ブリーチャー・レポート(外野席からのレポート)
2011年6月13日
ロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダルとオープン時代最高の
グラスコート・プレーヤー10人

文:JA Allen

2001年7月2日:ウィンブルドン4回戦で、ピート・サンプラスが彼に勝利したロジャー・フェデラーを祝す。

現在、ウィンブルドンはグラスコート・テニスである。当然、ハレのゲリー・ウェーバー・オープン、ロンドンのクウィーンズ・クラブとバーミンガムでのエイゴン選手権といった前哨戦は存在する。しかしウィンブルドンは、今なお芝生で戦われる唯一のメジャー大会である。

ウィンブルドンのセンターコートで決勝戦に勝利した選手たちは、生涯の夢が叶った事を実感してきた。なぜならグランドスラム優勝となると、ほとんどの選手にとってウィンブルドンは最高のものと見なされているからだ。

オール・イングランド・クラブはハイティー、イチゴクリームでもてなす。出場選手は白いウェアを身につけ、しかるべき礼儀作法を守らねばならない。不作法な行為が大目に見られないのだ。ジョン・マッケンローに訊いてごらん!

ウィンブルドンは時の試練に生きながらえ、近代化の誘惑によく耐え、そして堅持された伝統を保ってきた。2009年大会で公になったセンターコートを覆う開閉式屋根以外は。

ピート・サンプラスは1990年代に7回のウィンブルドン優勝を果たしたが、イギリスのウィリアム・レンショウは1880年代に7回の優勝を遂げた。さらには、イギリスのレジナルド・ドハティとローレンス・ドハティも、各々1897〜1900年(4回)と1902〜1906年(5回)に同じくタイトルを獲得した。

しかし1922年までは、ウィンブルドンのチャンピオンは1試合を戦う事で、タイトルを防衛していたのだ―――チャレンジ・フィールドから勝ち上がってきた勝者と決勝戦を戦うのみで。

ピート・サンプラスの場合は、それほど幸運ではなかった。彼は前年に苦労して獲得したタイトルを再び得るチャンスのためだけに、6回の試合に勝利しなければならなかった。

1968年にオープン時代が始まって以降、19人の男たちが少なくとも1回ウィンブルドンタイトルを獲得してきた。一方アマチュア時代には、20人の男たちが決勝戦に勝利してウィンブルドン・トロフィーを掲げた。

オーストラリアのジョン・ニューカムとロッド・レーバーは、両方の時代にウィンブルドン優勝を果たしたただ2人の選手だった。

もちろん、オール・イングランド・クラブで複数のタイトルを勝ち取るのは非常に難しい事である。過去43年間に、ウィンブルドンのセンターコートで3回以上タイトルを獲得したのは、わずか5人の選手だけである。

芝生のテニスをマスターするには特別な技能を必要とする

連続して使用されたグラスコートはいずれも、速く傷む。大会の始まりと終了時のウィンブルドン・センターコートを見くらべてほしい。

テニス界のグラスコート・シーズンは、およそ1カ月である。これはテニスファンにとって残念な事だ。なぜなら芝生は特別な技能を必要とする独特な天然のサーフェスで、素晴らしい才知あふれたテニスをしばしば生み出しているからである。

しかしグラスコートの維持には費用がかかり、そして濡れている時には非常に危険である。

かつては、テニスはもっぱら芝生でプレーされていた。USオープンは1974年まで、アメリカ人がクレーで短い仕事を試みた後に、グラスコートで開催されていた。

オーストラリアン・オープンも1988年までは、同じくグラスコートで開催された。その後に大会はメルボルンへと移動し、サーフェスは新しい合成サーフェスに変わった。
センターコートのビフォー・アフター……。

徐々に、大方のグラスコートは合成のサーフェスに取って代わられた。設置にはより費用が掛かる一方で、維持ははるかに容易で安上がりなのだ。

芝生でプレーするにはスピード、敏捷性と効果的なサーブを求められる。テクノロジーの進化がゲームを変えるまでは、芝生は長年サーブ&ボレー・プレーヤーの活躍の場だった。2002年のレイトン・ヒューイット以降は、ベースライン・テニスがセンターコートに君臨している。

しかしながら現在でさえ、プレーヤーは足首付近の低い、変化するバウンドを予期せねばならず、コートでの活動をしばしば難しいものにする。

このオープン時代におけるウィンブルドン・グラスコート・チャンピオンのリストでトップ10に入るためには、2つ以上のウィンブルドン・タイトルを獲得している事が条件だった。トップ10以下の等外賞のためには、1タイトルを獲得している事を条件とした。

リスト上の選手の中で、3人は現役である。ロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダル、そしてレイトン・ヒューイットは、間もなく2011年ウィンブルドンを迎える―――彼らの現在、そして将来の地位を向上させんとして。

カウントダウンの前に、タイトルを獲得せずに去った選手たちを顕彰する………。

7月5日:ロジャー・フェデラーが男子シングルス決勝戦後にトロフィーを掲げて祝う中、落胆した様子のアンディ・ロディック。
何人かの決然とした有能な選手は、一度ならず決勝戦へと進出したが、ファイナリストにしかなれなかった。これら複数回の決勝出場者は、功労を称えられるべきである。

アンディ・ロディック(合衆国):3回の決勝戦、0勝(2004〜2005、2009)

