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2012年1月28日
同国の男子選手同士によるオーストラリアン・オープン・シングルス決勝戦:
1テニスファンの私見
文:Joe Dorish


これらはオープン時代が始まって以降、同国の2人の選手が対戦したオーストラリアン・オープン男子シングルス決勝戦である。オープン時代以前には、プロのテニスプレーヤーがグランドスラム大会に出場する事はできなかった。2012年オーストラリアン・オープンの男子決勝戦では、同国の選手同士が対戦する事はないだろう。

子供だった1970年代初期から、私はテニスプレーヤーであり、熱心なテニスファンでもあった。私はこれらすべての選手たちのプレーを見てきた。それらを克明に記憶している。下のリストにおける決勝戦に出場したプレーヤーの1人は、試合でウッド・ラケットを用いた最後のプロテニス選手だった。

私は成長途上、ウッドのテニスラケットでプレーする事を学んだ。使っていない時には、ラケットが歪まないよう枠に挟んでネジで締めておかねばならなかった。アルミニウム・ラケットを使い始めると、ウッド・ラケットを枠から外したままにしてしまい、その結果ラケットは歪んで、もはや使用できなくなってしまったのだった。

同国の選手同士によるオーストラリアン・オープン・シングルス決勝戦(男子)

1位.アメリカ合衆国―――3回
オープン時代のオーストラリアン・オープンで3回、合衆国のプレーヤー同士が男子シングルス決勝戦で対戦した。初回は1982年の事で、ヨハン・クリークがテキサス出身のスティーブ・デントンを破った。クリークは南アフリカで生まれたが、1982年オーストラリアン・オープンに出場する前に、アメリカ市民になっていたのだ。

ヨハン・クリークは1981年オーストラリアン・オープン決勝戦でも同じくスティーブ・デントンを下していたが、その当時はまだ南アフリカ市民だった。

2回目のアメリカ人男子同士による決勝戦は1994年の事だった。その時はカリフォルニア出身のピート・サンプラスが7-6、6-4、6-4でイリノイ出身のトッド・マーチンを破った。私はその試合を見た事を覚えている。マーチンは第1セットでタイブレークまでこぎ着けたが、試合に勝つチャンスが彼にあるとは全く思わなかった。

3回目のアメリカ人同士による決勝戦は、翌1995年の事だった。その時はラスベガス出身のアンドレ・アガシが4-6、6-1、7-6、6-4でピート・サンプラスを下した。サンプラスとアガシは偉大なライバル関係だった。彼らは5回のグランドスラム決勝戦で対戦し、サンプラスが1999年ウィンブルドン、そして1990・1995・2002年のUSオープンでアガシを下した。

従って、サンプラスに対するアガシの1995年オーストラリアン・オープン勝利は、彼がグランドスラム決勝戦でピートを負かした唯一の機会だった。

2位.オーストラリア―――2回
オープン時代以前には、大半のオーストラリアン・オープン決勝戦は2人のオーストラリア人選手同士による対決だった。しかしオープン時代以降、オーストラリア人同士が男子シングルス決勝戦で対戦したのは2回である。初回は1972年の事で、ケン・ローズウォールが7-6、6-3、7-5でマルコム・アンダーソンを破った。2回目のオーストラリア人同士による決勝戦は1976年の事だった。その時はマーク・エドモンドソンが6-7、6-3、7-6、6-1でジョン・ニューカムを下した。

3位タイ.スウェーデン―――1回
1985年、2人の偉大なスウェーデン人選手―――マッツ・ビランデルとステファン・エドバーグ―――がオーストラリアン・オープン決勝戦で対決した。エドバーグが6-4、6-3、6-3でビランデルを破り、初のオーストラリアン・オープン優勝を果たした。

エドバーグは1987年にも優勝を果たした。ビランデルは1983・1984・1988年にオーストラリアン・オープンで優勝した。つまり2人のスウェーデン人は6年間で5回、オーストラリアン・オープンで優勝を遂げたのだ(オーストラリアン・オープンは12月から1月へと日程を変更し、1986年には開催されなかったので、実際には5年連続で優勝を果たした事になる)。

ビランデルとエドバーグも優れていたが、ビョルン・ボルグは私がこれまでに見た最高のスウェーデン出身テニス選手だった。しかしボルグがオーストラリアン・オープンに出場したのは1回だけだった。残念な事だ。もし彼がもっと出場していたら、恐らく何回も優勝を遂げていただろうからだ。

3位タイ.チェコ共和国―――1回
1989年オーストラリアン・オープン男子決勝戦は、2人のチェコ人選手同士による対戦で、イワン・レンドルが6-2、6-2、6-2でミロスラフ・メシールを破った。ビッグ・キャットというあだ名のメシールは、グランドスラム・タイトルを獲得しなかった最優秀テニスプレーヤーの1人だった。彼は長いラリーで対戦相手をきりきり舞いさせる思慮深いプレーヤーだった。多くのプレーヤーが、メシールと対戦するたびに不平を言い、それを聞くのは面白かった。

ミロスラフ・メシールはグランドスラムのシングルス・タイトルを獲得する事はなかったが、1988年オリンピックでテニスの金メダルを勝ち取った。その途上ではステファン・エドバーグをも破っていた。エドバーグとスウェーデン人仲間のマッツ・ビランデルは、メシールとの対戦を嫌っていた。メシールは彼らを何回も打ち負かし、「スウェーデン人キラー」というもう1つのあだ名を得ていたのだった。私はメシールが好きだった。彼はウッド・ラケットを使用する最後のプロテニス選手だったからだ。


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