ESPN.com
2012年9月6日
ピート・サンプラスの輝きが甦った日
文:Greg Garber


ニューヨーク―――近頃ピート・サンプラスは、テニスよりもゴルフを多くプレーしている。

多分それが、彼のハンディキャップ―――彼はベルエア&リビエラ・カントリークラブの会員である―――が3まで下がった理由だろう。

彼は41歳になり、自立した資産家の男として、穏やかで優雅な生活を送ってきた。妻で女優・歌手のブリジット・ウィルソンとの間には2人の息子、9歳のクリスチャンと7歳のライアンがいて、カリフォルニア州ブレントウッドに暮らしている。

「僕はゆったりした日々を送っているよ」と、サンプラスは ESPN.com との電話会談で語った。「多くの時間を息子たちと共に過ごしている。トレーニングをして、体調を保っている。もうテニスのプレーに対処しないで済むのは快適だが、うん、メジャー大会は懐かしく思うね」

1990年から2002年までに、サンプラスは14のグランドスラム・シングルス・タイトルを獲得した。ロジャー・フェデラーが3年前のウィンブルドンで彼を超えるまでは、オープン時代における最多優勝記録だった。最初と最後のメジャー優勝は、ここUSオープンでのもので、決勝戦の相手はどちらもアンドレ・アガシだった。2002年の対決は、サンプラスがプレーした最後の試合となった。

今月下旬、サンプラスはウェスト・バージニアのグリーンクレーで、ジョン・マッケンローとエキシビションを行う。10月にはアガシ、ジム・クーリエ、マイケル・チャン、マッケンロー等と共に、チャンピオンズ・シリーズ大会に出場する。

日曜日、アガシがアーサー・アッシュスタジアムで USTA(アメリカ・テニス協会) のコート・オブ・チャンピオンズの一員として加えられる時、サンプラスはカリフォルニアの自宅にいるだろう。サンプラスの最後となった試合への賛辞は論じられてきたが、結論に達した事はなかった。

「10年」とサンプラスは語った。「うん、少し前のように感じるよ」

注意を促す

ここで大躍進を遂げた時、彼はまだ10代で、競技の技量を学んでいる最中だった。彼のサーブには、圧倒的な強さと揺るぎなさの両方が備わっていた。1990年、サンプラスはここで7試合すべてに勝利した。決勝戦ではアガシをストレートセットで下した。突如として、ジミー・コナーズ(USオープン5タイトル)とジョン・マッケンロー(4)の時代は終わったのだった。

ピート・サンプラスをオープン時代における最高の男子プレーヤーと考える者もいた。彼は64のシングルス・タイトルを勝ち取り、そしてフェデラーでさえ果たせなかった6年連続年末ナンバー1選手の記録を打ち立てたのだ。
近頃のピート・サンプラスは、ドロップショットよりもウェッジショットに多くの時間を費やしている。

「僕がテニスでこだわった」のは「勝利する事だった」とサンプラスは語った。

彼は2000年に最後のウィンブルドン優勝を果たし、その年のニューヨークでは決勝戦まで進出したが、マラト・サフィンという名前の20歳のロシア人に惨敗した。サンプラスはなおメジャー大会で競い合う事ができたが、より小さい大会は難題だった。

「他の大会にも充分に敬意を表するが、彼にとってキャリアのあの段階では、サンノゼあるいはインディアンウェルズでさえ、勝つ事について本当に気合いを入れてかかるのは難しかった」と、彼の長年のコーチだったポール・アナコーンは語った。「彼が努力しなかったという事ではない。自分自身に何かを命じる時、心と身体がそれを受け入れるかどうか、という問題なのだ」

サンプラスの衰えに、メディアは敏感だった。

「誰かが『君は以前ほど圧倒性がない。いつ引退するつもりか?』と言いだして初めて、事は動き始めるんだ」とサンプラスは語った。「おい、こういう風評があるよ」となって、僕はそれを耳にする。

「1〜2年の後には、僕は『ここにいる僕は愚か者なのか? なぜ僕は災いの前兆を見て取らないのか?』といった感じだった。人はそうやって信じ始めるんだ」

ローランギャロスはサンプラスのスタイルに適していなかった;パリの赤土は彼を拒んだ唯一のメジャー大会だった。2002年、彼は1回戦でイタリアのアンドレア・ガウデンツィに敗れた。そしてウィンブルドン、彼の最も愛する大会では、2回戦でスイスのジョージ・バストルが彼を追い出した。