ロディックはウィンブルドン決勝戦に3回進出したが、いずれもロジャー・フェデラーに退けられた。2009年はロディックが最も肉薄した試合で、偉大なスイス人を5セットまで押し込んだ末に敗れたのだった。

ケン・ローズウォール(オーストラリア):2回の決勝戦、0勝(1970、1974)

ローズウォールは合計で4回のウィンブルドン決勝に進出したが、タイトルを獲得する事はできなかった。ローズウォールは芝生のオーストラリアン・オープンで4回、フレンチ・オープンで2回、そして芝生のUSオープンで2回優勝を遂げた。ウィンブルドンで1回も優勝できなかった事は、オーストラリアの偉人にとって大いなる失望であった。

イリー・ナスターゼ(ルーマニア):2回の決勝戦、0勝(1972、1976)

ルーマニアのナスターゼは、一度もウィンブルドンを征服する事ができなかった。彼は13年間チャレンジし、決勝に2回進出した。ナスターゼは1972年にフレンチ・オープンと芝生のUSオープンで優勝を果たした。

イワン・レンドル(チェコスロバキア):2回の決勝戦、0勝(1986〜1987)

イワン・レンドルはウィンブルドンでタイトルを勝ち取る事に献身したが、彼のゲームが芝生に適したものになる事はなかった。レンドルは14年間ウィンブルドンに出場し、2回の決勝進出を果たしたが、ボリス・ベッカーとパット・キャッシュに敗れた。レンドルは芝生のウィンブルドン以外、すべてのスラム大会で優勝を遂げた。

パトリック・ラフター(オーストラリア):2回の決勝戦、0勝(2000〜2001)

サーブ&ボレー・スタイルのパトリック・ラフターがウィンブルドンの芝生で優勝するのは自然な事に見えるが、2000〜2001年に2度の決勝進出を果たしたものの、勝利をつかみ取る事はできなかった。2000年にはピート・サンプラスに6-7、7-6、6-4、6-2で、2001年にはゴラン・イワニセビッチに6-3、3-6、6-3、2-6、9-7で敗れた。

等外賞19位: レイトン・ヒューイット(オーストラリア)

1勝、1回の決勝戦(2002)、オープン時代

オーストラリアのレイトン・ヒューイットは2002年にウィンブルドンで優勝を果たし、オーストラリアの偉大なチャンピオン達に加わった。

彼は日曜日の男子決勝戦でアルゼンチンのデビッド・ナルバンディアンに6-1、6-3、6-2で勝利した。

元世界ナンバー1の彼は、もう1つのウィンブルドン・タイトルを加えようと望んだが、これまでのところ一度もセンターコートの決勝戦へと進出できていない。
7月7日:レイトン・ヒューイットはウィンブルドン決勝戦でアルゼンチンのデビッド・ナルバンディアンに勝利し、トロフィーを掲げる。

1960〜1970年代にこのタイトルを勝ち取った彼の同国人、あるいは1987年にそのスタイルで優勝したパット・キャッシュとは異なり、ヒューイットはサーブ&ボレープレーヤーではない。

ヒューイットは、1992年のアガシ以来、ウィンブルドンで優勝した最初のベースライン・プレーヤーだった。

1996年7月7日:リチャード・クライチェクは、ウィンブルドン決勝戦でアメリカのマリバイ・ワシントンにストレートで勝利し、シングルス・トロフィーに口づけする。
等外賞18:リチャード・クライチェク(オランダ)

1勝、1回の決勝戦(1996)、オープン時代

オランダのリチャード・クライチェクは、1996年ウィンブルドン決勝戦でアメリカのマリバイ・ワシントンに6-3、6-4、6-3で勝利した。

クライチェクの真の名声は、準々決勝で世界ナンバー1のピート・サンプラスを破った事だった。

クライチェクは1993年以降のオール・イングランド・クラブでサンプラスを破った唯一の男で、ロジャー・フェデラーが2001年ウィンブルドンの4回戦でサンプラスを破るまで、唯一の男であり続けた。

残念ながら、クライチェクは1996年の見事なパフォーマンスを繰り返す事はできなかった。

それでもなお彼はこの優勝によって、ウィンブルドン・トロフィーを掲げる限られた男たちの1人であり続ける。

等外賞17:ミハエル・シュティッヒ(ドイツ)

1勝、1回の決勝戦(1991)、オープン時代

1991年、ミハエル・シュティッヒはウィンブルドン決勝戦で、自分より有名な同国人のボリス・ベッカーに6-4、7-6、6-4で勝利した。

シュティッヒは1994年USオープンと1996年フレンチ・オープンでも決勝戦に進出したが、スラム大会の決勝で勝利したのはこれが唯一だった。

シュティッヒは準決勝で当時の世界ナンバー1、ステファン・エドバーグを見事な番狂わせで破って勝ち上がり、決勝ではストレートセットでベッカーを一蹴したのだった。

シュティッヒが再び決勝戦に進出する事はなかったが、一度はそこに到達したのだ。それが何よりの事である。

1991年7月7日:ミハエル・シュティッヒはウィンブルドン決勝戦でボリス・ベッカーを破ってチャンピオンとなり、膝をついて腕を挙げ、勝利を祝う。
1987年7月:パット・キャッシュはウィンブルドン決勝戦でイワン・レンドルを破った後、観客席を登ってファミリーボックスへ向かう。
等外賞16:パット・キャッシュ(オーストラリア)

