ブリーチャー・レポート(外野席からのレポート)
2012年6月20日
過去60年間における12人の最も偉大なウィンブルドン・チャンピオン
文:JA Allen



1950年代から、ウィンブルドンの青々と茂った芝生は、テニス史上でも最高と言える試合の数々を披露してきた。

それらの戦いの多くは日曜日の決勝戦に行われ、2人の決勝進出者はその年の栄えあるタイトルを勝ち取るべく、ネットをはさんで雌雄を決した。

数10年を経過する中で、チャンピオンは、初期にはオーストラリアから、その後はスウェーデン、合衆国、最近ではスイス、スペイン、そして直近にはセルビアからと、波状的に登場してくるように思われた。

過去60年間における12人の最も偉大なチャンピオン達は、オール・イングランド・クラブで決勝戦に達するためドローを勝ち上がってきた後に、センターコートで複数のタイトルを獲得した。

最近まで、ウィンブルドンの緑の芝生で真に成功を収めたプレーはサーブ&ボレー・テニス―――芝生では無敵と見えるゲームだった。

しかしながら現在は、ベースライン・プレーヤーがセンターコートを支配している。

芝生のサーフェスが際立って遅くなったと伝えられる一方で、新しいラケット技術によって強化され、見た目はさほど攻撃的でないゲームスタイルが支配するようになり、ベースライン・プレーヤーがサーブ&ボレーヤーに取って代わったのだ。

2012年ウィンブルドンが始まり、世界ナンバー1で前回優勝者のノバク・ジョコビッチは2年連続のウィンブルドン優勝を望んでいる。

ラファエル・ナダルは芝生での3回目のタイトルを切望し、一方ロジャー・フェデラーは7回目のウィンブルドン・トロフィー獲得と、その過程でナンバー1の座を取り戻す事を期待する。

2012年大会が終わった時、このウィンブルドンにおける最も偉大なチャンピオンのリストに誰の名前がつけ加えられるか、あるいは上位へと動かされるか見てほしい。


12位.ロイ・エマーソン(オーストラリア)

ウィンブルドン戦績:(優勝2回、決勝戦進出2回、勝率81.08パーセント)

ロイ・エマーソンは1950〜1960年代にプレーした、偉大なオーストラリア人テニスプロの1人だった。

偉大なエマーソンはそのキャリアの間、12のグランドスラム・トロフィーを獲得した―――オーストラリアン・オープン6回、フレンチ・オープン2回、USオープン2回、ウィンブルドン2回。

エマーソンは16回ウィンブルドン大会に出場し、1964年と1965年に連続でシングルス・タイトルを勝ち取った。

芝生では主としてサーブ&ボレー・テニスをするエマーソンのプレースタイルは、ウィンブルドンのコートに適していたのだ。

なおかつ、彼はすべてのサーフェスで多数のダブルスタイトルを獲得し、同じくフレンチ・オープンでも2度の優勝を果たした。

エマーソンは12回というグランドスラム最多優勝記録を保持していた。後にピート・サンプラスがそれを破って14回の優勝を遂げ、さらにはロジャー・フェデラーが16回の優勝を果たした。

エマーソンは芝生における史上最高の偉人の1人であり続ける。

11位.ルー・ホード(オーストラリア)

ウィンブルドン戦績:(優勝2回、決勝戦進出2回、勝率82.35パーセント)

ルー・ホードは1950〜1960年代にテニス界を支配した、もう1人の偉大なオーストラリア人だった。

もちろん、ホードがプレーしていた時代、1920年代からローラン・ギャロスの赤土でプレーされたフレンチ・オープン以外は、すべてのメジャー大会が芝生のサーフェスだった。

ホードは1950年代にはアマチュアとしてテニスをし、1957年にプロに転向した。

アマチュア・キャリアの間に、彼は4つのメジャーに優勝―――フレンチ・オープン1回、オーストラリアン・オープン1回、そして1956年と1957年に2度のウィンブルドン・タイトルを獲得した。

ホードは攻撃的なプレーで知られ、忍耐強く粘るよりもむしろウィナーを狙う事が多かった。

彼はこのスタイルによって大衆に愛され、大衆はホードがボールに飛びつく姿を見たがった。しかしそれは対戦相手を困惑させ、ホードがコート上でいつ何をするか、見抜く事ができなかった。

ホードは1956年に4つのうち3つのメジャー大会で優勝し、唯一USオープンでケン・ローズウォールに敗れた。

多くの同時代人のように、ホードはプロに転向し、その後はウィンブルドンのセンターコートで競う事ができなかった。

しかしホードがセンターコートの芝生を飾った間、彼は最高の1人だった。

10位.ステファン・エドバーグ(スウェーデン)

ウィンブルドン戦績:(優勝2回、決勝戦進出3回、勝率80.33パーセント)

