ニューヨーク・タイムズ
2011年8月28日
サンプラス対アガシ、2001年:オープンの大試合は時の経過に持ちこたえる
文:HARVEY ARATON


10年前、アメリカ・テニスの崩壊が近づいているとは誰も知らなかった。ピート・サンプラスとアンドレ・アガシがUSオープン準々決勝で対戦しており、両者ともにサービスブレークがなかった事は、この国のテニスが健在である立証だった。

それは2週目の水曜日夜、この街の景観と国の精神に悲劇的な傷跡が残される数日前の事だった。2人の誇り高いアメリカ人は注目の的で、現在のアメリカ・テニスが置かれる悲しい状況とは正反対だった。

その日は1日じゅう、合わせて20のメジャータイトルを獲得していた両者の対戦を期待する声でざわめいていた。そのタイトル数は、1969年のオープン準々決勝で対決したロイ・エマーソンとロッド・レーバー―――合計で22の保有者―――以来のものだったのだ。

アンディ・ロディックという名前の若いアメリカ人は、午後のヒッティングを済ませたら、試合を見るためにホテルの部屋に閉じこもると語った。急成長中のオーストラリア人、 レイトン・ヒューイットは、サンプラスとアガシを「僕がアイドルとしてきた2人の男」と称した。

マラト・サフィン、2000年のUSオープン決勝戦でサンプラスを圧倒したハードヒッターのロシア人は、2人のアメリカの年長者について「彼らから多くの事を学ぶ」と語った。

残念ながら、サンプラスの6-7(7)、7-6(2)、7-6(2)、7-6(5)という勝利の教訓は失われてしまった。とりわけ現在ヨーロッパ人に独占されるテニス界で、牽引に苦闘しているアメリカの次世代へは。

当時30歳のサンプラスは、白いバギーパンツを穿いていた。31歳のアガシは黒いウェアを着ていた。身につける衣服は、ロジャー・フェデラー / ラファエル・ナダルの関係と同様に、異なる性格を際立たせていた。しかし史上最高選手のリストに名を連ねる2人のキャリアを定義したのは、本質的に異なるプレースタイルだった。

「2人の偉大な選手が、同時に素晴らしいプレーをしたんだ」と、サンプラスは最近の電話インタビューで試合を振り返って語った。「そんな事はめったにない」

風が吹くコンディションの下、典型的なカウンターパンチャーとの対戦で偉大なサーブ&ボレー・プレーヤーがAゲームを行うと、通常は何が起こるか、という事をサンプラスは皆に思い出させた。サンプラス―――アガシとのキャリア対戦成績は20勝14敗、グランドスラム大会では6勝3敗、スラム決勝戦では4勝1敗―――は第1セットを落とした後、3セット連続でタイブレークを制して勝利したのだ。

「自分のサービスゲームをキープする以上の事をしなければならないんだよね」と、連続24ゲームでサービスをキープしてきた後に、アガシは語った。

「アンドレはビッグサーバーではないが、非常に賢明なサーバーだった」と、当時サンプラスのコーチで現在はフェデラーのコーチを務めるポール・アナコーンは語った。「その意味では、彼はロジャーに似たところがあった。ロジャーほど強烈ではないが、アンドレはファーストサーブとストロークの組合わせが最も優れていたと言えるかも知れない。もし相手がリターンで決めきれなかった時には、彼はいとも正確にボールを打ち、相手はポイントに入り込めなくなっていた」

その夜、アガシの18本に対してサンプラスは25本のサービスエースを放ったが、すべてがタイブレークまで突入した試合で必ずしも決め手となる数値ではなく、勝敗を決したのはそこここでのウィナー、またはアンフォースト・エラーだった。極上の3時間半が経過し、両プレーヤーが第4セットのタイブレークに向かうと、アーサー・アッシュ・スタジアムを埋める23,033人の群衆は立ち上がって大きな喝采を送った。それはサンプラスを感動で涙ぐませるほどだった。

「試合から気が逸れるほどにまで、観客に心を動かされたのは初めてだった」と彼は語った。

しかし、それほど長い間ではなかった。キャリアのその当時、サンプラスはコンディション調整に苦しみ、疲れ切っていた。そして第5セットに入ると、フィットネス・マニアのアガシが有利になるだろうと承知していた。

しかし3-1リードとしたところで、アガシは何でもないフォアハンドをネットにかけた。そして好機に乗じるのが巧みなサンプラスは連続で5ポイントを勝ち取り、真夜中過ぎに3本目のマッチポイントで勝利を決めて、観客を家路に就かせたのだった。

「優勝しろよ」と、2人がネットを挟んで握手した時に、アガシはサンプラスの耳に囁きかけた。サンプラスは優勝できず、決勝でヒューイットに敗れ去った。しかし彼は翌年に戻ってきて、決勝戦でアガシを下し、14回目のメジャー優勝を成し遂げた。この時も4セットでの勝利だった。アガシは2003年オーストラリアン・オープンで優勝し、キャリアで8つ目のグランドスラム・タイトルを獲得した。その夏のニューヨークでは、ロディックが初の、そして唯一のグランドスラム優勝を果たした。それ以降、アメリカ人男子のスラム優勝はない。

見識あるサンプラスの意見では、国は集団としての活力を失い、テクノロジーがサーブ&ボレーを実用的でない時代遅れの戦術にしたという考えに屈服したのだ、という。

「繰り返し聞かされる―――ラケットは頑丈すぎる、選手たちはベースラインからボールをあまりにも強烈に打つ、ウィンブルドンの芝生は遅すぎる、と。僕はそれを聞くのにウンザリだ」と彼は語った。「サーブ&ボレーに問題があるとすれば、上達に時間を要するという事だ。それは徐々に進歩していくもので、辛抱強さが必要なんだ。ジュニア時代には試合を犠牲にする事もいとわない意志が必要だが、親はそれを望まない」

「だが、現代においてはサーブ&ボレーはできないと聞くと、僕は馬鹿げた話だと思うよ。ナダルがベースラインの10フィート後ろに立つのを見ると、彼はボールに追いつくのが見事ではあるが、僕なら彼をワイドに追い出して前へと詰め、チャンスを狙うだろう」

ああ、若いアメリカ人は速いハードコートでの強みを活かしてツアーに生息地を得る機会に恵まれている事とともに、サーブ&ボレーが「ほぼ絶滅し、基本的に消えてしまった」という状況に、サンプラスは甘んじている。

テニス界で最も優れたリターナーの1人、アガシに対する2001年の試合では、軽業師のようなサンプラスはファーストサーブだけでなく、セカンドサーブでもネットへと前進した。もし彼のファーストサーブが武器として充分でなかったとしても、セカンドサーブはパワー、配球、計略、勇気がうまく隠されつつ混じり合っていた。

もしもう1人のサンプラスが現れるとすれば、大いなる野心に匹敵するだけの素晴らしい運動能力を備えているべきである。

「テニスをよく知らない友人たちに私が常に説明を試みるのは、ピッチングとヒッティングに似ているという事だ」とアナコーンは語った。「野球では、もし打率が3割に達すれば、かなり優れた打者と言える。それをテニスに、そしてピートとアンドレに置き換えてみよう。彼らが共に良いプレーをして得意な事をするとしたら、ピートはピッチャーで、アンドレは反応しなければならないキャッチャーだ。ボールを自分の手にしている男が有利だ、というのは道理にかなう」

あの忘れ難い2001年準々決勝の夜に関しては、やや不充分だ。しかし彼の同国人で聞きたがる者はほとんどいなかったと見える、ゲームの変化と基本についてメッセージを送るには、充分である。


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