1勝、1回の決勝戦(1987年)、オープン時代

1987年、オーストラリアのパット・キャッシュは、ウィンブルドンで唯一のメジャータイトルを勝ち取る事ができた。彼はそれを当時の世界ナンバー1、イワン・レンドルを7-6、6-2、7-5のストレートセットで破って達成した。

それは偉大なレンドルが2回のウィンブルドン決勝戦を戦ったうちの1回だった。チェコのレンドルは、センターコートで自己の才能を完全に発揮する事ができないままで終わった。

一方キャッシュは、驚くべき勝利へと向かう途上で、大会全体を通して1セットしか失わなかった。

彼はスタンドをよじ登り、ファミリーボックスの家族を抱きしめて勝利を祝い、役員たちを仰天させた。

キャッシュは優勝後にその行為をした最初の選手で、今日までその慣例は続いている。

等外賞15:アーサー・アッシュ(合衆国)

1勝、1回の決勝戦(1975年)、オープン時代 + 2

1975年ウィンブルドン決勝戦で、合衆国の偉大なアーサー・アッシュは6-1、6-1、5-7、6-4で同国のジミー・コナーズに勝利した。

それはアッシュがオール・イングランド・クラブの男子決勝戦に進出した唯一の時だった。

コナーズは優勝候補として大会に臨んだが、決勝戦では期待に及ばなかった。

アッシュはグラスコートで開催された1968年USオープン、同じくグラスコートの1970年オーストラリアン・オープンでも優勝を遂げた。

アッシュは全部で3つのグランドスラム大会に優勝した―――すべて芝生でだった。

1975年6月:アーサー・アッシュがセンターコートでバックハンドを打つ。
1973年7月:ヤン・コデスがウィンブルドンでサーブを放つ。コデスは決勝戦でメトレヴェリをストレートセットで破り、優勝を遂げた。
等外賞14:ヤン・コデス(チェコスロバキア)

1勝、1回の決勝戦(1973)、オープン時代

1973年、ヤン・コデスはソ連のアレックス・メトレヴェリを6-1、9-8、6-3で破り、ウィンブルドン・タイトルを獲得した。

その年ウィンブルドンには、労働争議のためにトップの16のうち13人が出場しなかった事は指摘されるべきであろう。

コデスは全キャリアで3回のグランドスラムに優勝した。ウィンブルドン・タイトルに加えて、1970〜1971年の2回、フレンチ・オープンでも優勝を果たしている。

彼の基本的な強みはクレーで、芝生ではなかった。彼が再びウィンブルドン決勝戦に進出する事はなかった。

等外賞12:アンドレ・アガシ(合衆国)(タイ)

1勝、2回の決勝戦(1992、1999)、オープン時代

1992年、ウィンブルドンの芝生を拒んできたかに見えた後、アメリカのアンドレ・アガシはテニス界に、ベースラインからのプレーでも優勝できる事を示した。

彼はウィンブルドンのセンターコートでクロアチアのゴラン・イワニセビッチを6-7、6-4、6-4、1-6、6-4で退けて、それを為した。

アガシはキャリア早期、オール・イングランド・クラブの「服装規定」を理由に、1988〜1990年のウィンブルドンには出場しなかった。当時のアガシは、反抗的なスタイルで知られていた。コートではすべて白のウェアを身につけねばならないとの規定を認めなかったのだ。

初めて優勝した後は、アガシがウィンブルドンの慣例について不平を唱える事はなかった。

7年後の1999年、初めてフレンチ・オープンに優勝した後に、アガシはウィンブルドン決勝戦で同国のピート・サンプラスと対戦し、ストレートセットで敗れた。

アガシが再びウィンブルドン決勝戦に進出する事はなかった。

1992年7月5日:アンドレ・アガシはウィンブルドンに優勝し、トロフィーを掲げる。アガシはウィンブルドンで初のグランドスラム・タイトルを獲得した。その途上でベッカーとマッケンローを、そして決勝戦ではイワニセビッチを下した。
1980年:ウィンブルドンでプレーするスタン・スミス。
等外賞12:スタン・スミス(合衆国)(タイ)

1勝、2回の決勝戦(1971〜1972)、オープン時代 + 1

1972年、アメリカのスタン・スミスはルーマニアのイリー・ナスターゼに4-6、6-3、6-3、4-6、7-5で5セットの接戦の末に勝利し、ついに唯一のウィンブルドン・タイトルを獲得した。

それは甘美な勝利だった。前年の決勝戦ではジョン・ニューカムに5セットで敗れていたのだ。

スミスは同じく芝生で開催された1971年USオープンでも優勝した。彼のグランドスラム優勝は両方とも、グラスコートでのものだった。

スミスは主としてダブルスのプレーで知られていた。1972年にはシングルスでも頻繁に勝利し、ナンバー 1の座に就いた。

等外賞11:ゴラン・イワニセビッチ(クロアチア)

1勝、4回の決勝戦(1992、1994、1998、2001)、オープン時代

2001年、ビッグサーバーのクロアチア人は4回目のチャレンジで、ついにウィンブルドン・タイトルを勝ち取った。彼の優勝はオーストラリアのパトリック・ラフターに対して6-3、3-6、6-3、2-6、9-7というスリル満点の5セットの決勝戦でもたらされた。

