ブリーチャー・レポート(外野席からのレポート)
2012年8月28日
USオープン・テニス2012:USオープンの歴史における最大の番狂わせ10試合
文:Dave Ungar

現在、2012年USオープンが開催中である。

1年最後のグランドスラム大会―――そしてもちろん、アメリカ合衆国で最も重要なテニス大会―――であるUSオープンは、テニス史における幾つかの最も素晴らしい試合の舞台となってきた。

世界一ではないとしても、最も高名なテニス大会の1つとして、世界じゅうのベスト・プレーヤー達がUSオープンで競い合い、同じ夢―――USオープン・チャンピオンの座に就く―――を共有してきたのだ。

多くの主要なスポーツイベントと同じく、ぎりぎりのところで勝負を懸けた競い合いが行われると、番狂わせはつきものである。

USオープンも例外ではなく、長年のうちに幾つかの大番狂わせが見られた。男子・女子双方のサイドで、低いシード、低いランクの選手が、上位シードの選手を狼狽させるのを見てきた。

圧倒的と思われたチャンピオンが、驚くべき敗北を喫するのを見てきた。

未来のチャンピオンが、輝かしいキャリアへの足掛かりとなる番狂わせを引き起こすのを見てきた。

実際に、USオープンはあらゆる類の番狂わせと、大会の驚くべき転換点の場となってきたのだ。

この記事では、USオープンの歴史における最大の番狂わせ10試合を挙げてみよう。

その前に、まずは等外の名誉賞2〜3試合を見てみよう。

等外賞

ポール・ハーフースがボリス・ベッカーを下す、1991年3回戦

1991年USオープンで、ボリス・ベッカーは第1シードだった。大会の3回戦で、彼はポール・ハーフースと対戦した。

ハーフースはキャリア後期に、ダブルスプレーヤーとして大いなる成功を収める事となった。しかしこの段階では、ハーフースという選手については、殆ど知られていなかった。

ハーフースは6-3、6-4、6-2のストレートセットでベッカーを動顛させたのだ。ベッカーは3セット間に大量のアンフォースト・エラーを犯す事で、自業自得の敗戦を喫したのだ、と言う者も多かった。しかしこの日に限っては、ハーフースの方が優れていたのだった。

それはシングルス選手として、ハーフースのグランドスラム大会における最高の結果だった。後に彼はダブルスプレーヤーとして、6つのグランドスラム・タイトルを獲得した。

ピート・サンプラスがマッツ・ビランデルを下す、1989年2回戦

稀に見る強さのピート・サンプラスをUSオープンで勝ち目のうすい格下と考えるのは、どちらかと言えば難しい事である。

しかし1989年、サンプラスはまだ18歳で、テニス界に頭角を現し始めたばかりだった。USオープンの2回戦で、サンプラスはマッツ・ビランデルと対戦した。当時サンプラスは世界91位だったが、 ビランデルは第5シードだった。

ビランデルは前年の1988年、3つのグランドスラム大会で優勝するという、途方もなく素晴らしい年を送った。自分の絶好調ぶりからして、 ビランデルは若いサンプラスとの対戦を楽な試合と予想していた。

来るべきものの前兆か、サンプラスは強烈なサーブ&ボレー・ゲームを駆使して、ビランデルをベースラインに釘付けにした。ビランデルは自分のゲームプランを発揮できず、大番狂わせのカモになろうとしていた。

サンプラスは5-7、6-3、1-6、6-1、6-4で、まさに叙事詩のようなフルセットの試合に勝利したのだった。

その後サンプラスは4回戦で、同じアメリカ人のジェイ・バーガーに敗れた。

その後のキャリアにおいて、彼がUSオープンでそれより低いラウンドで敗れる事はなかった。

メラニー・ウダンがロシア選手に連勝、2009年USオープン1〜4回戦

メラニー・ウダンは2009年USオープンで、ロシアの国全体を駆逐した訳ではなかった。

しかし、あたかもそのように感じられたのだった。

2009年USオープン以前は、ウダンはさほど知られた存在ではなかった。にもかかわらず、彼女は最近のUSオープンの歴史において、アメリカ人には忘れ難い快進撃を遂げたのだった。

