サン・センティネル
2011年9月22日
40歳で、サンプラスは今でも絶好調である
文:Harvey Fialkov

アメリカの旧き良き世代最高の4人を含む、クーリエ主催のマスター・シリーズ・ツアーは、
バンク・アトランティック・センターでファンを楽しませた

ほとんどの偉大なアスリートができなかった事を、ピート・サンプラスは為した。2002年、31歳で強敵のアンドレ・アガシを下して5回目のUSオープン・タイトルを獲得し、成功のうちにツアーから引退したのだ。

信じがたい事に思われるが、サンプラスはジョン・エルウェイのような引退をし、女優で妻のブリジット・ウィルソンと共に2人の息子を育て、はや9年が経過した。
訳注:ジョン・エルウェイ(1960年〜)。元アメリカンフットボール選手。ポジションはクオーター・バック(QB)。最高のQBの1人と評される事もある。

木曜日の夜、彼はバンク・アトランティック・センターに戻ってきた。40歳にしてなおラケットのようにほっそりとし、そしてトレードマークのサーブ&ボレー攻撃を披露する。それは彼に、当時の記録だった14のグランドスラム・タイトルを獲得させたプレーだった。

HSBC テニスカップ1戦目の1セットマッチの準決勝では、当時と同じ時代遅れの、しかしなお効果的なスタイルで、サンプラスは同世代のマイケル・チャンを6-4で下して勝利した。

チャンは39歳で、17歳の時にフレンチ・オープンで唯一のメジャー優勝を遂げた。彼はサンプラスのボレーに「ツアーにいた頃を彷彿と」させられた、と語った。現役時、サンプラスに対するチャンの対戦成績は8勝12敗だった。

「ああいったネットカバーは、今では見る事がないね」とチャンは語った。

サンプラスはチャンピオンズ・シリーズの共同創設者であるジム・クーリエと決勝で対戦した。クーリエはその前に行われた準決勝で、不屈のジミー・コナーズを7-5で下していた。コナーズは59歳で、競技テニスから18年間遠ざかっていた。

コナーズは「救急救命士は準備できているかい?」と、好意的な観客に向かって冗談を言った。「調子を整えたいと思ったが、一晩では無理だね」

サンプラスはコート上で4,300万ドル以上の賞金を獲得したが、早すぎる引退についてまったく後悔はしていなかった。

「もしかしたらプレーし続けて、優れたテニスをする事もできたかも知れないが、練習や苛酷なツアーを前にして、もう自分自身に証明すべき事は何もないという地点に達したんだ」とサンプラスは語った。彼は最長記録である286週間ナンバー1在位を成し遂げた。それはロジャー・フェデラーよりも1週間長い。フェデラーは後に16回のスラム優勝を果たして、最多優勝者となった。

「オープンで優勝した翌年、ウィンブルドンが近づき、そして過ぎ去っていった時に、もうそこにいたくないと気づいたんだ。それが、僕は終わったと知った時だ。僕はお金のために、あるいは別れを告げるためにプレーするつもりはない。勝つためにプレーするんだ」

サンプラスはそのオープンの前まで、26カ月の間、大会優勝がなかった。

「自分の中に勝つという自信が不足していた」とサンプラスは語った。「キャリアのどん底だった。皆が僕の結婚、妻に責任を負わせた。惨めな時だったよ」

「僕は自分の考えで引退した。その事が重要だった。汚名を晴らしたんだ」

コナーズは注目に値する23年にもわたるキャリアで、8回のスラム優勝を遂げ、難攻不落の記録であろう109タイトルを獲得した。イワン・レンドルは第2位で94タイトル、フェデラーは第4位で67、サンプラスが64で続く。

歴史家はメジャータイトルの数でテニスの偉人を評価するという事を、もしコナーズが知っていたら、恐らく彼は「名誉の殿堂」入りキャリアの大半でオーストラリアン・オープンを欠場しなかっただろう。

「記録は破られるためにある」とコナーズは語った。彼は8回のスラム優勝を遂げた。

「私は8年の間、USオープンとウィンブルドンの2つのメジャー大会にしか出場しなかった。誰もがキャリアを比較する際に(メジャーを)重要視するとは、我々は知らなかった」

「最終結果は私にとって最高で、それで充分だ」

現在のトップ・プレーヤーが、コナーズの41歳は言うまでもなく、30代までプレーするとは考えにくい。暴騰した賞金と、急増する負傷のためである。

「僕は(フェデラーに)『君は35歳を過ぎてもプレーするね』と言ったよ」とサンプラスは語った。「彼はプレーする事が好きで、旅行、ホテルが好きなんだ。僕にはこたえるものだった」

「彼のゲームはラファエル・ナダルのような消耗がそれほど伴わない。ロジャーが2と2で勝つには1時間しかかからない。ラファが2と2で勝つには、2時間かかるんだ」


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