もし芝生でプレーするためのプレーヤーがいたとすれば、それはスウェーデンのステファン・エドバーグだった。

彼のキャリアは1980年代から1990年代にわたった。エドバーグの最後のウィンブルドン出場は1996年だった。

彼の滑らかなサーブ&ボレー・スタイルは、1988年から1990年まで日曜日の決勝戦にセンターコート上で披露された。

エドバーグは1988年と1990年にセンターコートでボリス・ベッカーを破って優勝し、タイトルを2回獲得した。

その間となる1989年、エドバーグはベッカーに決勝戦で敗れた。

エドバーグとベッカーのライバル関係は、男子テニス界における偉大な1つとなった。

エドバーグは14回の出場で2回の優勝を果たし、ウィンブルドンでのキャリア勝敗記録は49勝12敗だった。

同じく彼は1983年にウィンブルドン・ジュニアタイトルを勝ち取り、ジュニアのグランドスラムを達成した初の選手となった。

エドバーグは1980年代から1990年代における偉大なサーブ&ボレー・プレーヤーの1人であり、彼の天才的資質はウィンブルドンのセンターコートで花開いたのだった。

9位.ラファエル・ナダル(スペイン)

ウィンブルドン戦績:(優勝2回、決勝戦進出5回、勝率87.5パーセント)

ラファエル・ナダルは2003年に初めてウィンブルドンに出場し、3回戦で敗退した。

2006年になるとナダルは決勝戦まで到達し、前年優勝者で世界ナンバー1のロジャー・フェデラーと対戦した。

2006年と2007年にはフェデラーがナダルを下したが、どちらの勝利もスイス人にとって少々難しいものだった。

しかしながら、2008年大会では結果が変わり、2人のライバル関係にまったく新しい次元が加わった。

雨による遅延に耐え、暗闇が降り、何時間も戦った後に、ナダルは最終の第5セットを制し、フェデラーが過去4年半にわたって支配してきたテニス状況を永久に塗り替えたのだ。

もはや世界は、ナダルをただのクレーコーターとは見なさなかった。ウィンブルドンにおける優勝は、クレー以外で勝ち取った彼の記念すべき初のグランドスラム・タイトルだった。

マヨルカ出身のナダルが2008年にフェデラーと闘った時、それはベッカー対エドバーグ以来の、同じ2人による3年連続の決勝戦対決だった。

ナダルは2008年、そして2010年に再びウィンブルドンで優勝した。

元世界ナンバー1の彼はフェデラーに2度、そして2011年にはノバク・ジョコビッチに決勝戦で敗れた。

今年までのナダルの勝敗記録は35勝5敗で、7回の出場で2度のウィンブルドン・タイトルを獲得している。

今年、ナダルはオール・イングランド・クラブから3回目のトロフィーを持ち帰る事を望む。

ナダルほど決然としたチャンピオンはいなかった。勝利への彼の献身は、センターコートで比類なきものに見える。

8.ジミー・コナーズ(合衆国)

ウィンブルドン戦績:(優勝2回、決勝戦進出6回、勝率82.35パーセント)

ジミー・コナーズ、常に素晴らしき競技者は、1974年と1982年の2度のウィンブルドンを含め、芝生における4つの異なったグランドスラム決勝戦で優勝した。

ウィンブルドンでは、コナーズはしばしば、自らがセンターコートで敗れる事を拒むビョルン・ボルグ、あるいは緑の芝生の上で同じくらい負けず嫌いなジョン・マッケンローと対戦した。

2つのタイトルに加えて、コナーズはオール・イングランド・クラブで4回の準優勝を経験した―――1975年にアーサー・アッシュ、1977〜1978年にビョルン・ボルグ、そして1984年にはジョン・マッケンローに敗れた。

合計では、コナーズは8つのグランドスラム・タイトルを獲得した―――USオープンで5つ、ウィンブルドンで2つ、そしてオーストラリアン・オープンで1つ。

長く輝かしいキャリアの結末として、コナーズのウィンブルドン勝敗記録は84勝18敗、21回の出場で2回の優勝を果たした。

コナーズがコート上で100パーセント以下になる事は決してなかった。特に彼が真の競争相手と見なす男たちと、センターコートで6回の決勝戦を戦った時には。

7.ジョン・ニューカム(オーストラリア)

ウィンブルドン戦績:(優勝3回、決勝戦進出4回、勝率76.27パーセント)

オーストラリアのジョン・ニューカムは、アマチュア時代とオープン時代両方でテニスをした。ウィンブルドン決勝戦には1967年、1969年、1970年、1971年に進出した。

ニューカムは1969年を除き、それらすべての機会にタイトルを獲得した。1969年に敗れた相手は同国のロッド・レーバーで、レーバーはその年に2回目の年間グランドスラムを達成する途上だった。