イワニセビッチはサーブに重きを置いたサーブ&ボレー・ゲームを持っていた。彼は1992年にもウィンブルドン決勝戦に進出したが、勝ち目がうすいと見られていたアンドレ・アガシに、その日は卓越したベースライン・プレーで敗れた。

1994年、イワニセビッチは世界2位に達したが、その年のウィンブルドン決勝戦ではディフェンディング・チャンピオンのピート・サンプラスに打ち勝つ事ができなかった。彼はストレートセットでアメリカ人に敗れたのだった。

何もクロアチア人の思い通りにいくようには見えなかった。特に決勝戦でピート・サンプラスに対しては―――1998年には再びサンプラスに敗れた 。しかしながらこの時は、敗れる前にサンプラスを5セットまで追いつめていた。

それは2001年のタイトルを、いっそう甘美なものにした―――過去に3回試み、そして失敗していたのだ。2001年にそのトロフィーを掲げる事は、何にも替えがたい価値あるものだった。

2001年7月9日:クロアチアのゴラン・イワニセビッチは決勝でオーストラリアのパトリック・ラフターを破り、ウィンブルドン・トロフィーを掲げる。ワイルドカードで出場したイワニセビッチは、予想外の優勝を果たした。
年代不明:ロッド・レーバーがウィンブルドンで優勝トロフィーを高く掲げる。
10位.ロッド・レーバー(オーストラリア)

2勝、2回の決勝戦(1968〜1969)、オープン時代 + 7

ロッド・レーバーはアマチュア時代とオープン時代の双方でプレーした。彼は1961〜1962年、そして男子テニスの近代的な時代が始まった1968〜1969年の、合計で4回ウィンブルドン・タイトルを獲得した。

レーバーは全部で11のスラム・タイトルのうち、9つを芝生で勝ち取った。オール・イングランド・クラブでの4タイトルの他に、オーストラリアン・オープンで3回、USオープンで2回の優勝を遂げたが、どちらも芝生で開催されていた。

レーバーはキャリアを通じて11回のウィンブルドンに出場し、勝率は87.72%だった。このリストでは、1968年からの成績に言及する。

1968年:同国のトニー・ローチと決勝で対戦し、6-3、6-2、6-4でオープン時代初のウィンブルドン・タイトルを獲得した。この勝利で、レーバーは世界ナンバー1選手となった。

試合は1時間しかかからなかった。毎ポイント後にタオルを使わないと、いかに速く試合を進行できるかは驚くばかりである。レーバーが獲得した賞金は4,800ドルだった。現在のプレーヤーには、自身と取りまきのディナーと映画で同じ額を使う者もいる。40年でスポーツがどれほど遠くへと到達してしまった事か。

1969年:レーバーはウィンブルドンで優勝しただけでなく、他の3つのスラム大会でも優勝を果たした。彼は2度目の年間グランドスラム(同じ暦年に4つすべてのメジャー大会で優勝)を成し遂げたのだった。レーバーはプロ化する以前の1962年に、最初の年間グランドスラムを果たしていた。

ウィンブルドン決勝戦では、もう1人のオーストラリア人ジョン・ニューカムと対戦した。ニューカムは彼を追いつめたが、偉大なレーバーはそれを退け、最終的に6-4、5-7、6-4、6-4で勝利した。

レーバーはフットワークとビッグポイントの勝ち取り方を熟知していたのだ。

9位.ステファン・エドバーグ(スウェーデン)

2勝、3回の決勝戦(1988〜1990)、オープン時代 + 2

サーブ&ボレーの非凡な芸術家、ステファン・エドバーグは14回のウィンブルドンに出場し、決勝戦には3回進出して、1988年と1990年の2回タイトルを獲得した。オール・イングランド・クラブにおける彼の勝率80.33%だった。

ウィンブルドンの他に、エドバーグは1985年と1987年にオーストラリアン・オープンでも2つのグラスコート・タイトルを獲得した。

1988年:ドイツのボリス・ベッカーは3回目のウィンブルドン・タイトルを狙っており、一方スウェーデンのステファン・エドバーグは初のタイトルを勝ち取ろうとしていた。
1990年6〜7月:ステファン・エドバーグはウィンブルドンの芝生で、腕を伸ばしてフォアハンド・リターンをする。

ベッカーは1985年以降、センターコートで試合に負けた事がなかった。彼の庭でドイツ人を破る事は、エドバーグにとって至難のわざに思われた。

決勝戦は雨のため月曜日に延期された。そしてエドバーグが4-6、7-6、6-4、6-2で勝利を収めた時、ドイツ人にはいつもの元気がないように見えた。

ウィンブルドン・タイトルを勝ち取るという少年時代からの夢を果たし、エドバーグは後ろに倒れ込んだ。

1990年:1989年の決勝でベッカーに敗れた後、エドバーグは1990年に6-2、6-2、3-6、3-6、6-2で、ライバルとの三番勝負に勝利した。

非常に厳しい試合である事が窺えた。特にスウェーデン人が最終の第5セットで1ブレークダウンとなった後には。

2人はキャリアで24回対戦したが、ベッカーが15勝9敗で勝ち越している。

その日は、エドバーグは落ち着きと精神的優位を保ち、最終セットで挽回して試合に勝利する答えを持っていたのだった。

1970年代:ジョン・ニューカム(左)とオーストラリアのトニー・ローチがダブルスの試合中に戦術を話し合う。
8位.ジョン・ニューカム(オーストラリア)

