ナショナル・ポスト
2011年11月17日
急成長のラオニッチはサンプラスの注意を引く
文:Michael Traikos


テニスの偉人ピート・サンプラスは2003年に引退したが、トロントを来訪し、木曜日夜に地元カナダのミロシュ・ラオニッチとエキシビション・マッチを行った。「彼には素晴らしいゲームと洋々たる未来がある。彼の成功を祈るよ」と、オンタリオ州ソーンヒル出身の20歳の男についてサンプラスは語った。

すべてはサーブから始まる。

それ無しでは、ミロシュ・ラオニッチはツアーにおける無名の1カナダ人テニス・プレーヤーにすぎないかも知れない。ピート・サンプラスからエア・カナダ・センターでエキシビションを行う承諾を得られなかっただろう。恐らく彼のアイドルに電話をする事さえ不可能だっただろう。

しかし、サンプラスが「武器」と呼んだそのサーブは、ラオニッチの切り札である。それは20歳の彼を、今年の世界ランキングで25位にまで押し上げる助けとなったショットである。そして、ゆくゆくは彼をグランドスラムで優勝する初のカナダ人とするショットかも知れないのだ。

目下のところ、そのサーブは彼を有名にした。

「彼はモンスターサーブを持っている」と、エア・カナダ・センターでのエキシビションで、ラオニッチに7-6(7-4)、6-1で敗れたサンプラスは語った。「彼はアンドレ(アガシ)よりも強烈なサーブを打つ………彼が時速135、140マイルといったサーブをライン際の狙った場所に打つ事ができれば、それは相当な武器となる。彼はその途上にいる」

ツアーでの15年間、自身も破壊的な武器を備えていた者からの高い評価である。

それでもなお、ラオニッチはスタートしたばかりである事をサンプラスは皆に思い出させた。彼のゲームはビッグサーブが目玉だが、フォアハンドと両手バックハンドには欠点がある。

彼がノバク・ジョコビッチ、ラファエル・ナダル、ロジャー・フェデラーを頂点から押しのけていくには、長い道のりが続く。しかし若者が初の大会優勝を遂げ、トップ20位台に足を踏み入れた大躍進の年の後には、あり余るほどの可能性がある。

「それはミロシュしだいだ」とサンプラスは語った。「彼はすべて適切な事をしている。懸命に努力している。そして僕が若者の成長を見る時には、武器に注目する。彼のようなサーブを持っていると、非常に危険な存在となり、倒すのがとても難しくなっていく」

「彼が来年すぐにもウィンブルドンで優勝するといった期待はしないでおこう。彼はなし得るだろうが、それには若干の時間が必要なんだ。いまは辛抱強くあろう。若者に過度のプレッシャーをかけないようにしよう。彼には素晴らしいゲームと洋々たる未来がある」

これは「ヒーロー対天才児」の熾烈な試合として宣伝されていたものの、主としてカナダ・スポーツ界の新星の1人を売り出し、そして何らかの楽しみを得るための口実だった。

サンプラスはずっと若い対戦相手に、気楽にやるよう念を押した。なぜなら「僕は彼の父親であっても不思議はない年齢」だからだ。それでもなお、40歳の彼は意欲に溢れていた。第1ゲームをエースで終え、人差し指を立ててサービスキープを祝した。ラオニックも応えて最初のサーブでエースを決めると、サンプラスはファンに自分のラケットを渡し、コートから歩み去ろうとしてみせた。

約5,000人のファンは、すべてに酔いしれた。

「実を言うと、最近はあまりテニスをしていないんだ」とサンプラスは語った。「背中と腰の問題に対処していた。40歳にもなると、あちこちにガタが来るんだよ。本当にね」

サンプラスが初めてウィンブルドンで優勝したのは、21歳の時だった。対戦相手に痛烈なサーブを叩き込み、ネットに詰めてリターンをボレーするという戦術の攻撃的なゲームで優勝を果たしたのだ。それは腹立たしいほどに効率的―――退屈とまではいかずとも―――なスタイルだった。しかしサンプラスが2003年に引退した後、そのスタイルはすたれていくように見えた。

