ブリーチャー・レポート(外野席からのレポート)
2010年8月18日
USオープン史上における最大の番狂わせ12
文:Ja Allen


*全文を読みたい場合は、こちらのリンクで。
http://bleacherreport.com/articles/438552-greatest-upsets-in-us-open-tennis-history#page/1

USオープンが数週間後に始まる。1987年にオーストラリアン・オープンの開催が12月から1月に移動して以降、この輝かしい大会は、1年で最後のグランドスラム大会となった。その歴史を振り返るのは興味深い事だ。

ニューヨークで開催されるUSオープンでは、男女ともに多くの記録が生み出されてきた。

近代ではアメリカのジミー・コナーズ、アメリカのピート・サンプラス、スイスのロジャー・フェデラーが各5回ずつ、男子で最も多くタイトルを獲得している。フェデラーの優勝は2004〜2009年の5年連続で、近代における記録である。

アメリカのクリス・エバートは6回、女子の最多タイトルを獲得している。1975〜1978年には4年連続で優勝し、これも近代の記録である。

しかし、これらの業績は他のトップ選手と同様に、各USオープンの優勝を果たす前には、しばしば試演ともいうべき試合があったのだ。

しかし勝利を期待されたチャンピオンが、勝つ事を誰も予想しなかった者に敗れる番狂わせとは、どういったものか? 以下に年代順で、近代におけるUSオープン史上で最大の番狂わせを挙げる。

1975年、ジミー・コナーズ(1)対マノロ・オランテス(3)、決勝戦
オランテスが勝利、6-4、6-3、6-3。

1983年、ジョン・マッケンロー(1)対ビル・スカンロン、4回戦
スカンロンが勝利、7-6、7-6、4-6、6-4。

1989年、マッツ・ビランデル(5)対ピート・サンプラス、2回戦
サンプラスが勝利、5-7、6-3、1-6、6-1、6-4。

マッツ・ビランデルが頂点を極めたのは1988年だった。USオープンでチェコのイワン・レンドルを破った後に、その彼から王座を奪い、世界ナンバー1選手となったのだ。1年後、 ディフェンディング・チャンピオンのビランデルは第5シードで、あまり調子の上がらないままオープンに臨む事となった。彼は2回戦で、当時91位だった18歳のアメリカ人、ピート・サンプラスと対戦した。

サンプラスのサーブ&ボレー・ゲームはまだ完成の域に達していなかったが、それでも彼は、サーブの後には必ずネットへと詰めた。コメンテーターのマリー・カリロによれば、ビランデルの14回に対して、サンプラスは160回もネットへと詰めたのだった。カリロはまた、メジャー大会におけるビランデルの5セットマッチの成績は、この決勝戦まで14勝1敗と伝えていた。

それはビランデルにとってひどい試合だった。25歳のスウェーデン人は、1989年のスランプについて説明に窮していた。サンプラスは、通常は完璧なスウェーデン人がまずいプレーをしているという事実に乗じて、まさに適切な機にビランデルを捕えたのだと認めていた。サンプラスはサーブ&ボレーでプレッシャーをかけ続け、ビランデルの態勢を整わせなかったのだ。

サンプラスのサーブはすでに彼の主要な武器で、ディフェンディング・チャンピオンを破るのに絶大な効果を挙げた。その後ビランデルは、1988年に自らをナンバー1の座へと導いた高みに戻る事はなかった。サンプラスがビランデルを破る、それはふさわしい試合だった―――一方は上り坂の途上にあり、他方は下り坂にいたのだった。

1989年、ジョン・マッケンロー(4)対ポール・ハーフース、2回戦
ハーフースが勝利、6-4、4-6、6-3、7-5。

1990年、ステファン・エドバーグ(1)対アレクサンドル・ボルコフ、1回戦
ボルコフが勝利、6-3、7-6、6-2。

1994年、ピート・サンプラス(1)対ハイメ・イサガ、4回戦
イサガが勝利、3-6、6-3、4-6、7-6、7-5。

時は1994年、USオープンは進行中だった。ピート・サンプラスはディフェンディング・チャンピオンで、大方の人間は彼が再び優勝すると予想していた。しかしながら、彼はその夏の大半、左足首の腱炎と、合併症のカルシウム沈着に苦しんでいた。そのため、トップランクのアメリカ人は、オープン前のチューンナップ大会すべての棄権を余儀なくされていたのだった。

