スポーツ・イラストレイテッド
2012年3月5-18日号
ピート・サンプラスがプロランキングに跳び込んできた思い出

1988年に16歳でプロに転向したピート・サンプラスは、1990年USオープン決勝戦でアンドレ・アガシを破り、テニス界の表舞台に躍り出た。


24年前の今日、カリフォルニア州ランチョ・パロスベルデス高校2年生で、ピート・サンプラスという名前のひょろっとした16歳のジュニアが、インディアンウェルズ大会に出場するため授業をさぼった。その日、1988年2月29日に、あたかも天がこの子供は特別な存在かも知れないと合図しているかのように、サンプラスは世界37位のラメシュ・クリシュナンを破り、本戦ドローの試合で初勝利を挙げた。サンプラスは世界893位だった。彼は26歳の相手に対して第3セットのタイブレークで5本のマッチポイントをセーブした末に、6-3、3-6、7-6(9)で勝ち、キャリア1勝目を手中に収めたのだった。

「彼はサーブもネットプレーも実に上手くこなし、見事だ」と、当時クリシュナンは語った。「彼はまだ16歳だが、素晴らしいプレーをしている。あれほど若い時点では、どれほど優れているか見きわめるのは非常に難しいが、彼はまさに大いなる可能性を秘めている」

サンプラスは予選を勝ち抜いて本戦出場権を得ていた。そして大会出場中の4日間は学校を休み、次の試合でも25位のエリオット・テルシャー相手に7-5、6-3で番狂わせの勝利を挙げたのだった。3回戦で18位のエミリオ・サンチェスに7-5、6-2で負けた後、サンプラスはプロに転向した。その後は知ってのとおりである。

「僕の1つの目標は、いつの日にかウィンブルドンで優勝する事だ」と当時はまだ青二才のサンプラスは語った。「それはこの4年間、僕の目標だったんだ。必ず優勝するという意味ではないけれど、きっと出来る」

そして彼は優勝したのだ。7回も。



ロサンジェルス・タイムズ
1988年4月3日
愛と金のために:2つの大番狂わせの後に、16歳の少年はアマチュアから
プロへの転向を決断する

文:Stuart Matthews


ピート・サンプラスはついに、すべての高校生が知りたがるだろう事を理解した:どうやったら4日間も学校をさぼり、そして非難よりもむしろ祝福を受けられるかを。

パロスベルデス高校2年生のサンプラスが、今月の初めにインディアンウェルズで開催されたニューズウィーク・チャンピオンズカップ・テニス大会に出場した時、彼は16歳のアマチュア選手だった。

5日後、サンプラスがグランド・チャンピオンズ・ホテルのテニスコートから去る時には、7,000ドルの小切手を手にしていた。

その過程で、彼はトッププロに対して続けざまに衝撃的な番狂わせを演じ、テニス界を瞠目させた。彼の犠牲者はインドの世界37位ラメシュ・クリシュナン、そして25位のエリオット・テルシャーだった。

3回戦ではスペインの18位エミリオ・サンチェスにストレートセットで敗れたが、サンプラスの直近の将来は決まっていた。サンチェスに敗れた後、サンプラスは公式にアマチュアキャリアを終わらせる書類に署名した。運転免許証を得たわずか6カ月後に、彼はプロになったのだった。

翌日、彼は教室に戻っていた。担任教師が再入学の紙きれを机に叩きつける事はなかった。

「彼らはただ僕を祝福してくれたんだ」と、サンプラスは照れくさそうに語った。「学校は僕の家に、僕が授業を休みすぎる(missing too much)って手紙を送ってきたけどね」

しかしながら、サンプラスのテニスゲームに欠けているもの(missing too much)はあまりない。

彼の武器は強烈なフォアハンドと時折のサーブ&ボレーである。5フィート10インチ(約178センチ)、140ポンド(約52.2キロ)の少年は、サンプラスと彼の同世代、アンドレ・アガシとマイケル・チャンを将来の最も有望なアメリカの若手として褒めたてる「テニス・マガジン」「ワールド・テニス」などの雑誌から注目されてきた。