1967年には、ニューカムはドイツのウィルヘルム・バンガートに6-2、6-1、6-1で勝利した。

しかしながら1970年と1971年には、ずっと厳しい闘いを強いられた。1970年にはケン・ローズウォールに、そして翌年にはスタン・スミスに対してフルセットまでもつれ込み、2回目と3回目の優勝を手にしたのだった。

ニューカムは男子プロテニスを支配する偉大なオーストラリア人の最後の1人だった。

彼のサーブ&ボレー・スタイルのプレーは、ウィンブルドンのセンターコートに適していた。その場所で彼の攻撃的なプレーは、3回の優勝という成果を挙げたのだった。

キャリアを通じて、ニューカムはフレンチ・オープン以外のすべての大会で、7つのグランドスラム・シングルス・タイトルを獲得した。

当時はフレンチ以外すべてのメジャー大会が芝生で行われており、彼の優勝はすべて芝生の上でだった。

ニューカムはセンターコートで3回の優勝を果たした、数少ない選手の1人であり続ける。

6.ジョン・マッケンロー(合衆国)

ウィンブルドン戦績:(優勝3回、決勝戦進出5回、勝率84.29パーセント)

ジョン・マッケンローはスウェーデンのビョルン・ボルグ、同国のアメリカ人ジミー・コナーズとの叙事詩的なコート上の闘いを通して、1980年代初期にはセンターコートの芝生における並はずれた存在となった。

初期には、マッケンローはイギリスのファンとメディアに愛されていなかった。アメリカ人のコート上における振る舞いは、確かに彼らの好みではなかった。

彼の髪が逆立ってくるかに見えるように、マッケンローの気分は一流の対戦相手、そして主審や線審との闘いのさなか、しばしば爆発したのだ。

マッケンローの最も忘れがたい決勝戦は、2年連続のものだった。1980年、彼はビョルン・ボルグに敗れた。そして1981年、彼はついにセンターコートで、5年連続のタイトルを勝ち取っていたボルグを破ったのだった。

ジョニー・マックは、キャリアで7つのグランドスラム・シングルス・タイトルを獲得した。うち3つはウィンブルドンでのもので、オール・イングランド・クラブにおける彼のキャリア戦績は59勝11敗だった。

マッケンローは14回の出場で、伝説的な対戦相手を下して3回の優勝を果たした。

5.ボリス・ベッカー(ドイツ)

ウィンブルドン戦績:(優勝3回、決勝戦進出7回、勝率85.5パーセント)

「ブーンブーン」ベッカーが壮麗なウィンブルドンの芝生に突如として現われた時を、誰が忘れられるだろうか?

ランキング外の、そしてメディアにも知られていない若いドイツ人は、1985年に初のタイトルを獲得してテニス界を驚嘆させたのだ。

当時ベッカーは17歳だった。

彼の精力的かつ攻撃的なプレースタイルは、ファンをウィンブルドンに、そしてテニスそのものに惹きつけた。

ベッカーが男子ゲームの頂点へと上昇すると共に、女子では同国ドイツのシュテフィ・グラフが頂点に立ち、さらに盛り上がりを見せたのだった。

ベッカーは1985年の初優勝に続き、1986年には決勝戦でイワン・レンドルを破って、もう1つのタイトルを積み上げた。

1989年には、ベッカーは前年優勝者のステファン・エドバーグを破って、最後のウィンブルドン・タイトルを獲得した。

合計で、ドイツ人はウィンブルドン決勝戦に7回進出した。

オール・イングランド・クラブにおけるベッカーのキャリア勝敗記録は71勝12敗で、15回の出場で3回の優勝を遂げた。

4.ロッド・レーバー(オーストラリア)

ウィンブルドン戦績:(優勝4回、決勝戦進出6回、勝率87.72パーセント)

ロッド・レーバーは1962年と1969年に、2回の年間グランドスラム優勝を成し遂げた―――レーバーが引退して以降、他の誰も達成していない偉業である。

オーストラリア人のレーバーを、史上最も偉大なグラスコート・プレーヤーと見なす者もいる。

もちろん、彼はキャリアの大半、フレンチ・オープン以外すべてのメジャー大会が芝生で開催された時代にプレーしたのだった。

レーバーのキャリアはオープン時代前の5年間、メジャー大会から閉め出された。アマチュアだけがグランドスラム大会で競い合う事を許されていたからである。

いずれにしても、オーストラリア人は1961〜1962年、そしてオープン時代に入った1968〜1969年の合計4回、ウィンブルドンで優勝を遂げた。また1959〜1960年には決勝戦に進出した。

彼のウィンブルドン・タイトル数は、もし1963〜1967年の不出場がなかったら、さらに偉大なものになっていたかも知れないと推測する者は多い。しかし我々にそれを知る由はない。