大会序盤の4ラウンドで、 ウダンはロシア女子選手を次々に撃破していったのだ。

まず1回戦で、彼女はアナスタシア・パヴリチェンコワ を6-1、6-2のストレートセットで破った。

2回戦では、5-7、6-4、6-3の激戦の末に、第4シードのエレナ・ディメンティエワを倒した。

3回戦では、またしても3-6、6-4、7-5の激闘を演じ、第29シードのマリア・シャラポワを下した。

4回戦で、ウダンは再び3セットを必要とした。しかし第13シードのナディア・ペトロワを1-6、7-6(2)、6-3で破り、彼女は4人連続でロシア人を葬り去ったのだった。

ウダンの信じがたい快進撃は、準々決勝でキャロライン・ウォズニアッキにストレートセットで敗れて終わった。

これは現在でも、グランドスラム大会におけるウダンのベスト・パフォーマンスである。彼女は現在、世界107位にランクされている。

しかし2009年にウダンがロシア選手を続けざまに撃破したプレーは、近年のUSオープン史における最大の番狂わせ劇となっている。


10位.トレイシー・オースティンがスー・バーカーを下す、1977年3回戦

テニスは子供とも言えるような若い選手が、ずっと年上で、より経験を積んだ選手と競い合える―――実際に勝利する事もできる―――数少ないスポーツの1つである。

その最適な例の1つがトレイシー・オースティンであった。1977年USオープンが巡ってきた時までに、オースティンの顔はすでに何冊かの雑誌に大きく掲載され、多くのテニス専門家に天才児ともてはやされていた。

それでもなお、いかに優れていたとはいえ、1977年USオープンに出場した時、オースティンはほんの14歳の少女だったのだ。3回戦で、彼女は第4シードのスー・バーカーと対戦する事になった。この時点までに、オースティンはノーシードの相手を倒し、最初の2試合に勝利していた。

オースティンの素晴らしさについては至る所で書かれていたが、大半の見方は、より経験豊富なバーカーがオースティンを大して苦もなく倒し、彼女を学校に戻すだろうというものだった。

顔いっぱいに笑みを浮かべ、口には歯列矯正の金具を見せて、オースティンは6-1、6-4のストレートセットでバーカーに衝撃の敗戦を見舞ったのだった。

オースティンは準々決勝まで勝ち上がり、ベティ・ストーブにストレートセットで敗れた。

しかし1977年のUSオープンは、来たるべきものの前兆だったのだ。その後オースティンは1979年、1981年に2度のUSオープン優勝を遂げた。

クリス・エバートとのライバル関係は、当時の女子テニス界における最高の1つだった。

しかし真の意味でオースティンにとって物事が動き出したように見えたのは、1977年USオープンにおける感動的なプレーだったのだ。

9位.マラト・サフィンがピート・サンプラスを下す、2000年決勝戦

もし厳密にシードだけを見るなら、2000年のUSオープン決勝戦でマラト・サフィンがピート・サンプラスに勝利したのは、番狂わせとは言えないだろう。

サフィンは第6シードで、一方サンプラスは第4シードだったからだ。

しかしその時点までのサンプラスの出来と、決勝戦までのサフィンの厳しい勝ち上がり方を見るなら、この番狂わせの重要性はいっそう明確となっていく。

この年までに、サンプラスは4回チャンピオンになっていた。そして彼はこれまでのところ、大会で圧倒的な勝ち上がり方をしていた。

サンプラスは決勝戦までに1セットしか失っていなかった。そして彼のサーブは間違いなく圧倒的で、ここまで大会全体で4回しかブレークされていなかったのだ。

一方サフィンは、1回戦でティエリー・グアルディオラを下すのに4セットを要し、ジャンルーカ・ポッツィ戦では5セット、セバスチャン・グロージャン戦でも5セットかかっていたのだ。準々決勝に達した時までは、サフィンはあえて長時間の試合をしているかのようだった。