「僕のキャリアで最低の時だった」とサンプラスは認めた。

アナコーンは1995年からサンプラスのコーチを務めてきたが、2001年シーズンの後に離れ、USTA の「ハイ・パフォーマンス・プログラム」の責任者になっていた。

「彼は、自分が今なおメジャーで勝つレベルにあると感じていたのだろう」とアナコーンは語った。「問題は、堅実性をどうやって維持するか解決する事だったのだと思う」

ピート・サンプラスは助けを必要としていた。そしてポール・アナコーンが救援に現れた。
自信の危機

「僕はコーチングの持続性を失っていた」とサンプラスは語った。「本来は連続性を必要とする。僕はウィンブルドンから戻った後、USTA までポールに電話をかけ、「へい、少しばかり手を貸してほしいんだ」と言ったよ。

「それはフォアハンドとかバックハンドの問題ではなかった。自信の問題だった。僕はもう1回メジャーで優勝したかった。そしてもう一度、すべてを組み立てられるよう望んでいた」

アナコーンは驚かなかった。サンプラスが最後に大会で優勝してから、26カ月が経っていたのだ。ナンバー1でメジャー優勝に集中していた頃は、否定的な―――そして肯定的なものでさえ―――論評に関心がなかった、とサンプラスは語った。敗戦は、それを無視する事を難しくしていった。

「バストルに敗れた後、我々は長い話し合いをした」とアナコーンは語った。「それほど長い間、大会優勝がなく、そしてピート・サンプラスであると、記者会見に臨むたびに、話は否定的な方向に向かう。どれほど断固として楽天的であっても、あるいはどれほど自信を持っていても、質問の90パーセントが否定的であると、不安の種を植えつけるものだ」

「それは2パーセントの自信を減じるだけかも知れないが、あのレベルにおいては、すべてに影響する。彼ほどの素晴らしい選手であっても、2パーセントは脆さを意味するのだ」

アナコーンはUSオープンを通して彼のコーチを務める事に同意した。

「僕は自己不信の罠に陥っていた」とサンプラスは認めた。

「ポールに話をすると、彼は『君はそういった事柄を遮断して、無視する必要がある』と言った。僕は自分が何者であったか、そして自分のキャリアで何をしてきたか思い出す必要があった。ある時点で、雑事は放っておかなければならない」

「その夏、僕は言わば始めからやり直したんだ」

彼は、シンシナティでは2回戦で70位のウェイン・アーサーに敗れた。ロングアイランドでは、85位のフランス人選手ポール - アンリ・マチューに1回戦で敗れた。

「私は100パーセント、彼がもう1回メジャー優勝を遂げるだろうと確信していた。彼がそれを望んでいると知っていたからだ」とアナコーンは語った。「それが6週間後に成し遂げられるとは分かっていなかったが」

なお耐え抜く

サンプラスは前の2年、USオープンの決勝戦まで達していた。しかし2人の20歳の選手に惨敗していた。最初はサフィンに、そして次の2001年にはオーストラリアの レイトン・ヒューイットに。

「実際、この大会は年長の選手にとって、優勝する事が最も難しいと思う。土曜日(準決勝)、日曜日(決勝)と連続してプレーするのだから」とアナコーンは語った。「日曜日の試合の質を、ひどくそこねる危険性がある。5セットマッチの連続だからだ」

サンプラスは1回戦でアルベルト・ポルタスを、そして2回戦でクリスチャン・プレスを、両者ともストレートセットで倒した。3回戦では、グレッグ・ルゼツキーが5セット―――2週間で唯一の―――まで引き延ばした。

「ルゼツキー戦を乗り越えられてラッキーだった」とサンプラスは語った。「強烈な左利きのサーブは好きじゃなかったからね。ルゼツキー戦はやりにくかった。だが、それを切り抜けた。僕のゲームは良かったし、動きもサーブも上手くいった」

「僕は耐え抜いたんだ」

試合の後ルゼツキーは、サンプラスは1歩半遅くなっていて、トミー・ハース戦には負けるだろうと言った。4回戦のハース戦は4セットかかった。そして準々決勝では、サンプラスは20歳のアメリカ人、アンディ・ロディックに快勝した。

「あれで、少し休む事ができた」とサンプラスは語った。「2週目には、僕が毎週毎週のつらい仕事で失っていた情熱が甦ってきたんだ。コートへ出るたびに、自分が本命だと感じていた。13回メジャーで優勝したからには、そのように感じてしかるべきだ」

アナコーンが7年以上もの間、サンプラスの茶色の目の奥に見てきた、むき出しの、 抑えがたい欲求は戻っていた。

「私は思ったよ。『わう、まさに彼がそこにいる。彼は今、適切な精神状態にある』とね」とアナコーンは語った。

「人々はプレッシャーについて語るが、ピートにかかるプレッシャーは、むしろ自ら課していたように感じる。彼ほど自分に高い水準を課していた者はいなかった」

「だが、それは終局に向かって挑もうとしているように感じた。31歳の彼に7日間で5試合の5セットマッチ、それをプレーするよう望むのは、かなりの事だ」

予想外の準決勝進出者シェーン・シャルケンは、3セットの試合でほとんど抵抗を見せなかった。一方アンドレ・アガシは、ヒューイットを下すのに4セットを必要とした。

ダレン・ケイヒルは当時アガシのコーチだった。

「決勝戦に進出したピートは素晴らしい出来だった。彼が道を切りひらいていった様は」とケイヒルは語った。「彼は苦しみながら大会に入ってきたが、勢いよく甦った。つまり、我々は何度もそれを見てきたのだから、驚くには当たらなかったのだ」

