テニス.com
2012年2月7日
サンプラスが語る: ジョコビッチ、アメリカのプロ、新しいラケット、などなど
文:Jonathan Scott


ピート・サンプラスとトッド・マーチンは、スーパーボウル週間の序盤にインディアナポリスのダウンタウンでエキシビション・マッチを行った。スーパーボウル・フェスティバルの開始として、外ではカントリーソングのスター、ダークス・ベントリーと打ち上げ花火が大にぎわいを見せる中、「治癒への試合(Match for Cure)」イベントは、NBA のインディアナ・ペーサーズの本拠地、バンカーズ・ライフ・フィールドハウスで行われた初めてのテニスイベントとなった。

サンプラスは3,200人のファンを前に、7-5、6-4でマーチンを下した。彼はその数時間前に地元・国内メディアとの記者会見を行い、その中でつい5時間前に終了した、 ノバク・ジョコビッチ対ラファエル・ナダルのオーストラリアン・オープン決勝戦について語った。(6時間近い大激戦の末に、ジョコビッチがナダルを打ち負かした)

恐らくサンプラスの最高の台詞は、最も短いひと言だっただろう。プロテニスにおけるビッグ4の君臨は良い事かどうかと尋ねられ、ピストル・ピートは引き金を引いた。「アメリカでは良くないね(Not in America)」

以下に、トップスター、アメリカの希望、彼の現在のラケット、その他についてのサンプラスの考えを紹介する。

●ジョコビッチについて:「進歩には時間がかかったが、彼は答えを見つけ出した。精神的に、(2012年オーストラリアン・オープン決勝戦で)立ち直ってあの第5セットに勝利できるのは、驚くべき事だ」

●大成功を収めた2011年に続く、ジョコビッチの2012年の大望について:「彼はとても上手く優勝を再び成し遂げる事ができた。彼らは週末に10時間も戦った。それを申し分のない方法で行っている」

●マーディ・フィッシュについて:「マーディは体調を整えて、より真剣に、よりプロフェッショナルになった。彼とはロスでよくゴルフをするんだ。彼はちょっと満足しているように見えるよ。彼は若干の優れた事ができる」

●アンディ・ロディックについて:「ロディックは確かに彼なりの成功を収めた。(だが)我々アメリカ人は、アメリカ人がトップにいる事を求めるんだ」

●トッド・マーチンについて:「彼は一流の男だ。それをふさわしい方法で証明した。ウィンブルドンで、そして他の大会でも準決勝に進出した。メジャー大会で1度、あるいは2度、優勝の間近まで迫ったのだからね」

自分自身のサービス能力について尋ねられ、サンプラスは………面白い事を言った!

「今でも皆は、僕が時速130マイルのサーブを打つよう望む。でも僕はもうそんな事はしないよ」しかし彼の新しい武器の技術をもってすれば、実際にサーブを「時速130マイルに」届かせる事ができると言った。そこで私は、彼が選び抜いたラケットは何なのか、聞き出そうとした。彼の答えはこれだった。:「黒いラケット。言えるのはそれだけだよ―――秘密なんだ」その通り:マーチンに対するサンプラスのラケットは黒く塗られ、ロゴは見当たらなかった。

この夜、サンプラスはマーチンに厳しいサーブを放ち、痛烈なフォアハンドを打った。マーチンは立派に振る舞ったが、私は彼自身のプレーに感銘を受けた。時に彼らはおどけて大笑いを誘ったが、テニスそのものは雄弁に物語っていた。ピート・サンプラスは今でもいい腕をしている。いずれにしても、それが常に彼のやり方だった―――物静かに語り、こん棒を振り回すのだ。

このエキシビでいちばん愉快だった場面? あるチェンジコートの時、音響システムが会場に「スイート・キャロライン」を流した。そして彼らがプレーに戻る時、マーチンは「カモン、ピート、言ってみろよ―――『スイート・キャロライン』って………」と呼びかけた。サンプラスはおなじみのポーズで肩をすくめ、答えた。「それは君の世代の曲だろ」(ごま塩頭のマーチンは41歳で、仲良しの敵よりちょうど1歳年上なのだ)
訳注:「スイート・キャロライン」は、1990年代後半頃からレッドソックスの本拠地フェンウェイ・パーク内で、イニングの合い間などに流されるようになり、2002年からは8回表終了後に必ずこの曲が球場内で流されている。ニール・ダイアモンド作・歌で、1969年に発表された大ヒット曲。

「次の週末が皆さんにとって、今夜と同じくらい楽しいものになるといいね」と、マーチンは試合が終了すると観客に語りかけた。「頑張れ、ジャイアンツ」

彼の望みは叶ったのだった。(マーチンのご贔屓?ニューヨーク・ジャイアンツがスーパーボウルで勝利)


「治癒への試合(Match for Cure)」ツアーは、元テニスプロのビル・Przybysz によって創設された。彼はメインイベントの前にマーチンと対戦した。Przybysz は1996年に白血病と診断された。再びテニスをする事はないかも知れないと承知して骨髄移植を受けたのだが、彼は非常に機敏だった。彼が開催した初の「ミラクル・マッチ」は1999年のことで、ジョン・マッケンローとの対戦を実現した。マーチンは試合後の観客へのスピーチで、父親が白血病で亡くなった事に言及した。彼は語るうちに感きわまり、サンプラスがマイクを引き継いだのだった。

「治癒への試合(Match for Cure)」ツアーの残りの日程は、以下の通り:

●フロリダ州アメリア・アイランド
●ダラス
●リトルロック
●ロンドン
●ベルファスト

コート上で、そしてコート外でも、テニスプレーヤーであれ、あるいは誰であれ、人間の回復力を目にする事は、非常に畏敬の念を抱かせられる。彼ら3人は見事だった。


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