それは全くの見当違いだった。サフィンはストレートセットでトッド・マーチンを粉砕し、決勝戦に進出したのだ。

決勝戦では絶対的な優勝候補のサンプラスに対して、サフィンはサーブでもサンプラスに引けを取らず、パッシングショットは破壊的だった。サンプラスはベースラインに釘付けにされる事が多すぎ、サフィンにショットを準備する時間を与えすぎてしまった。そしてサフィンはそれを活かした。

サンプラスがネットに詰めようとすると、たいていはサフィンにパスで抜かれた。その好例はチャンピオンシップ・ポイントで、サンプラスが前に出ると、サフィンの手に負えないバックハンドです速くパスされ、サフィンは優勝を手にしたのだった。

試合全体が、サンプラスにとっては驚きそのものだった―――悪い時に当たったという驚き。

サフィンは6-4、6-3、6-3のタフな3セットでサンプラスに勝利したのだった。

その後サフィンは2005年のオーストラリアン・オープンでも優勝し、タイトル数を2とした。

しかし、まだサンプラスが本当に高いレベルでプレーしていた時に起こった、サンプラスに対するサフィンの勝利は、途方もない番狂わせだったのだ。従って9位とする。

8位.アルノー・クレメンがアンドレ・アガシを下す、2000年2回戦

2000年のUSオープンで起こった事例を続ける。リスト上の次は、2回戦で前年優勝者のアンドレ・アガシを破った、アルノー・クレメンの番狂わせである。

アガシは2000年の大会における前年優勝者であり、第1シードだった。

一方クレメンは、ノーシードだった。

前年優勝者に対して、クレメンにチャンスがあるとは誰も考えていなかった。

しかしもちろん、それこそが、ゲームをする理由なのだ。

試合のほぼ全体を通して、フランス人はより速く、より鋭く、そして概して、勝利をより欲していた。双方とも非の打ち所がないプレーをした訳ではなかった(両者とも27のアンフォースト・エラーを犯した)が、クレメンはチャンスをフルに活かし、大番狂わせを引き起こしたのだった。

アガシはクレメンへの策をまったく持っておらず、6-3、6-2、6-4のストレートセットで敗れた。

その後クレメンは準々決勝まで勝ち上がり、そこでレイトン・ヒューイットにストレートセットで片付けられた。

2001年オーストラリアン・オープン決勝戦進出に次いで、2000年USオープン準々決勝進出と、2008年ウィンブルドン準々決勝進出は、グランドスラム大会におけるクレメンの最高の成績だった。

アガシが再びUSオープンで優勝する事はなかった。

7位.ペトル・コルダがピート・サンプラスを下す、1997年4回戦

1997年のUSオープンは、アーサー・アッシュ・スタジアムでプレーが行われた初の大会だった。男子チャンピオンに関する限り、会場の変更には殆ど意味がないだろうと大多数が考えていた。

なんと言っても、ピート・サンプラスは2年連続の前年優勝者であり、彼の道に現れる者の大半を打ち負かしていたのだ。

トップシードのサンプラスが4回戦まで勝ち上がった時点では、1セットも落としていなかった。そのラウンドで、彼は第15シードのペトル・コルダと対戦した。

理論上は、これは不釣り合いな組合わせに見えた。しかし、理由が何であれ、コルダは常にサンプラス相手にタフマッチを演じてきた。サンプラスのサーブに対処できる数少ない1人であるコルダは、その年のウィンブルドンで、サンプラスを第5セットまで押し込んでいたのだ。

USオープンでは、コルダは壁を打ち破り、サンプラスとフルセットの戦いを演じた末に、6-7(4)、7-5、7-6(2)、3-6、7-6(3)で勝利したのだった。

試合の間、コルダはサンプラスからの24本ものエースを受け流す事ができた。試合の転機は、第5セットにあったのかも知れない。2-3コルダのサービスゲームで、彼は挑戦し、事態を好転させる事に成功した。3本の強烈なエースの後には、試合の勢いは完全に移行していたのだ。サンプラスは通常、優れたコンディション調整で知られているが、最終セットのタイブレークでは、エネルギーを使い果たしたように見えた。

準々決勝では、コルダはノーシードのヨナス・ビヨルクマンに対して、第3セットで途中棄権を余儀なくされた。しかし続く1998年のオーストラリアン・オープンでは、彼は優勝を果たしたのだった。同じくウィンブルドンでも準々決勝まで進出した。サンプラスに対するコルダの衝撃的な勝利が、1998年におけるコルダの成功に大きく働いたというのが大多数の一致した見解である。

