンディ・ロディックを打ち負かした。それによって、テニス史で恐らく最も不つり合いなライバル関係の土台を築いたのだった。フィリポウシスはマラソンマッチの末にアガシに勝利し、格下に位置するとはいえ、希望に満ちて決勝戦に臨んだ。「スカッド」として知られるフィリポウシスは、鮮やかなサーブを放ち、通常はきわめて多いエラーを少なく抑える事ができていた。フィリポウシスは敗北の10年後でさえ、あの日は何が拙かったのかを推測しがたいと感じている。彼のプレーが功を奏さなかったのか、あるいはフェデラーがまさに難攻不落だったのか? 実際は、その両方だったのだ。

フィリポウシスが肝腎な時に平静を失った、と言うのは酷だろう。しかし彼の方が少しばかり不安定で、瞬く間に決めるべきボレーをミスしていた。しかし、卓越したフェデラーは試合序盤で主導権を握り、フィリポウシスに挽回のチャンスをほとんど与えなかった。そして約2時間後、審判が「ゲームセット、マッチ・アンド・チャンピオンシップ・フェデラー」と宣言した時、世界はテニス界における(議論の余地なく)最も偉大なプレーヤーとして歴史に残るであろう、偉大な巨人を見ていたのだった。テニス界には、計り知れないほどの才能がありながら、歴史にその名を刻んだであろう結果を掴み損ねたプレーヤーが相当数存在してきた。これらの信じられないほど才能に恵まれたプレーヤー達は、概して不安定で、論理的には冷静を保って無茶な事は試みるべきでない時に、我を忘れる傾向がある。フェデラーの最初のウィンブルドン決勝戦の対戦相手、 フィリポウシスはそんなプレーヤーの1人だった。しかし、フェデラーは自己の並はずれた才能を、落ち着いた気性で調節する事のできるプレーヤーの1人だったのだ。

評論家は常に、フェデラーのバックハンドはほぼ完璧なフォアハンドに比べるとやや不完全だ、と主張していた。しかし、まさに彼ら評論家は、フェデラーが宿敵ラファエル・ナダルに対してランニング・バックハンド・パスを放った後には、恥を忍んで前言を撤回しなければならなかった。真のテニスファンなら忘れる事はあり得ない試合―――2008年ウィンブルドン決勝戦での事だった。チャンピオンシップ・ポイントに直面し、フェデラーは1本のショットを放った。そのショットがウィンブルドンの芝生に与える影響は、きっと果てしない時を超えて響き渡る。ニール・アームストロングの不滅の言葉を借用する:「これはフェデラーによる1本のショットだが、テニス界にとっては偉大な飛躍である」彼は試合には敗れた。しかしそのショットの結果、真の史上最高のプレーヤーは誰かについて、疑う余地はほとんどなかったのだった。初のグランドスラム優勝から10年後、そしてサンプラスに対する叙事詩的勝利から1回りの年月が経過してさえ、フェデラーは人々を夢中にさせるテニスを披露して、ゲームのひいき客をとりこにし続けている。

サンプラスを彼の最も得意なサーフェスで破っただけでなく、史上最高の偉人たちの神殿における座を奪った男がいなかったら、サンプラスは恐らく最も偉大な芝の廷臣として歴史に記録されたであろう。


情報館目次へ戻る  Homeへ戻る