「あらゆるテニス専門家が、彼を信じ難いほどの才能と呼ぶ」とボブ・ケインは語った。彼はクリーブランドに本社を置く国際マネージメント・グループ(IMG)のテニス部門のチーフで、マルチナ・ナヴラチロワ、ビョルン・ボルグ、クリス・エバートといった選手たちの代理人を務めてきた。先週の時点で、ケインの会社は駆け出しのプロ、サンプラスの代理人を務めている。

「この10年間、彼ほどの能力を持つアメリカ人選手は、そう多くは現れなかった」とケインは語った。「そして2つのメジャー大会で本戦出場権を得て、彼は自分が大物たちとプレーできると気づいているのだ」

サンプラスは2月にフィラデルフィアのエベルUS室内選手権でメジャー大会デビューを果たし、予選を勝ち抜いて本戦出場権を得た。そして1回戦でサミー・ジアマルバに6-4、6-3で敗れた。

「あの大会では、経費は出してもらえたが、アマチュアなので賞金は受け取る事ができなかったんだ」とサンプラスは語った。「本戦ドロー入りと1回戦敗退で1,800ドル獲得したところを、実際は600ドルを残してこなければならなかった」

その事がサンプラスに、もし別のプロ大会で2回戦を突破したら、アマチュア資格を放棄しようと確信させたのだった。彼はテルシャーに衝撃を与えた時、「その機」が来たと知ったのだった。テルシャーはプロサーキット10年のベテランで、パロスベルデスでサンプラスの近所に住んでいる。

賞金総額70万ドルのインディアンウェルズ大会におけるサンプラスのビッグウィークは、夢のようだった:

それは彼が予選突破を狙う3人―――アメリカ人のトッド・ネルソン(予選トップシードで世界87位)とデクスター・マクブライド、そしてスウェーデンのフレドリック・Waern―――をなぎ倒して本戦ドローの1回戦に到達し、クリシュナンとの対戦権を得た時に始まった。

ベテランのクリシュナンとの対戦―――クリシュナンの人を迷わせるような、滑らかなベースライン・ゲームは、1986年のウィンブルドンで彼を準々決勝へと進出させた。そして昨年はインドをデビスカップ決勝戦へと導いていた―――は、白熱した試合となっていった。

第1セットは、ムラの多いクリシュナンのグラウンドストロークの出来にサンプラスが乗じて、6-3で勝ち取った。しかし第2セットでは、巧妙なクリシュナンはある種の魔術的なショットメイキングを繰り出し、若者に対して6-3、3-6で試合をイーブンにした。そして若いサンプラスは、その時点までに意気阻喪していたと認めた。

「この男は世界のトップ30にいるんだ、という事が僕の心に入り込んできた。彼がいつ波に乗り始めるのだろうかと考えていた」とサンプラスは語った。

最終セットは6-6までせめぎ合ったが、クリシュナンはタイブレークで6-4と圧倒的なリードをつけた。インド人は5本のマッチポイントを握ったが、サンプラスは断固として食い下がり、見事なショットや紛れもないラッキーショットではねのけていった。

その後サンプラスはクリシュナンを抜くバックハンド・ボレーを放ち、11-9でタイブレークを勝ち取り、6-3、3-6、7-6で試合に勝利したのだった。

「あのタイブレークのポイントで、彼は素晴らしいプレーをした」とクリシュナンは語った。「彼はまだ若いのに、あれほど上手くプレーするとは驚くべき事だ」

サンプラスもクリシュナンと同じくらい呆然としていた。

「すべてがとても速く起こったんだ」と彼は語った。「僕はいくらかの幸運を得た。だが、この先ああいった互角の試合に敗れる事も、きっと多々あるだろう」

1日おいた後、サンプラスはテルシャーと対戦した。テルシャーはプロツアー10年の強者だった。

テルシャーと若い隣人は6年ごしの友人で、しばしば一緒に練習をしている。しかしインディアンウェルズのスタジアムコートにおいては、2人は本分優先だった。

「彼も僕も、その事を承知していた」とサンプラスは語った。「我々は互いを負かすべくコートに出たんだ」

サンプラスが7-5で第1セットを勝ち取る途上で、彼の大会全体でも最上級のプレーを幾ばくか披露すると、判官贔屓の観衆は彼による番狂わせを期待して声援を送った。第2セットで、テルシャーは3-3として隣人に並んだ。しかしサンプラスは次の3ゲームを楽々と奪って29歳の対戦相手を7-5、6-3で倒し、観衆が求めるものを与えたのだった。