ピート・サンプラスがジョージ・バストルといった相手に、しかもウィンブルドンで負ける事があり得るとは、想像もつかなかった。しかし彼は敗れたのだった。
詩的な対戦

USオープン決勝戦でアガシと対戦した12年後に、再びサンプラスは34回目の対戦で、偉大なライバルと相まみえた。

「彼らが対戦しているのを見るのは、実に詩的だったと心から思う」とアナコーンは語った。

「もしピートが優勝しないのなら、他ならぬ彼にこそ優勝してほしいと感じた。ピートはアンドレに敬意を抱いていたからだ」

「完璧な取り合わせだった」

アナコーンと一緒に関係者席に座っていたのはサンプラスの妻、ブリジットだった。彼女は2カ月足らず後に、彼らの最初の息子、クリスチャンを出産する事になる。

「アンドレとの対戦では」とサンプラスは語った。「すべてがふりだしに戻った。はた目には、ウィンブルドンで負けた後、僕が決勝戦まで到達したのは、恐らく大いなる衝撃だっただろう。だが僕にはまったく驚きではなかった」

アガシは実際、サンプラスより15カ月年上だった。しかし彼は何度かトップレベルからの休息をとっていたため、サンプラスほどすり減っていなかった。

「肉体的に、決勝戦に臨むにあたり、アンドレは少し疲弊していた」とケイヒルは語った。「だから我々は、決勝戦が厳しい戦いになるだろうと承知していた。ピートは最初の2セット間、信じがたいほど見事にサーブを打っていた」

サンプラスは試合全体で33本のエースを放ち、セカンドサーブでも容赦なく打ち込み、最初の2セットをやすやすと勝ち取った。

「彼のゲームは、ここぞという時にレベルを上げる事が可能なんだ」と、試合後にアガシは語った。

「彼のプレーは今なお脅威的だし、彼がどれほど優れている事か。違う事を言う人たちは、真実が分かっていないんだ」

アガシは第3セットを勝ち取り、第4セットでは疲れを見せてきたサンプラスにプレッシャーをかけ始めた。2-2からのサンプラスのサービスゲームは12分かかり、7回のデュース、トータルで20ポイントの末にキープした。

「アンドレはブレークポイントを握り、ピートの足元にリターンを打ち込んだ」とケイヒルは語った。「そしてピートはハーフボレーのドロップショットを放って、ブレークポイントをセーブした。素晴らしいショットだった。だが我々の側から見れば、逆風が吹き始めたように感じられた」

「ピートがあのポイントを勝ち取り、サービスゲームをキープすると、そのセットと試合全体の様相が変化したのだ。彼は最後までずっと、波に乗っていた」

薄れゆく陽射しの中でプレーするサンプラスは、まるで活発な19歳のチャンピオンのように見えた。

「プレーヤー皆が口にする陳腐な決まり文句は数知れずある」とアナコーンは語った。「いいかい、『僕はセンターコートに出るのが待ちきれない、大試合を戦うのが待ちきれない』とね。だが、本質的にその事を感じ取っている男は、ごく少数しかいない。そしてピート・サンプラスはその1人だ」

「ウィンブルドン決勝戦を戦うためセンターコートへと向かう前に、私は彼の目の奥にそれを見てきた。ドイツで行われた ATP 最終戦で、15,000人の喚声を上げるファンの前でボリス・ベッカーと対戦する前に、彼の声にそれを聞き取った。ピートはそういった舞台が好きだったのだ」

サンプラスは6-3、6-4、5-7、6-4で勝利し、1970年のケン・ローズウォール以来、USオープンで優勝した最年長男子となった。

「これ以上に素晴らしい優勝は、ないかも知れない」とサンプラスは語った。

「我々の未来がどうなっていくかは、何とも言いがたい。この試合は我々のためにあったのだろう。だがもしかしたら、来年も再びするかも知れないね」

引退は永遠に

サンプラスは2002年の残り、試合に出場しなかった。

「彼は何カ月もの間、分からなかったのだ」とアナコーンは語った。「彼は『練習に行こう』と言った。そして4日後には『僕はプレーしたい気分にならない』と言ったよ」

彼は引退について、妻や友人たちと話し合ってきた。それは徐々に深刻なものになっていった。2003年シーズンの始め、彼はオーストラリアでプレーしなかった。2月には、お気に入りの大会の1つ、サンノゼを棄権した。