2勝、3回の決勝戦(1969〜1971)、オープン時代 + 3

ジョン・ニューカムのキャリアは2つの時代にまたがっていた。彼はビッグサーブで知られていた。ジャック・クレーマーは自叙伝で、ニューカムは男子ゲームでベストのセカンドサーブを持っていると評した。

ニューカムは14回のウィンブルドンに出場し、勝率は78.85%だった。彼は合計で決勝戦に4回進出し、3回の優勝を果たした。しかしこのリストとしては、オープン時代に獲得したタイトルをカウントする―――したがって3回の決勝戦で2勝となる。

ニューカムは芝生で開催されたメジャー大会で6回の優勝を果たした。3つのウィンブルドン・タイトルの他に、1973年と1975年の2回、芝生のオーストラリアン・オープンで優勝した。同じく1973年には、芝生のUSオープンで優勝した。

1970年:1969年にはロッド・レーバーに敗れて準優勝となったが、1970年にオーストラリアのジョン・ニューカムは、もう1人のオーストラリア人ケン・ローズウォールと対戦し、5-7、6-3、6-2、3-6、6-1でウィンブルドン・タイトルを獲得した。

タイトルを勝ち取った事で、ニューカムは35歳のローズウォールがウィンブルドン・チャンピオンになるチャンスを与えなかった。それはローズウォールにとって3回目のチャレンジだったのだ。

それが最後のチャンスではなかったが、結局ローズウォールはオール・イングランド・クラブの頂点に立つ事はできなかった。

1971年:翌年、ニューカムは再び決勝戦で5セットマッチを演じ、アメリカのスタン・スミスに6-3、5-7、2-6、6-4、6-4で勝利した。

合衆国の望みはスミスがタイトルを獲得する事にくぎづけだったが、彼は最終セットでニューカムのサーブ&ボレー・ゲームに絶え間ないプレッシャーをかけられ、徐々に勢いを失っていったのだった。1963年以降、オール・イングランド・クラブでタイトルを勝ち取ったアメリカ人はいなかった。

合衆国ファンはもう1年待つ事となったのだ。

7位.ラファエル・ナダル(スペイン)

2勝、4回の決勝戦(2006〜2008、2010)、オープン時代

ラファエル・ナダルは6回のウィンブルドンに出場し、決勝戦には4回進出して2回の優勝を遂げた。オール・イングランド・クラブにおける現在までの勝率は87.87%である。

2008年:2006年と2007年にン決勝戦でロジャー・フェデラーに敗れた後、2008年にラファエル・ナダルはクレー以外で初のスラム優勝を遂げた。ナダルは2008年ウィンブルドン決勝戦に勝利し、フェデラーの6年連続優勝を止めた。

この決勝戦は、ウィンブルドンにおける最高のグランドスラム決勝戦と多くに評価されている。多分ビョルン・ボルグとジョン・マッケンローの1980年決勝戦に匹敵するだろう。2008年ウィンブルドン決勝戦は、いかなる開催場所においても最高のメジャー決勝戦とも見なされているのだ。

雨で試合が中断し、明るさが失われていく中でナダルは最後まで戦い続け、6-4、6-4、6-7、6-7、9-7の勝利をつかみ取った。
2010年7月4日:ウィンブルドン決勝戦でラファエル・ナダルはチェコ共和国のトマス・ベルディヒと対戦する。

ナダルにとって、それは歴史的な、思い出深い勝利だった。フェデラーにとっては失望、そして記録が終わる敗戦だった。

2010年:怪我による欠場のため、ナダルは2008年の優勝を防衛する事はできなかった。しかし2010年には戻ってきて、決勝戦でチェコのトマス・ベルディヒを破って2つ目のウィンブルドン・タイトルを獲得した。

それはロジャー・フェデラーが2002年以降、ウィンブルドン決勝に登場しなかった初めての年でもあった。ベルディヒが準々決勝でフェデラーを退けていたのだ。

次にベルディヒは準決勝で第3シードのノバク・ジョコビッチを破った。一方ナダルは準決勝でスコットランド出身のアンディ・マレーを一蹴した。

決勝戦ではナダルが6-3、7-5、6-4でベルディヒを圧倒した。ナダルは今年、ディフェンディング・チャンピオンとしてウィンブルドンに臨む。

1982年7月:マッケンローを破って2回目のウィンブルドン優勝を果たし、ジミー・コナーズはジャンプして喜びを露わにする。
6位.ジミー・コナーズ(合衆国)

2勝、6回の決勝戦(1974〜1975、1977〜1978、1982、1984)、オープン時代 + 2

ジミー・コナーズはウィンブルドンに21回出場し、決勝戦には6回進出して2度の優勝を遂げた。勝率は82.35%だった。

またコナーズは、芝生で他に2回のメジャー優勝を果たした。1974年のオーストラリアン・オープンとUSオープンで、どちらもグラスコートで開催されていた。

1974年:アメリカのジミー・コナーズは初のウィンブルドン決勝戦に進出し、オーストラリアのケン・ローズウォールに6-1、6-1、6-4で勝利した。

第3シードだったコナーズは、準々決勝では非常に厳しい5セットマッチの末にヤン・コデスを破り、準決勝では同国のディック・ストックトンを逆転勝ちで下した。

小鬼のような21歳のアメリカ人に対して、40歳になろうとするローズウォールは、決勝戦ではほとんど足が動かなかったのだった。

1982年:ジョン・マッケンローとジミー・コナーズの間には、暖かく穏やかな感情は全くなかった―――ネット際で抱き合う事も。

この2人の男がコート上で出会う時は、コナーズが述べるように「生死を懸けた」闘いという身構えだった。1982年の5セットにわたるウィンブルドン決勝戦も例外ではなかった。ただ今回は、勝利して空中に跳び上がったのはコナーズだった。