サンプラスは3回連続で番狂わせを引き起こすべく、3回戦でクレー・スペシャリストのサンチェスとの対戦に臨んだ。第1セットは5-5まで対等だった。そこから、サンプラスは40 - 0でサーブに向かい、5ポイントを連続で失った―――そして彼の集中力も、それに従ったのだった。

スペイン人は勢いづいて第1セットを7-5で勝ち取り、その後も完璧だった。彼は勝利を収めた。7-5、6-2というスコアで。

「僕は集中力が欠けて、サンチェスに自信を与えてしまった」とサンプラスは語った。「あの後、彼のショットは本当に自由自在だった。さらに、僕は自己嫌悪を少しばかり引きずっていたんだ」

試合が終わった後にプロへの転向を果たした事は、サンプラスを元気づけた。

それは1987年のUSオリンピック・フェスティバルのタイトル、そしてUSハードコート選手権決勝戦でのチャンに対する敗戦を含む、傑出したアマチュアキャリアを中断させるという事でもあった。

さらには、高校でのテニスキャリアの中断をも意味した。サンプラスはパロスベルデス高校2年生として、これまで56セット不敗で、CIF - 4A(California Interscholastic Federation division 4A=カリフォルニア高校対抗戦連盟第4区分)におけるシングルス王座を獲得していたのだ。

サンプラスがジュニアからプロへと転じた現在、合衆国としては未来の希望を豪華な若い選手たちによる新しいトリオに託す事ができる:

カリフォルニア州プラケンティア出身のチャンは、16歳の巧みなベースライン・プレーヤーで、粘り強いラリーとカウンターパンチでポイントを勝ち取る。彼は相手に無理やり仕掛けさせて、対応するのだ。昨年、チャンはオーストラリアのポール・マクナミーを打ち負かし、USオープンで試合に勝った最年少プレーヤーとなった。

ラスベガス出身のアガシは、パンク風ヘアスタイルと強烈なフォアハンドを持つ奔放な17歳の選手である。彼は1987年にストラットン・マウンテン大会で、現ウィンブルドン・チャンピオンのパット・キャッシュから番狂わせの勝利を挙げ、準決勝では世界ナンバー1のイワン・レンドルをノックアウト寸前まで追いつめた。派手なアガシは世界17位につけている。

サンプラスのゲームは、2人の仲間を少しばかりブレンドしたような感がある。彼は俊足で、ベースラインからも快適に打ち合えるが、断固としたサーブ&ボレー・ゲームをより好む。彼はまた、2年前にパンチ不足の両手バックハンド(とウッドラケット)から自由奔放な片手打ちへと変更し、より攻撃的なプレーヤーになった。

新たに得たプロキャリアに加えて、サンプラスは新しいチャンピオンを切望するアメリカ大衆のプレッシャーに対処しなければならない。ジミー・アリアス、アーロン・クリックステインといった最近のアメリカの天才児たちは、両者とも時には才気あふれるプレーをするが、一貫した強さに欠け、大衆の期待を真にかなえる事はなかった。

「アメリカのテニスが少しでも悪くなる事はあり得ない」とサンプラスは語った。「ひたすら向上していく筈だよ」

「だが僕は、(アリアスとクリックステインに)起こった事については、さほど心配していない。彼らは自分のテニスゲームではなく、儲け話に目を向けていたのだと思う。僕は自分のゲームに取り組むつもりだ。お金は後からついてくるものだよ」

西ドイツのボリス・ベッカーにとっては、金は非常に速くついてきた。1985年、彼は17歳で初のウィンブルドン・タイトルを獲得したのだ。しかし20歳になった現在でさえ、自分がテニス界の頂点へと駆け上がった道程は異例だとベッカーは認めた。

