ニューヨーク・タイムズ
2010年8月30日
記憶すべきタイブレーク
グランドスラムの緊張感では、USオープンのタイブレークに勝るものはないだろう


*全文を読みたい方は下のリンクから。
http://www.nytimes.com/interactive/2010/08/30/sports/tennis/20100830tiebreakusopen.html

ピート・サンプラス対アンドレ・アガシ
準々決勝、2001年

サンプラス / アガシのこの試合は、彼らの高い水準を考慮に入れても衝撃的なものだった。彼らのペースと精度は、その試合をUSオープン史上で最高の対決の1つとしたのだった。両者とも攻撃的なプレーをして、1インチも、あるいは一瞬の間もたじろがなかった。338ポイントの中で、ウィナーは178ポイントあり、アンフォースト・エラーは59本しかなかった。

2人のライバルは、果てしなくサービスゲームをキープし続けた。サンプラスが握られたブレークポイントはたった3本で、テニス界最高のリターナーに対して25本のエースを放った。一方アガシのブレークポイントは6本だけで、彼自身も18本のエースを打った。

第4セットのタイブレークの前には、満場の観客が両選手に熱狂的な喝采を送った。「最高だった」とアガシは後に語った。「あんな経験は初めてだった」

よりフィットした相手に対して、サンプラスはそのタイブレークで6-3リードとした。アガシは2本のマッチポイントを逃れたが、6-5で最後のフォアハンドをネットにかけ、サンプラスが6-7(7)、7-6(2)、7-6(2)、7-6(5)で勝利したのだった。

トレーシー・オースチン対マルチナ・ナヴラチロワ
決勝、1981年

ジミー・コナーズ対アーロン・クリックステイン
4回戦、1991年

ジュスティーヌ・エナン対ジェニファー・カプリアティ
準決勝、2003年

ピート・サンプラス対アレックス・コレチャ
準々決勝、1996年

サンプラスは1996年5月に、友人でコーチのティム・ガリクソンを脳腫瘍で喪い、ウィンブルドンで敗北し、そして怪我のためにオリンピックを欠場した。USオープンのディフェンディング・チャンピオンだったサンプラスは、心をかき乱され、さらにはコレチャからの、そして自分自身からの驚くべき挑戦に直面した。サンプラスは68本のアンフォースト・エラーを犯し、コンディションの不調でトレーナーを頼み、第5セットではショットを追わずに見送る事もあった。

第5セット・タイブレークの2ポイント目を失った後に、サンプラスはふらつきながらベースラインから遠ざかり、身体を折り曲げて嘔吐した。主審はサーブ遅延によるコード・バイオレーションを告げ、観客はサンプラスを後押しした。サンプラスは足を引きずってやっとサービスラインまでたどり着き、そしてサービスウィナーを放った。
ピート・サンプラスは5セット・マッチから回復するために、2リットルの点滴を必要とした。

ポイントの間には、彼はラケットで身体を支えるか、膝に手をおいて頭を下げていた。時折、 彼はガリクソンに助けを求めるかのように、空を見上げていた。彼はマッチポイントを決めそこね、さらにショットをミスして、7-6でコレチャにマッチポイントを与えた。

時速79マイルのファーストサーブにもかかわらず、サンプラスはネットへと攻撃し、窮余のフォアハンド・ボレーで敗北を食い止めた。彼はその後に、完璧なセカンドサーブで25本目となるエースを放った。動顛したコレチャは次のポイントでダブルフォールトを犯し、そして試合は7-6(5)、5-7、5-7、6-4、7-6(7)で、ついにサンプラスのものとなったのだった。回復のためには、2リットルの点滴が必要だった。彼はその大会を優勝で締めくくった。

サンプラスにとっては、そのタイブレークは果てしなく感じられたかも知れないが、それはオープン史上の最長にはほど遠かった。ゴラン・イバニセビッチは、ダニエル・ネスター戦の第3セット・タイブレークを20-18で勝ち取った。同じラウンドで、 マッツ・ビランデルはハイメ・オンシンスに第3セット・タイブレーク18-16で打ち勝っている。

シュテフィ・グラフ対パム・シュライバー
準々決勝、1985年

アンドレ・アガシ対ジェームズ・ブレイク
準々決勝、2005年


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