それでもなお、ウィンブルドンにおけるレーバーのキャリア戦績は50勝7敗で、11回の出場で4回の優勝を果たしたのだ。

3.ビョルン・ボルグ(スウェーデン)

ウィンブルドン戦績:(優勝5回、決勝戦進出6回、勝率92.73パーセント)

偉大なスウェーデン人ビョルン・ボルグは、1970年代後期と1980年代早期にウィンブルドンとフレンチ・オープンのコートを我が物にしていた。

ボルグは1976〜1981年に5年連続でオール・イングランド・クラブのセンターコートでタイトルを獲得すると共に、1978〜1981年に4年連続でフレンチ・オープン・タイトルを獲得した―――1974〜1981年の8年間ローラン・ギャロスに出場し、6回の優勝を果たしたのだ。

その時期にはテレビによる世界的な放映が始まり、ボルグは男子プロテニスへの注目を集めた。

ボルグの長い金髪とロックスター的なアピールは、ただちに彼をファンの寵児にした。

ジョン・マッケンローとの叙事詩的な1980年の決勝戦は、前代未聞の最もスリルに満ちたグランドスラム決勝戦の1つと見なされている―――あたかもセンターコート上の炎と氷の闘いとして。

ボルグの1981年の敗北は、彼の傑出したテニスキャリアの終わりの初めとなった。

1981年のUSオープン決勝戦でマッケンローに敗れた後、ボルグはテニス界を引退した―――これはその夏の初め、同じくアメリカ人に彼のウィンブルドン・トロフィーを譲り渡した後の出来事だった。

フェデラーが2007年にこの偉業と並ぶまで、スウェーデン人は5年連続ウィンブルドン優勝の記録を所持していた。

ボルグは9回ウィンブルドンに出場し、5回の優勝を果たした。彼の勝敗記録は51勝4敗だった。

彼がプレーすると、スウェーデン人の輝きは明るく燃え立ったのだった。

2.ロジャー・フェデラー(スイス)

ウィンブルドン戦績:(優勝6回、決勝戦進出7回、勝率89.39パーセント)

2001年のウィンブルドン大会で、当時10代だったロジャー・フェデラーは4回戦で前年チャンピオンのピート・サンプラスに対して番狂わせの勝利を挙げ、首位へと向かう準備ができている事を世界に知らしめた。

その2001年、フェデラーはオール・イングランド・クラブで初の準々決勝進出を果たした。

2002年に1回戦で敗退した後、フェデラーはウィンブルドンにおいて9年連続で準々決勝まで勝ち上がった。

実際フェデラーは6回のウィンブルドン優勝を果たし、うち5回は5年連続で、ビョルン・ボルグの記録と並んだのだった。

スイス人は2009年に、叙事詩的な5セットの決勝戦でアンディ・ロディックを破り、6つ目のタイトルを獲得した。

ウィンブルドンのグラスコートは、スイス人にとって我が家のような存在である。彼は7回目の優勝を遂げて、ピート・サンプラスと並ぶ事を目指している。サンプラスの7ウィンブルドン・タイトルは、近代における最高と位置づけられているのだ。

フェデラーは2003〜2008年の間にウィンブルドンで連続40勝を果たした。ビョルン・ボルグが成し遂げた連続41勝より1勝足りない戦果である。

今日までのフェデラーの戦績は59勝7敗で、13回の出場で6タイトルを獲得している。来週から始まるウィンブルドンで、フェデラーはその合計に追加する事を望んでいる。

フェデラーのウィンブルドンにおける最終記録は、いまだ書かれてはいないのだ。

1.ピート・サンプラス(合衆国)

ウィンブルドン戦績:(優勝7回、決勝戦進出7回、勝率90.0パーセント)

ピート・サンプラスは、自分のプレースタイルが地球上のプロコートから消滅し始めるのを目撃した、偉大なサーブ&ボレー・プレーヤーの最後の人物である。

ピストル・ピートがキャリアの終盤に知ったのは、プレーヤーがステイバックし、主にベースラインからプレーしても勝利できるという事だった。

しかしそれは、彼のキャリアの終わりに起こった。全盛期には、サンプラスは記録である286週間もの間、世界のナンバー1プレーヤーだったのだ。

アメリカ人の成功の多くは、オール・イングランド・クラブの緑の芝生で生じ、そこでサンプラスは1993年から2000年の間に7回の優勝を果たした。

ロジャー・フェデラーが2001年に4回戦で彼を破った後、サンプラスがウィンブルドンで再び決勝戦を戦う事はなく、ビョルン・ボルグの5年連続タイトルに1つ及ばずに終わった。

ウィンブルドンにおけるアメリカ人の勝敗記録は63勝7敗で、14回の出場で7タイトルを獲得した。

今日まで、ピート・サンプラスは史上最も偉大なウィンブルドン・チャンピオンである。


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