「オープンの余韻が消え失せると、次に何があるか、よく分からなかった」とサンプラスは語った。「何週間かヒッティングをして、『僕はここで何をしているのか? 何のために準備しているのか?』と考えたんだ」

ケイヒルは語った。「ゲームから長く離れれば離れるほど、戻ってくるのは難しくなる。2カ月後には、彼は多分『キャリアを終わらせるのは、なんて魅力的なんだ』と言っているだろう。もし彼が辞めるとしても、責める事はできない。引退は永遠のものだからだ」

アナコーンは辛抱強かった。彼はサンプラスが確信を得たがっていると承知していたのだ。ベンチュラ・カウンティにあるサンプラスの自宅外のテニスコートで、彼らは定期的にヒッティングを行っていた。

3月下旬のある日、アナコーンはコートへ向かう途中でサンプラスの家の階段下にさしかかった。

「彼はシューズのひもを結んでいた」とアナコーンは語った。「そして言ったよ。『終わりだ、僕のキャリアは終わった』とね。そんな感じだった」

アナコーンは微笑し―――彼はその時が来るのを知っていたのだ―――そして答えた。「パーフェクト」と。

サンプラスは彼に、根本的理由を語った。「僕は自分がなぜプレーしていたのか分かったんだ。僕は証明するためにプレーしていたんだ―――他の誰にでもなく、自分自身に。記録とかは関係ない。もうこれ以上、何も自分自身に証明する必要がない」

「僕は素晴らしい妻、素晴らしい人生を得てきた。大きい山に登り、満足している」

実際には、7月まではサンプラスも完全に確信していた訳ではなかった。

「僕は自分にもう一度チャンスを与えたかった」と彼は語った。「だがウィンブルドンの季節が巡ってきて、そして過ぎ去っていった時、僕はそれほど恋しいとは感じなかった。その時に、本当に終わったのだと知った」

頂点

数日前、アナコーンはアーサー・アッシュ・スタジアムにある屋外プレーヤーズ・ラウンジの鉄製テーブルに座り、あの素晴らしい疾走を思い出していた。

「あれから10年が経ったなんて、信じられない」と、彼は頭を振って語った。「まるで昨日の事のようだ。常套句ではあるが、まさにそう感じられる」

アナコーンは現在も忙しく仕事を続けている。彼はナンバー1プレーヤー、ロジャー・フェデラーのコーチを務めているが、フェデラーの途方もないキャリアの曲線は、サンプラスのそれに極めて似通っている。

「彼がプレーした最後の試合は、あそこでだった」と、アナコーンは指さして語った。「相手は史上最高選手の1人で、彼の偉大なライバルだった。勝つ事ができ、ゲームの頂点に立ち、そして去っていく?」

「ラケットを置くのに、それより詩的な方法などない」

アガシが4年後に最後の試合を戦った時、ケイヒルはアッシュ・スタジアムの関係者席にいた。

「時は素早く過ぎ去っていった」と、現在は ESPN の解説者を務めるケイヒルは語った。「彼らは2人とも、プレッシャーがかかった時に信念を持っていた。それは教える事のできないものだ」

「楽しみのためにボールを叩きまくる我々一般人には、それを理解するのは難しい。だが我々はしばしば、彼らのような人々からはその信念を見せられるので、期待する。そして、それを目にすると、『うわーっ、またか?』と言うのだ」

「私はそれを疑った事はない」

サンプラスは生来の内向的な人間という訳ではない。先週末 CBS 局が2002年決勝戦の特集を放映した際に、彼はそれがどれほど感動的であったかに驚いていた。

「アンドレとの対戦は、特別なものだった」と彼は語った。「今こそそれを言うよ。彼への敬意ゆえに、と。彼は恐らく、僕が対戦した中でも最高の選手だった。ジュニア時代には競争意識を持つ事もあったが、我々は上手くやっていたよ」

「互いにプッシュし合い―――互いを必要としていたんだ」

サンプラスは現在のゲームを離れた所から見守っている。ロディックがアッシュ・スタジアムで最後の試合をした時、彼は拍手を送った。

「ずいぶんと変化してきた」と彼は語った。「物事に対処するには、ひたすらエネルギーが必要だ。にっちもさっちも行かなくなりかねない。ツイッターは―――僕には御しかねた。僕なら iPhone を海に投げ入れるだろう」

振り返って、彼はニューヨークでの2週間にわたる自身の奮闘を誇りに感じている。

「皆は僕を終わった選手と見なしていたが、僕は自分自身を信じていた」とサンプラスは語った。「自信を取り戻し、そしてさらに深めていった。僕は自分の人生を変えた場所で、最初と最後のメジャー優勝を遂げたんだ」

「終わりにふさわしい方法だったね」


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