ニューヨークへと入ってきた時、サンプラスはおよそ本調子ではなかった。しかし彼は4回戦でハイメ・イサガと対決する前に、1回戦でケビン・ウリエット、2回戦でダニエル・バチェク、3回戦ではロジャー・スミスを何とか撃破してきていた。イサガはサンプラスとの対戦までに、ガブリエル・マーカス、デビッド・ビット、セドリック・ピオリーンを破っていた。

ペルー人はカウンターパンチャーで、決して1ポイントも諦めないファイターだった。この日、その資質は彼に試合の勝利を、そしてメジャー大会における初の準々決勝進出を勝ち取らせたのだった。イサガは自分の勝利を後ろめたく思う事はなかった―――彼自身が勝利をつかみ取ったからだ。彼はその日、より優れた者だったのだ。確かに、サンプラスは最高の状態ではなかった。しかし選手に与えられる特別なハンディキャップというものはない。ひとたびコートに足を踏み入れれば、勝つのは優っていた者なのだ。それに尽きる。

その勝利に、サンプラスは足首に腱炎を抱え、上手く動けなかったという注釈を付ける事はない。つまり、その日はハイメ・イサガが優っていたから、勝利者は彼だったのだ。

しかしサンプラスは、自分自身に寛大になる事もできた筈だったが、そうはしなかった。アメリカ人はあらゆるポイントを競い抜き、対戦相手のあらゆるポイントに挑み続けた。彼はペルー人に、自ら勝利をつかみ取らせたのだった。実際は、サンプラスは限界に達し、エネルギーは残っていなかった。試合の終わりまでには、動く事もままならなくなっていた。しかし彼は、なんとしても戦い続けたのだ。

サンプラスは常と変わらず、降参する事を拒否した。身体が熱っぽい、あるいは火ぶくれがひどくて歩く事もできないという理由で途中棄権する事はなかった。彼は試合の終わりまで戦い続けたのだ。それこそが注目に値する事である。なぜなら我々は現在のゲームで、気分が悪い、あるいは痛みがあるからと、選手が途中棄権するのを何度も目にしているからだ。

1994年、ディフェンディング・チャンピオンとして、サンプラスは敗れはしたが、試合を投げはしなかったのだ。

1997年、ピート・サンプラス(1)対ペトル・コルダ(15)、4回戦
コルダが勝利、6-7、7 - 5,7 - 6,3 - 6、7-6。

1997年、ピート・サンプラスはナンバー1シードとしてUSオープンに臨んだ。再びタイトルを獲得する、あるいは少なくとも決勝戦に進出する事を充分に意識していた。つまるところ、サンプラスは1994年以降、2年連続で決勝戦に進出していたのだ。それは決勝戦が新しいアーサー・アッシュ・スタジアムで行われる、初めての年だった。

サンプラスは4回戦で、チェコ共和国出身の第15シード、ペトル・コルダと対戦した。その夏のウィンブルドンで、コルダはサンプラス相手にタフな5セットマッチを戦い、アメリカ人が何とか勝利を収めていた。

サンプラスはコルダの勝利を賞賛した。チェコ人は必要な時にウィニング・ショットを放って勝利をつかみ取ったからだった。サンプラスは手を抜いた訳ではなく、24本のエースを含めて、58本のウィナーを放っていた。第5セットでは3-0リードとして、アメリカ人が首尾よくUSオープンでの18連勝を確定するかに思われた。

しかしコルダの念頭には、もう1つの結末があったのだ。雨による中断の後、サンプラスのサービスゲームでコルダはブレークバックを果たし、最終セット・タイブレークへと持ち込んだ―――そしてサンプラスに対して、一気に4-0リードとした。最終的にコルダは自分のサービスをものにして、試合に勝利する事ができたのだった。

2002年、サンプラスはもう1回のUSオープン優勝を成し遂げた。

2000年、アンドレ・アガシ(1)対アルノー・クレマン、2回戦
クレマンが勝利、6-3、6-2、6-4。

2008年、アナ・イワノビッチ(1)対ジュリー・コワン、2回戦
コワンが勝利、6-3、4-6、6-3。

2009年、アンディ・ロディック(5)対ジョン・アイズナー、3回戦
アイズナーが勝利、7-6、6-3、3-6、5-7、7-6。

2009年、メラニー・ウダン対ロシア選手

2009年、ロジャー・フェデラー(1)対フアン・マルティン・デル・ポトロ(6)、決勝戦
デル・ポトロが勝利、3-6、7-6、4-6、7-6、6-2。


情報館目次へ戻る  Homeへ戻る