6位.ジョン・アイズナーがアンディ・ロディックを下す、2009年3回戦

2009年はアンディ・ロディックにとって良い年になる様相を呈していた。

ウィンブルドンでは、彼はロジャー・フェデラーを限界まで追いつめ、タフな5セットの末に敗れていた。第5セットのスコアは14-16だった。

このように、USオープンを迎えるにあたっては、2つ目のUSオープン・タイトル獲得に向けて、ロディックが快進撃をできると信じるに足る数多くの理由があったのだ。彼は大会の第5シードだった。

しかしその2つ目のタイトルを狙う途上で、奇妙な事が起こった―――3回戦で、ロディックはノーシードのジョン・アイズナーに番狂わせの敗戦を喫したのだった。

アイズナーについては、誰もよく知らかった。彼が2010年ウィンブルドンで、ニコラス・マウーと11.5時間という史上最長のマラソンマッチを演じるのは、1年先の事だった。

唯一知られていたのは、アイズナーがビッグサーブを持っているという事だった。もちろん、ロディックもビッグサーブを持っていた。

何らかの要素が加わらなければならなかった。

その何かとは、アイズナーのサーブを返球するロディックの能力だった。アイズナーはロディックに対して38本のエースを放ち、早々と2セットのリードを奪った。驚くほど簡単にアイズナーが勝利を手にするように思われた。

しかしロディックを称えねばならない。彼は反撃し、第5セットのタイブレークまで押し戻したのだ。アイズナーはタイブレークに優れていた。そしてこの試合も例外ではなかった。アイズナーは第5セットのタイブレークに勝ち、7-6(3)、6-3、3-6、5-7、7-6(5)のスコアで番狂わせを成し遂げたのだった。

次の4回戦で、アイズナーはフェルナンド・ベルダスコに敗れた。しかしこの番狂わせ以降、アイズナーのキャリアは上昇を続けていっった。

一方ロディックは、 この衝撃的な敗北以降、2012年のオリンピックにおけるノバク・ジョコビッチへの完敗を含め、はかばかしいプレーがなかった。

5位.ジュリー・コワンがアナ・イワノビッチを下す、2008年2回戦

この番狂わせが5位とはかなり高い、それほど高くすべきではないと言う人も多い。さらには、そして当然ながら、我々は前兆であろう出来事を見たのだと言う者もいる。

2008年、アナ・イワノビッチは本来の地位に到達した―――あるいは、ともかく少しの間は。

その年、彼女はディナラ・サフィナをストレートセットで下し、フレンチ・オープンに優勝した。現在までに彼女が獲得した唯一のグランドスラム・タイトルである。その勝利はイワノビッチをナンバー1へと飛躍させた。

しかし間もなく、軌道はずれ始めた。ウィンブルドンで、2回戦ではナタリー・デッチーに苦戦し、次には当時133位でワイルドカード出場のジェン・ジーに衝撃的な敗戦を喫したのだ。

したがって、USオープンの2回戦で無名のジュリー・コワンと対戦する前に、イワノビッチが持っていた無敵のオーラなるものは、消え失せる途上だったと言う事もできる。

とはいえ、女子のナンバー1シードが3回戦で大会から消えるのは、1973年USオープンの3回戦でビリー・ジーン・キングが敗北して以来の事だった。女子のトップのシードが序盤で敗退するのは稀有であるゆえに、この番狂わせは大きい意味を持つ。

また、当時コワンは188位でプレーに悩んでおり、テニスを辞める事について、この試合に先だって語っていた(「USAトゥデー」紙より)という事実に関係があったかも知れなかった。

私には、その発言は必ずしもドラゴン・スレイヤーという印象を受けない。

にもかかわらず、コワンがトップシードのイワノビッチに6-3、4-6、6-3で決めた勝利は、テニス史における最も大きい番狂わせの1つであり、確かにUSオープンにおける最大の番狂わせリストの上位に並べられる価値がある。

