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2011年2月9日
サンプラスが賢明な考えを展開する
文:Joel Drucker

ピート・サンプラスはガエル・モンフィスとのエキシビションで、今でもいささかのゲームを持っていると証明した。

予が王であるなら、権力はいずこにあるのか? 戦争を宣言できるのか? 組閣? 税の徴収? いや! にもかかわらず、予はあらゆる権威の座にある。なぜなら国民は予が語る時、予が彼らを代弁すると考えるからだ。
―――国王ジョージ6世のスピーチ

王である事は素晴らしい。もちろん、ピート・サンプラスはあなた方に語るだろう。彼は共和国をタイトルだけでなく、功績に基づいて統治したと。各戦闘員が休む間なくプレーしなければならない戦場での戦いに従事したと。そして大方のアスリートは活躍の舞台から消えていくが、テニス界では元国王でさえ城から出て、少なくとも危険な状況にわずかばかり似た何かの場に現れる。

サンプラスがプライベート・ジェット機で、ロサンジェルスの自宅から北へ1時間のサンノゼまで飛んだのは、月曜日の午後だった。ATPツアー・SAP オープンの開幕イベントとして、サンプラスは第12位のガエル・モンフィスとエキシビション・マッチで対戦したのだ。

コートから離れると、6フィート1インチのサンプラスは小柄に見える。わずかに屈められた肩は、鷲のかぎ爪より遙かに多くを包含し、それを緩やかなコイルのように解くと、サンプラスは王者の風格でコートの向こう側に伸ばし、多くの対戦相手をかぎ爪にかけて死に向かわせた。試合に先だって、14回のスラム優勝者は HPパビリオンへとエスコートされ、著名人にふさわしい儀礼的な仕事のたぐいをこなした。すなわちSAP オープン大会部長ビル・ラップとの友好的な顔合わせ、1〜2のスポンサーとの談笑などである。

それから、10代のビル・クリントンがジョン・ケネディ大統領に会ったのと同じくらい意義深い、初めての出会いが訪れた。20歳のカナダ人、ミロス・ラオニックはオーストラリアン・オープンでベスト16まで進出し、テニス界の注目を集めていた。彼のひょろっとした体形、流れるようなゲームと控え目な物腰は、サンプラスとの比較に値する。ラオニックは語った。「サンプラスはすべての面で僕のアイドルだった。彼の業績、彼の態度、信じ難いほど素晴らしかった」そして、ケネディが初めて連邦議会選挙に当選した時、クリントンは生後3カ月にすぎなかったが、サンプラスが1990年USオープンで初のスラム優勝を果たした時、 ラオニックは生まれてもいなかった。

かつての王と将来のキング候補が、HP パビリオンのプレジデンツ・クラブで邂逅を果たすとは、何とふさわしい事か。お膳立てをしたのは元プロでサンプラスの友人、ジャスティン・ギメルストブだった。彼は週に1度の「ATP ワールド・ツアーの内側」という番組を担当している。ギメルストブは場を設定して、ラオニックとサンプラスを引き合わせた。

「ピストル」とギメルストブは呼びかけた。サンプラスの最愛のコーチ、故ティム・ガリクソンにそのあだ名(あだ名自体は、バスケット界の大スター「ピストル・ピート」マラビッチの愛称)をつけられた、栄光の日々を思い起こさせるものだった。「この男は君と同じくらい柔軟な腕を持っているんだよ」

確かにそれは王者の興味をそそった。彼はまだラオニックのプレーを見た事がないと認めたが、6フィート5インチの青年を見上げ、成功するためには「完全なパッケージ」が必要で、良いプレーをしていない時にも勝つ事が肝要なのだと啓発した。ラオニックは聖堂を見つめる修道士のように傾聴した。

当然だった。この時代、テニスの神秘的な卓越の錬金術に関して、サンプラスの見識を聞く期待の念は、彼がラケットで行う事以上のものなのだ。もちろん、エキシビションにも見所があった。ここにサンプラスがいた。この地球が創り上げた最も精緻なミサイルと同じくらい洗練されたゲームを持つ男がいて、流れるように滑らかなサービス・モーション、力強いボレー、カリフォルニア仕様に仕上げられたグラウンド・ストロークを披露していた。ネットの向こう側にはモンフィス、ラケットを担ぐハーレムの世界旅行家が立っていた。彼のゲームは、フランス人のコートカバー能力と同じくらい素速く「才能あふれる」から「人を当惑させる」ものに変わりうるのだ。

なるほど、サンプラスを見るのは、むしろ飾らない1950年代に競い合いたかったとかつて言った男が、黒いショートパンツとマスタードより明るい黄色のシャツを身につけているのを見るのは、少しばかり困惑するものだった。ウィルソン・ラケットで全キャリアをプレーしたサンプラスが、過去6カ月間、はるかに当世風のバボラ・フレームを使い始めていたと気づくのも、同じく興味深かった。その後、サンプラスは自分が頑固だった、現役の間に大きくて強力なフレームへ移行していたら、恐らく自分のゲームを強めただろう、ローラン・ギャロスでは最も顕著に、と認めた。