「あれはテニスプレーヤーにとって正規の道のりではないよ」と、ベッカーはインディアンウェルズで語った。「時には、月へ行く前に火星へ行ってしまうんだ」

サンプラスは、まず月に降り立つ方を望むだろう。

彼は6月にパロスベルデスでジュニア時代を終えると、すべてのサーフェスで、USオープンを含むメジャー大会の旅へと船出する。サンプラスが出場する次のプロ大会は、チャールストンのワイルドデューンで開催される32ドローの大会で、4月25日に始まる。

サンプラスは本戦ドローに入るより、むしろ予選ラウンドで腕試しをする。彼は今年、少なくとも12大会(世界ランキングを受けるための最少大会数)への出場を望んでいるが、予選ラウンドは彼に多くの貴重な試合経験を与えるだろう。また本戦ドローでは、レンドル、ベッカー、マッツ・ビランデル、ステファン・エドバーグといったシード選手との対戦で、多くの1回戦負けを経験するだろう。

「自分で自分を動揺させたくはない」と彼は語った。「僕はボリス・ベッカーと対戦するかも知れない。まあ、この男は偉大である筈だ。だが、対戦相手の事を考えると、あまり良いプレーができない。僕がすべきなのは自分のゲームをする事で、世界トップ10の男について悩む事ではない。さもなくばプレーがおろそかになって、自分にがっかりしてしまうかも知れないよ」

サンプラスが持つ精神的堅実さは、この若者を構成する最も堅固な部分かも知れない、とケインは語る。ツアーを回る間は通信制コースを受けて、高校の卒業証書を受け取ろうかとサンプラスは計画している。

「何が重要かについて、彼は非常に優れた大局観を持っている。彼の前方には素晴らしい未来があるよ」とケインは語った。「16歳でプロである事は厳しい。そんなに速いペースで前進する事はできない。だが彼の家族とコーチは、とても協力的だ。彼には素晴らしいチームがついているよ」

テルシャーも、サンプラスの未来は明るいと同意した。サンプラス、チャン、アガシのトリオは、彼自身とジョン・マッケンローが10年前に彗星のごとくテニス界に登場した時以来の、アメリカ・ジュニア最高のグループである、と彼は考えている。しかし若い選手たちに、最初はゆっくりと物事に対処するよう警告した。

「最初は、すべてが未知の世界だ」とテルシャーは語った。「新しいおもちゃのようなものだ。だが、そんなにすぐにプレーしすぎる事は不可能だ。当初は、すべてをやろうとはしない、という事を肝に銘じなければならない」

この7年間サンプラスのコーチを務めてきたのは、小児科医のピーター・フィッシャー博士だった。父親のサムは、エルセグンドのアメリカ空軍宇宙部門で、機械エンジニアとして働いている。サンプラスの両親は、彼が7歳の時、初のジュニア大会に出場するよう励ました。

先週サンプラスは、ランチョ・パロスベルデスのジャック・クレーマー・テニスクラブで、68歳のボディ・ファイトとテニスボールを打ち合っていた。ファイトは55年間もクラブの会員でいる。彼はサンプラスの高くキックするトップスピンサーブ、弾丸のようなフォアハンドをすべて、忍耐強く返球した。彼は若かりし頃から、多くの逸材を見てきた人物なのだ。

「私はあらゆるガキどもとプレーしたよ―――テルシャー、トレーシー・オースチン―――彼ら全員とね」とファイトは語った。「この子、サンプラスは彼らの中で最高かも知れない。彼の行く手にはすべてがある」

インディアンウェルズにおけるサンプラスの1回戦の犠牲者は、もう1人の信奉者である。

「彼はサーブもネットプレーも実に上手くこなし、見事だ」とクリシュナンは語った。「彼はまだ16歳だが、素晴らしいプレーをしている。あれほど若い時点では、どれほど優れているか見きわめるのは非常に難しいが、彼はまさに大いなる可能性を秘めているよ」

アイドルがロッド・レーバーというサンプラスは、自分には可能性があると認める。彼は今まさに、その口火を切る必要があるのだ。

「僕の1つの目標は、いつの日にかウィンブルドンで優勝する事だ」とサンプラスは語った。「それはこの4年間、僕の目標だったんだ。必ず優勝するという意味ではないけれど、きっと出来る」


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