コナーズは3-6、6-3、6-7、7-6、6-4でディフェンディング・チャンピオンを打ち負かしたのだった。 2人は1984年にもう一度、決勝戦で相まみえる事となった―――両者にとって最後の決勝戦だった。

5位.ボリス・ベッカー(ドイツ)

3勝、7回の決勝戦(1985〜1986、1988〜1991、1995)、オープン時代

ボリス・ベッカーは15回のウィンブルドンに出場し、7回の決勝進出で3回の優勝を果たした。勝率は85.54%。

1985年:ベッカーはノーシード選手として、彗星のごとくウィンブルドンに現われた。弱冠17歳のベッカーは、ウィンブルドン最年少チャンピオン、そして誰もが切望するトロフィーを勝ち取った初のノーシード選手となったのだ。

対戦相手の南アフリカ人ケビン・カレンは、決勝戦への途上でジミー・コナーズとディフェンディング・チャンピオンのジョン・マッケンローを倒していた。

しかし彼はベッカーに対して無力だった。ベッカーは6-3、6-7、7-6、6-4の3時間18分にわたる決勝戦で圧勝した。
1985年7月5日:ウィンブルドン準決勝で、ボリス・ベッカーがアンダース・ヤリードに対してダイビング・ボレーを放つ。

1986年:翌年、18歳のベッカーは決勝戦でイワン・レンドルを下し、タイトルを防衛した。

ウィンブルドン・タイトルは、決して偉大なチェコ人の手には入らなかった。これはレンドルにとって初の決勝戦で、芝生は情け深くなかった。

しかしベッカーには自宅のようで、レンドルに6-4、6-3、7-5で勝利して、オール・イングランド・クラブで2年連続のタイトルを獲得したのだった。

1989年:ベッカーは最も強力なライバルの1人、スウェーデンのステファン・エドバーグに6-0、7-6、6-4で打ち勝ち、タイトルを獲得した。

エドバーグは1988年にベッカーを破っていた。そしてリベンジはドイツ人にとって快かった。彼はウィンブルドンを自宅だと感じていたのだ。その勝利は、ベッカーに3つ目のウィンブルドン・タイトルをもたらした。

女子決勝では、同じドイツのシュテフィ・グラフが優勝した。ドイツ国民は天にも昇る心地だった。

1981年:ジョン・マッケンローがウィンブルドンで競う。マッケンローは男子シングルス・タイトルを獲得した。
4位.ジョン・マッケンロー(合衆国)

3勝、5回の決勝戦(1980〜1984)、オープン時代

ジョン・マッケンローは1977〜1992年に14回ウィンブルドンに出場し、5回の決勝戦に進出して3つのタイトルを獲得した。勝率は84.29%。

1981年:マッケンローは1980年に冷静なスウェーデン人、ビョルン・ボルグをあと少しまで追いつめたが、1981年には4-6、7-6、7-6、6-4の緊迫した4セットに勝利し、偉業を達成した。

それはオール・イングランド・クラブにおける彼の初優勝であり、ボルグがセンターコートに登場した最後の時でもあった。

その時は誰にも分からなかったが、それは1つの時代の終わりだったのだ。

マッケンローの進化したプレースタイルは、ウィンブルドンのグラスコートを支配したのだった。テクノロジーとロジャー・フェデラーが、次の時代の到来を告げるまでは。

1983年:マッケンローは1982年の決勝戦で、もう1人の長年のライバル、同じアメリカのジミー・コナーズに5セットで敗れていた。

しかし1983年には、マッケンローはニュージーランドのクリス・ルイスに6-2、6-2、6-2で勝利し、2回目のウィンブルドン優勝を遂げた。

第1シードのコナーズは、4回戦で南アフリカのビッグサーバー、ケビン・カレンに番狂わせの敗戦を喫していた。一方マッケンローは準決勝で、第3シードのイワン・レンドルをストレートセットで一蹴した。

1984年:マッケンローはコナーズに対する1982年の敗戦をリベンジする事ができた。1984年ウィンブルドン決勝戦では、彼に6-1、6-2、6-2のストレートセットで勝利したのだ。

マッケンローはそれ以後、オール・イングランド・クラブで再び決勝戦に進出する事はなかった。1985年、彼はセンターコートの次のスーパースター、ドイツのボリス・ベッカーにバトンを渡したのだった。

1980年7月:ビョルン・ボルグはジョン・マッケンローを下し、ウィンブルドン5年連続優勝を祝う。
3位.ビョルン・ボルグ(スウェーデン)

5勝、6回の決勝戦、(1976〜1981)、オープン時代

ビョルン・ボルグは9回ウィンブルドンに出場し、5回の優勝を果たした。オール・イングランド・クラブにおける勝率は92.73%だった。

1976年:スウェーデンのビョルン・ボルグは変わり者で知られるイリー・ナスターゼを下して、支配的な時代をスタートさせた。試合に臨むに際し、ナスターゼは圧倒的な優勝候補だった。このルーマニア人は1972年にも決勝戦に進出しており、多くの人々が彼の優勝を予想していたのだ。