アマチュアのロックバンドが感傷的に歌う流行歌手(ビング・クロスビーが代表的)を破った事―――モンフィスが7-6、6-4で勝利した―――は、大して重要ではなかった。これは楽しいポイントと低い熾烈さが特徴のエキシビションだったのだ。1つの長いラリーの後、サンプラスは観客席近くの椅子に座った。「僕は40近いんだよ」と彼は叫んだ。その後には、モンフィスが腹筋運動を軽々としてみせ、若さを証明した。第2セットでサンプラスがモンフィスのサーブをブレークすると、モンフィスはサンプラスに、2人一緒の写真を撮らせてほしいと頼み込み、持参した iPhone でスナップ写真を撮った。

すべては試合後にサンプラスがコメントし、現代テニスについて考えを述べる序章だった。「スラム大会で優勝する事は難しい」とサンプラスは語った。「これらのスラム大会で優勝するためには、特別の存在であらねばならない。ジョコビッチは今や、これら特別なプレーヤーの1人だ。彼は素晴らしい動きの持ち主だ。(ラファエル・ナダルと並んで)守りから攻撃へと転じるのが誰よりも巧みだ。ゲームは変化してきた。彼らは大いなるビッグサーバーであり、ビッグヒッターだ」

ゲームが発展してきた道筋について思いを巡らせ、サンプラスは語った。「今の子供たちはボールをひっぱたいている。それは問題ない。それにはラケットのテクノロジーが大いに関わっている」

かつて隆盛だったが現在は消滅したサーブ&ボレーについて、サンプラスは語った。「若いうちに取り組み始めなければならない。上達するには少し時間がかかるんだ。泣きたいような気持ちを体験するだろう」

話はきまって仲間の王族、特に現在はサンプラスの元コーチ、ポール・アナコーンと協働しているロジャー・フェデラーへと向かった。アナコーンはルーズベルトのニュー・ディール政策やケネディのニュー・フロンティア政策に力を尽くした閣僚の1人にも類似した、楽天性と知性を備えた人物である。

フェデラーについてサンプラスは語った。「僕は今でも彼を本命と見なしている。ジョコビッチが彼をストレートセットで負かしたのは驚きだった。(フェデラーは)ハードルを非常に高いところまで引き上げたんだ」

フェデラーが29歳という年齢で、今でも自己のテニスへと向けている熱意を称賛して、サンプラスは語った。「29歳の時、僕は燃え尽きていた、意気阻喪していたよ。もちろん、彼がもっとネットへと詰めるのを見たいが、彼は16のグランドスラムに彼のやり方で優勝してきたんだ。何も変える必要がない。ロジャーがパニックに陥る理由は何もないよ。誰だって敗戦を経験するんだからね」

フェデラーについてアナコーンと論じたかと尋ねられると―――アナコーンはロサンジェルスで、サンプラスの自宅から幾つかの峡谷を隔てた西側に住んでいる―――まずサンプラスはジョーカーのような微笑を浮かべた。それはしばしば、普段よりも率直に自分自身を表現したいという願望を示しているのだ。しかし外交的な表現に取って代わった。「彼は手を貸そうとしている」と、サンプラスは元コーチについて語った。「ポールはとても頭がいいんだ」

だがフェデラーとテニスにおけるコーチングの役割について、恐らくもっと明確にしたのだろう。サンプラスは「アドバイスを聞く事はできるが、プレッシャーがかかると、自分がしてきた事を頼りにするものだよ」と語った。

間もなく、サンプラスは去っていった。彼の言葉を辿ると―――完全なパッケージ、今の子供たち、誰もが敗戦を経験する、プレッシャーの下、パニックに陥る必要はない―――すべてが、テニス界の元チャンピオン達が何十年にもわたって述べてきたコメントとこの上なく一致して、親切心、率直さ、明快さを伴っていた。ゴルフやボクシングと同じく、テニスでは、これらの言葉は特に並はずれた側面、バトンのような波紋、時代を通じての声明として衝撃を与える。あたかもサンプラスがレーバーの非凡な才能を自身に伝え、さらにフェデラーへと繋げているかのように。

にもかかわらず、これまでのところ言葉はただ通り過ぎていく。サンプラスは40歳になろうとしており、彼がジーンズと濃い青のスエットシャツを着て歩くのを見る事、質問を把握し、馴染みの質問に対して明確に答えを述べるために間をおくのを見る事は、ガンマン・テニスとも言うべき独特なテニスをかくも見事に、そしてかくも長くプレーしてきた少年ぽい男―――彼自身への困惑をも見てとる事なのである。誰であれテニス界の偉人に耳を傾ける事は、各グランドスラム・タイトルは恐らく幾何級数的な重要性を引き起こすという見解について熟考する事なのである。1かける1は1だが、2の二乗は4である。サンプラスの場合、その数字は196(14×14)である。フェデラーの場合は 256(16×16)。一体全体、それは何を意味するのか? どのように生じるのか? 何年も前に、サンプラスは「これらのスラム大会で優勝するためには、自分自身から脱しなければならないかのようだ」と語った。よって矛盾が存在する:自分自身を見いだすためには、自分自身と縁を切る。

エキシビションでの1ポイントに立ち返ろう。それはサンプラスがキャリアで何千回もプレーしてきたものに似通っていた。モンフィスが見事なディフェンスをする中で、サンプラスは3本の異なる―――深い、短い、鋭い―――ボレーを打った。かつてテニスの王国を支配した脚、手、肩、目、そしてラケットワークを示して。吟遊詩人には言葉を、そして王には剣をゆだねよ。これが王のスピーチであった。


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