テニス・ナウ
2012年3月30日
金曜日のフラッシュバック:ピートとアンドレは2年連続でマイアミ決勝戦を戦う
文:Chris Oddo
http://www.tennisnow.com/News/Flashback-Friday--Pete-and-Andre-Contest-Back-to-B.aspx


驚異的な数字:今日に至るまで、ソニー・エリクソン・オープン(以前はリプトン・クラシックとして知られていた)における男子シングルス・タイトルの3分の1はテニス界の2人の巨人―――あるいはマイアミのモンスターと言うべきか?―――ピート・サンプラスとアンドレ・アガシのものである。

日曜日の男子決勝戦を控え、キービスケーンにおける初期のテニスを振り返るのは適切かと考えた。大会は1985年に始まったが、初の2年連続優勝者となったのは、柔軟な手首としっかりした脚を持つ背高のっぽ、「ピート」として知られる男である。

それは1994年のことで、サンプラスとアガシが全キャリアで34回対決したうちの、9回目の対戦だった。サンプラス、アガシ、ファン、メディアのいずれも、彼らのライバル関係がどれほど伝説的なものとなるのか、何の見通しも持っていなかった。しかし確かに兆候はあったのだった。サンプラスは1990年USオープン決勝戦と1993年ウィンブルドン準々決勝で、すでにアガシを下していた。一方アガシは1992年フレンチ・オープン準々決勝でピートを破っていた。

広大なそれらのグランドスラム開催地と比べて、キービスケーンのクランドン・パーク・テニスセンター―――クリフ・ドライスデールは「ブッチ・ブッフホルツが建てた家」と呼んだ―――は、多くの者には取るに足らない開催地と映ったかも知れなかった。しかしピートとアンドレにとっては、それは覇権への闘いを進展させるに完璧な場所だったのだ。

サンプラスの少年ぽい魅力と礼儀正しく伝統的なウェアや態度、それに対抗するアンドレの不作法で下品な反抗的傾向、テニス界トップの誇りをかけた総力戦に名乗りを上げたこの2人ほど、完璧に相反する性格タイプはある筈もなかった。

彼らはフロリダ・エバーグレーズで同じ獲物を狙う、2匹のワニのようだった。そしてアメリカ・テニス界は、エアボートに乗っていて彼らを偶然発見した集団のようだった―――彼らから目を離す事などできなかったのだ。

1994年における彼らの初対決には、かなりのドラマがあった。サンプラスは抱えていたインフルエンザ様症状に対処するため、アガシの同意を得て決勝戦の開始を45分遅らせてもらったのだ。

それは仲間のアメリカ人による友情のしるしだった。そしてサンプラスは喜んでそれを受け入れたのだった。彼は第1セットを通して不出来に苦しんだが、持ち直して3セットでアガシを破った。

1番目のビデオの1:38から判断するに、サンプラスはかなり上手く身体の不調から回復した。サンプラスの典型的なコンビネーション:センターへの強力なサーブ、ストレートの完璧なバックハンド・ボレー、続くスマッシュ。それは、その日アガシに対して効果があった。

8:25へとスクロールし、いかに試合をサーブで首尾よく終わらせるかというサンプラスによるクリニックで終了する、1994年大会で賞金を獲得するまでの概要を見てほしい。

翌年、アガシはリベンジを果たす事になる。今やクルーカット、イヤリング、柔らかな顎ひげを誇示する24歳のアガシは、サンプラスのインディアンウェルズ - マイアミ2大会連続優勝を阻止して、大会史上で最も圧倒的な選手となる旅路へと乗り出した。

* その過程で、現在ノバク・ジョコビッチがナイトマッチで取り入れている黒いソックス、黒いテニスシューズという出で立ちは、アンドレが先鞭をつけたと私は確信する。*

この試合の決定的瞬間は、11時58分に見いだされる。アガシは第3セットのタイブレークでミニブレークのリードを守りつつ、途方もなく見事なバックハンドで完全にサンプラスの不意を突き、この試合最長のラリーを終わらせる。アガシは興奮する観客に自分への賞賛を促すような身振りをし、その後は1ポイントも失わずに試合を終える。

それは、振り返ればライバル関係において、我々が考えていたよりも重要な示唆に富む1つの瞬間だったのかも知れない。その当時に超現実的だっただけではない。今や滅びゆく血統―――ナンバー1とナンバー2という、2人の偶像視されるアメリカ人同士の闘い―――の最後となっただけに、いっそう現実離れしたものに思われるのだ。


情報館目次へ戻る  Homeへ戻る