しかしボルグは決してナスターゼを試合に入り込ませなかった。最終セットこそ非常に伯仲し、ルーマニア人は生き残りを懸けて奮闘はしたものの。ボルグは6-4、6-2、9-7で勝利した。

1977年:翌年のジミー・コナーズに対するボルグの勝利は、それほど容易なものではなかった。試合は最終セットまでもつれ、3時間14分のマラソンマッチの末に、ボルグは3-6、6-2、6-1、5-7、6-4でタイトルを再び獲得したのだった。 その長く厳しい試合の後には、ボルグはアメリカ人からナンバー1の座を奪取する事に成功した。

その時点では、連続してウィンブルドン・タイトルを獲得していたのはルー・ホード、ロッド・レーバー、ロイ・エマーソン、ジョン・ニューカムの4人だけだった。

1978年:ボルグは決勝戦で再びアメリカのジミー・コナーズを破り、3つ目のウィンブルドン・タイトルを勝ち取った。しかし今回は、2時間足らずのストレートセットでその偉業を達成したのだ。決勝のスコアは6-2、6-2、6-3だった。

それはボルグにとって3年連続のウィンブルドン・タイトルで、英国のフレッド・ペリー以来、オール・イングランド・クラブで3つの男子シングルス・タイトルを獲得した初めての男となった。

1979年:ボルグは決勝戦でもう1人のアメリカ人を下した。しかし今回の相手はビッグ・サーバーのロスコー・タナーで、彼のプレーにいささか苦しめられた。ボルグは5セットの末に6-7、6-1、3-6、6-2、6-4で勝利をつかみ取った。

その試合は記録を樹立するものだった。近代において、4連続タイトルは言うまでもなく、ウィンブルドンで4タイトルを獲得した男子はそれまでいなかったからだ。彼の地位はきわめて高いものになっていった。

1980年:若いアメリカ人のジョン・マッケンローと支配者たるボルグの対戦については、非常に多くの記事が書かれてきた。ボルグが恐らくテニス史で最も刺激的な第4セット・タイブレークを落とした後に、5セットでこの試合に勝利した事は、特筆に値する。

1-6、7-5、6-3、6-7、8-6の5セットで勝利した事により、ボルグは5年連続のウィンブルドン優勝を遂げた。これは2007年にロジャー・フェデラーが成し遂げるまで、並ぶ者のない偉業だった。

2位.ロジャー・フェデラー(スイス)

6勝、7回の決勝戦(2003〜2009)、オープン時代

ロジャー・フェデラーはこれまで12回のウィンブルドンに出場し、決勝戦に7回進出して6回の優勝を果たした。オール・イングランド・クラブにおける今日までの勝率は90.32%である。

2003年:7月6日、ロジャー・フェデラーは初のグランドスラム・トロフィーをオール・イングランド・クラブで獲得した。それによって、才能あるスイス人はいつメジャー優勝を果たすのか、というマスコミからの質問攻めに終わりをもたらした。

その日の対戦相手はオーストラリアのマーク・フィリポウシスで、フェデラーは7-6、6-2、7-6で完勝した。

フェデラーの背から重荷がついに取り除かれ、この時点以降スイス人を止めるものはなかった。

2004年:アメリカのアンディ・ロディックはウィンブルドン決勝戦に進出し、第1シードのロジャー・フェデラーと雨に直面した。ロディックは第1セットを先取し、第3セットでも1ブレークアップしたが、雨が再び降ってきてセンターコートの活動を中断させた。プレーが再開すると、 フェデラーは立て直し、ブレークバックして続くタイブレークも勝ち取った。さらにスイス人は第4セットを6-4で取り、試合に勝利したのだった。
2007年7月8日:ロジャー・フェデラーがスペインのラファエル・ナダルとの決勝戦でガッツポーズをする。

2005年:アンディ・ロディックは再び決勝戦でフェデラーの犠牲者となり、フェデラーが6-2、7-6、6-4で優勝を果たした。スイス人は1時間41分でロディックを退けた。それはオール・イングランド・クラブにおけるフェデラーの3年連続優勝で、スイス人の防具には綻び1つ見えなかった。フェデラーはゆるぎない支配的立場を確立し、すぐにはその安定した地位を手放しそうにもなかった。

2006年:世界ナンバー2のラファエル・ナダルは2006年に初のウィンブルドン決勝進出を果たし、このマヨルカ出身の男はクレーでしか勝つ事ができないと考えていた多くの者を驚かせた。ナダルは決勝戦へ勝ち進んでフェデラーと向かい合う事で、彼らの間違いを証明しようとした。

ナダルは芝生でも攻撃的なゲームをして第3セットを勝ち取った。しかしフェデラーは立ち直り、最近5試合で彼を破っていたナダルから1勝を挙げたのだった。その勝利はフェデラーに、連続4年目のウィンブルドン・タイトルをもたらした。

2007年:最高のライバル、ラファエル・ナダルを破って連続5年目のウィンブルドン優勝を果たし、ビョルン・ボルグと並んだ事は、フェデラーにとって何よりの意味があった。試合は第5セットまでもつれたが、フェデラーは2つのタイブレークを勝ち取り、最終セットは6-2で締めくくった。試合は3時間15分を要した。フェデラーは7-6、4-6、7-6、2-6、6-2で勝利した。ボルグは決勝戦を観戦し、フェデラーがセンターコートで優勝してスウェーデン人の偉業に並んだ事を祝福した。