4位.ヤン・コデスがジョン・ニューカムを下す、1971年1回戦

1971年のUSオープンは、当時ゲームの頂点にいたオーストラリアのテニスの偉人、ジョン・ニューカムが中心だった。

ニューカムはこの時点までに、1971年大会を含めてウィンブルドンですでに3回優勝しており、1967年の全米オープンでもタイトルを獲得していた。彼が1971年USオープンでトップシードだった事は驚くに当たらず、多くの者は彼が優勝するだろうと思っていた。

人々が考えてもみなかったのは、ニューカムが1回戦でノーシードのヤン・コデスに番狂わせで敗れる事だった。しかし実際には、コデスはかろうじてUSオープンの出場資格を得たただの男ではなかったという事である。

それどころか、1971年USオープンの1回戦でニューカムと対戦したコデスは、フレンチ・オープンにおける2度のディフェンディング・チャンピオンだったのだ。

コデスの成功にもかかわらず、一致した見解は、1971年当時にUSオープンが行われていたグラスコートでは、彼がその成功を繰り返す事はできないだろうというものだった。

序盤、 ニューカムが第1セットを6-2で楽々と勝ち取った時点では、専門家の意見は妥当かに思われた。

しかしコデスは次の2セットを共にタイブレークで勝ち取り、試合の流れは完全に変わった。

第4セット、コデスは6-3の圧倒的な勝利でドラマを終わらせた。ナンバー1シードのニューカムは、2-6、7-6、7-6、6-3という衝撃的な4セットの番狂わせで敗退したのだった。

しかし、コデスはおよそ終わったプレーヤーではなかった。彼は最終的に決勝戦まで勝ち進み、そこで第2シードのスタン・スミスに4セットで敗れたのだ。

ニューカムは1973年USオープンの決勝戦でリベンジを果たし、コデスを5セットの傑出した試合で下してタイトルを獲得する事になった。

1973年の試合は確かに素晴らしかったが、ジョン・ニューカムとヤン・コデスのささやかなライバル関係は、1971年の大番狂わせで始まったのだ。

3位.ホアン・マルティン・デル・ポトロがロジャー・フェデラーを下す、2009年決勝戦

ロジャー・フェデラーは、史上最高のテニスプレーヤーと言えるかも知れない。彼は確かに史上最高の1人と見なされてきた。たとえ史上最高のUSオープン男子チャンピオンではないとしても。

2009年USオープンに臨むにあたり、フェデラーは5回目のディフェンディング・チャンピオンだった。

最高位としてのフェデラーの地位は、ラファエル・ナダルとのライバル関係のために疑問視されていたものの、フェデラーにとって2009年は、真にマジカル・イヤーとなる様相を呈していた。

彼は初の、そしてこれまでのところ唯一のフレンチ・オープン・タイトルを獲得し、それによってキャリア・グランドスラムを完成させていた。

その後には6回目のウィンブルドン優勝を果たし、ナンバー1シード、そして驚異的な6年連続優勝の有力候補としてUSオープンに乗り込んできたのだ。

彼は決勝戦までに2セットしか失っておらず、事はフェデラーにとって筋書き通りに運んでいた。

決勝戦の相手は第6シードのホアン・マルティン・デル・ポトロだった。デル・ポトロは準決勝でナダルを屈服させていたとはいえ、彼がフェデラーと渡り合えるとは誰も予想していなかった。しかし、それこそが、ゲームをする理由なのだ。

デル・ポトロは一度ならず、二度までもセット・ダウンから挽回し、途方もない心意気と不屈の精神を見せつけたのだ。これはフェデラーが第2セット5-4リードで、サービング・フォー・ザ・セットを迎えた時、殊のほか顕著に示された。デル・ポトロはフェデラーをブレークし、そしてタイブレークまで押し込んだ。

フェデラーはこの時点まで、 USオープンの決勝戦でタイブレークを落とした事は一度もなかった。その流れは、アルゼンチンのデル・ポトロによって終わりを迎えた。彼は第4セットでもその偉業を繰り返したのだった。

またデル・ポトロは、フェデラーのらしからぬ12本のダブルフォールトにも助けられた。

最終的に、デル・ポトロは3-6、7-6(5)、4-6、7-6(4)、6-2という凄まじい5セットの戦いに勝って、番狂わせを演じたのだった。

デル・ポトロは2012年のオリンピックで銅メダルを獲得したものの、これは今日までに彼が獲得した唯一のグランドスラム・タイトルである。

フェデラーは、2012年のオリンピックで銀メダルを獲得する事となる。彼が金メダルを懸けた準決勝の試合で下した男は誰あろう?