テニス界のトップはベースライン・プレーヤーで溢れ、トップスピンとアングルでポイントを勝ち取っている。それは長いラリーと面白い試合を生みだす。したがってサンプラスは、ビッグサーバーのラオニッチがネットへの詰めを身につければ、現在の傾向を混乱させる事もできるだろうと考えている。

強烈なパワーは、もちろんあの丈高い体格から生み出される。しかしラオニッチのサーブのカギは、反復と努力なのだ。彼は早朝に何時間も、誰もいないコートにボールを打ち込んで過ごした。学校が終わると、帰宅後にサンプラスの試合のテープを何回も見て、何かを学ぼうとしてきた。

「我々は彼の身長が伸びていくと考えていた。家族全員がとても長身だったからね」と、9歳から17歳までラオニッチを指導したケイシー・カーティスは語った。「それで、彼のサーブにかなりの時間をかけたのだ」

特別な努力は実を結んだ。今年2月にサンノゼで初のタイトルを獲得する過程で、ラオニッチは大会最多となる58本のエースを炸裂させた。翌週にはメンフィスで決勝戦まで進出し、129本のエースを放って大会記録を達成した。

「対戦相手の目に恐れを植え付けるんだ」と、ラオニッチは自分のサーブについて語った。「もしブレークされると、こちらはサーブでほぼセットを終える事が可能だと(相手は承知している)」

カナダ人としては、とにかく誰か優れた選手を見たいのだ。最後のカナダ出身のスターはモントリオール生まれのグレッグ・ルゼツキーで、彼は世界ランキング4位まで到達し、USオープンの決勝に進出した。もちろん、ルゼツキーはイギリスの市民権を選択したために、この国は彼の成功を祝う事ができなかったが。

ラオニッチほど地元出身スターの待望を理解する者はいない。2007年、モントリオールに国立トレーニング・センターが開設された時、彼はそこでゲームを学ぶ第1期生の子供たちの1人だった。当時、彼の国には真にお手本とすべき選手はいなかったのだ。

今後は、変わるかも知れない。

「自国にミロシュのような選手がいると、皆が後に続き、刺激を受けるようになる」とカーティスは語った。「子供たちは彼がいた同じクラブ、同じコートでプレーしている。もちろん、その事が、自分たちも同じ事ができると彼らを鼓舞していくだろう。私と一緒にやっている子供たちは、その事に浮き立っているよ」

彼は今年、オーストラリアン・オープンで世界22位のミカエル・リョドラと10位のミハイル・ユーズニーを破って3回戦に進出し、名乗りを上げた。引き続きサンノゼで優勝を果たし、メンフィスでは決勝に進出して、同じくハード・サーバーのアンディ・ロディックに敗れた。それによって、ラオニッチはランキングを131位もジャンプさせた。もしウィンブルドンの2回戦で臀部の筋肉を痛めなかったら、さらに順位を上げていたかも知れなかった。彼はその怪我で外科手術を受けねばならず、3カ月間ツアーを休む事となったのだ。

いずれにしても、現在は31位で、本人が想像しうるよりも良い年だった。

「この話はたくさんの人がもう聞いたと思うが、僕とコーチは(年の始めに)2枚の紙切れに年末の予想順位をそれぞれ書いて、封筒に入れておいたんだ」と、今夏のロジャースカップ前に記者会見などでしばしば語った物語について、ラオニッチは語った。

その時は、彼は自分の書いた順位を口にしなかった。

「僕は47位と書いたと思う。彼が何と書いたかは分からないが、より離れた順位を予想した方が、高価なディナーをおごる事になっていた。だから、僕がおごる事になると思うよ」


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