2009年:2008年、ついにナダルに敗れた後、フェデラーは再びウィンブルドン決勝戦(7年連続のウィンブルドン決勝戦)に戻ってきて、長年のライバル、アンディ・ロディックと相対した。勝利すればフェデラーにとって6回目のウィンブルドン優勝で、ボルグより1つ上回り、偉大なピート・サンプラスにあと1つと迫るものだった。今回に先立って、フェデラーは2004年と2005年にロディックを破っていた。

しかしロディックは、2005年のように安易な相手ではなかった。2009年の決勝戦は最終セットまでもつれ、ロディックがサービスをブレークされたのは試合の最終ゲームだけだった。フェデラーは5-7、7-6、7-6、3-6、16-14で勝利を掴んだのだった。

フェデラーは15回目のスラム優勝を遂げてサンプラスの記録を破り、6回目のウィンブルドン・タイトルとナンバー1の座を手にした。

1位.ピート・サンプラス(合衆国)

7勝、7回の決勝戦(1993〜1995、1997〜2000)、オープン時代

1999年7月4日:ピート・サンプラスはウィンブルドン決勝戦で同国のアンドレ・アガシを下し、勝利を祝う。
ピート・サンプラスは14回のウィンブルドンに出場し、決勝戦には7回進出してすべて勝利した。オール・イングランド・クラブにおける彼の勝率は90.0%である。

1993年:21歳のピート・サンプラスは3時間近い試合の末、第2シードのジム・クーリエを7-6、7-6、3-6、6-3で破り、初のウィンブルドン優勝を遂げた。サンプラスはいつものように、多数の返球不能のサーブ、22本のエース、そして専売特許の堅実なグラウンド・ストロークを放って勝利した。その日、クーリエにとってサンプラスはあまりにも良すぎたのだった。

1994年:間違いなく「OK 牧場の決闘」にも似た試合で、サンプラスはゴラン・イワニセビッチ、アメリカ人よりさらに有名なサーブを持つクロアチア人を屈服させた。サンプラスは7-6、7-6、6-0のストレートセットで勝利し、1993年のタイトルを防衛した。

5回以上のショットが応酬するポイントはほとんどなかった。始めから終わりまで、サーブによる決闘だった。決勝戦の分析では、ネットにおいても、グラウンドストロークでも、サンプラスの方が良い結果を挙げていたのだった。

1995年:アメリカ人は強力なドイツ人、かつてセンターコートを所有したボリス・ベッカーに対して、3年連続となるウィンブルドン優勝を果たそうとしていた。第1セットはタイブレークで決着がついたが、ドイツ人はサンプラスのサーブで一度もブレークポイントを握る事ができなかった。サンプラスは6-7、6-2、6-4、6-2で勝利し、15年ぶりに3年連続優勝を遂げた初のディフェンディング・チャンピオンとなったのだった。

1997年:サンプラスとフランスのセドリック・ピオリーンは、共に1997年のウィンブルドン決勝戦の舞台に立ったが、実際に試合を楽しんだのは、ただ1人のプレーヤーだった。ピオリーンが本当の意味で試合のファクターとなる事は決してなく、サンプラスは完璧なサーブと堂々たるボレーで彼を一蹴し、6-4、6-2、6-4で圧勝した。サンプラスは10回目のグランドスラム優勝を遂げ、12回のグランドスラム最多優勝記録を持つロイ・エマーソンに、充分に手の届くところまで達したのだった。

1998年:歴史に名高いオール・イングランド・クラブのセンターコートで、サンプラスが6年間で5回目となるタイトルを勝ち取った時、そのアメリカ人と死闘を演じたゴラン・イワニセビッチに同情せずにはいられなかった。クロアチア人は本当に激しく競い合ったのだが、サンプラスが6-7、7-6、6-4、3-6、6-2で勝利したのだった。それはイワニセビッチにとって、タイトルへの3度目のチャレンジだった。サンプラスは5つ目のウィンブルドン・タイトルで、ボルグと並んだ。

1999年:アメリカ人が誇りとする独立記念日の7月4日に、ピート・サンプラスはウィンブルドン優勝を懸けてアンドレ・アガシの挑戦を受けた。しかしこの日、アガシへの花火はなかった。ピストル・ピートは彼を6-3、6-4、7-5で打ちのめしたのだ。

いま一度、サンプラスはサーブ、ネットプレー、そして正確なグラウンド・ストロークで圧倒したのだった。サンプラスは6つのウィンブルドン・タイトルを獲得し、5つのビョルン・ボルグを凌駕した。サンプラスは6回のウィンブルドン決勝戦で6回の優勝を遂げるという偉業を遂げた。

2000年:サンプラスはオーストラリアのパトリック・ラフターを下して、13回目のグランドスラム優勝を果たし、7つ目のウィンブルドン・タイトルを獲得した。27本のエースを放ち、13本のパッシング・ショットでネットへと突進するラフターを抜き去り、6-7、7-6、6-4、6-2の4セットで決勝戦を制したのだった。

初めて両親が決勝戦に参列し、サンプラスはスタンドを登って彼らを抱きしめた。それはサンプラスが進出した最後の決勝戦、そして大会最終日の日曜日に口づけする最後のウィンブルドン・トロフィーとなった。


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