ホアン・マルティン・デル・ポトロだった。

控えめに言っても、興味深いライバル関係である。

2位.ビル・スカンロンがジョン・マッケンローを下す、1983年4回戦

1983年、ジョン・マッケンローは合衆国テニス界で最も注目を集める存在だった。

言うまでもなく、1980年ウィンブルドン決勝戦におけるビョルン・ボルグとの叙事詩的試合―――そして1980年USオープン、1981年ウィンブルドンで彼がボルグに勝利した試合―――の記憶は、合衆国テニス界に関する限り、マッケンローを第一人者としていた。

1983年USオープンが巡ってきた時まで、マッケンローはなお全盛期にいた。

彼はその年に2回目のウィンブルドン優勝を遂げ、世界ナンバー1プレーヤーだった。

実際のところ、マッケンローは1回戦でノーシードのトレイ・ウォルツクに5セットまで押し込まれていた。しかしマッケンローは最終の2セットを圧倒し、4回戦で第16シードのビル・スカンロンと対戦するまでは、真の意味でチャレンジを受けていなかった。

スカンロンは一世一代のプレーをし、7-6、7-6、4-6、6-3の接戦でマッケンローを敗退させたのだ。

確かにマッケンローも14のアンフォースト・エラー、そして10本のダブルフォールトを犯し、自分で自分の首を絞めていったのだった。

マッケンローにとって不幸だったのは、普段なら彼を敬愛する観客が、しだいにスカンロンを応援し始めた事だった。

結局、それは重要ではなかった。

我々の記憶に残されたのは、テニス界の偉人が全盛期にいた時に、本質的に自分のホームコートとも言える場で、大番狂わせを喰らったという事だった。

ビル・スカンロンは優れたプレーヤーだった;それは間違いない。しかし1983年USオープンでジョン・マッケンローを破った事は、全くの予想外だった。したがって、USオープンの歴史における2番目に大きい番狂わせとして、このリストに上がる。

1位.アレクサンドル・ボルコフがステファン・エドバーグを下す、1990年1回戦

USオープン史上で最大の番狂わせは、独力で検索する事も可能である。どの点から見ても、1990年USオープンの1回戦でアレクサンドル・ボルコフがステファン・エドバーグを破った衝撃的な勝利は、史上最大の番狂わせと見なされる。

私は同意する。

これがなぜ、史上最大の番狂わせなのか?

まず1つは、トップシードのプレーヤーが1回戦で敗退する事は、滅多に起こる事ではない。

しかもエドバーグは、単なるトップシード以上の存在だったのだ。彼は2回目のウィンブルドン優勝を果たしたばかりで、そして世界ナンバー1だった。さらには、エドバーグは2回のオーストラリアン・オープン・チャンピオンでもあった。

どう控え目に言っても、彼はUSオープンで優勝すると予想されていたのだ。

一方ボルコフは、52位の選手だった。

理論上では、かなり一方的な試合になると思われた。

確かに、一方的な試合になった。だが皆が予想したものではなかった。ボルコフは6-3、7-6、6-2のストレートセットでエドバーグを敗北させたのだった。

控えめに言っても、ショッキングな結果だった。

しかしボルコフの成功は、長くは続かなかった。彼は次のラウンドで、トッド・ウィスケンにストレートセットで敗れたからだ。

大事件とも言える番狂わせではあったが、エドバーグのキャリア上では、一時的な問題にすぎなかった。偉大なスウェーデン人は1991年と1992年に、連続でUSオープンタイトルを獲得する事になるのだ。

しかし1990年については、アレクサンドル・ボルコフに対するステファン・エドバーグのショッキングな敗北は、USオープン史上最大の番狂わせであり続ける。


情報館目次へ戻る  Homeへ戻る