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ブリーチャー・レポート(外野席からのレポート) 2010年7月14日 ビョルン・ボルグからピート・サンプラスまで:きわめて重要なUSオープン決勝戦 文:JA Allen |
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*全文を読みたい場合はこちらのリンクで。 http://bleacherreport.com/articles/420199-from-borg-to-sampras-pivotal-us-open-finals#page/1 |
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第1部 フラッシングメドウで開催されるUSオープンを、ニューヨークはテニスシーズンのクライマックスと位置づけている。この人気が高いスポーツイベントの最終日に、時にはキャリアが作られ、時には失われる。 近代の男子テニスを通して、身びいきの強いニューヨークの観客は万雷の拍手喝采をアメリカ人選手に送り、多くの者はそれに励まされて勝利してきた―――たいていの場合は。 またUSオープンは、最終セットにタイブレークを採用している事でも有名である。それは1970年USオープンの初日に、グランドスラム大会でデビューを果たした。 近代における最も意義深い試合となった幾つかを見てみよう。それらの試合は選手のキャリアに影響を与え、さらに選手とファンにとって、ニューヨークを最もエキサイティングな開催地としたのだった。 |
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1976年決勝 :ビョルン・ボルグ対ジミー・コナーズ 1980年決勝:ビョルン・ボルグ対ジョン・マッケンロー 1981年決勝:ビョルン・ボルグ対ジョン・マッケンロー 1988年決勝 :マッツ・ビランデル対イワン・レンドル 1990年決勝:ピート・サンプラス対アンドレ・アガシ 1990年、ピート・サンプラスは19歳と28日で、USオープンの史上最年少優勝者となった。その時の対戦相手は同国のアンドレ・アガシで、彼のサーブは1歳年下のアメリカ人の攻撃的なリターンゲームによって、あっという間に火だるまとなった。 アガシのファーストサーブ・インは77パーセントという高い確率だったにもかかわらず、サンプラスはピンポン球でも打つかのように、彼のサーブを叩き返した。サーブはアガシがその後、向上に努める事となるゲームの分野だった。 |
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その決勝戦は、サンプラスには社交界へのデビュー・パーティーであり、アガシにとってはゴールデンアワーにおける決定的な放逐となり、ラスベガス出身の男は、身を隠す場所もないまま置き去りにされた。アガシは準決勝で前回優勝者のボリス・ベッカーを破っていたが、それさえも、決勝戦でサンプラスに敗れた大ショックを慰める事はできなかった。 アガシは売り出し中のスターで、ライム色のウェアやプレーボーイ風のライフスタイルで、派手なカリスマ性を充分に備えていた。しかしその日曜日のニューヨークで、王座とすべての称賛を獲得して去っていったのは、サンプラスだった。 |
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ピストル・ピートとして知られるようになったサンプラスは、ラケットに物を言わせて、時速120マイルを超えるロケットサーブを連発してアガシを攻めたてた。カリフォルニア州ランチョ・パロス・ベルデス出身の若い男は、ファーストサーブの92パーセントでポイントを勝ち取り、13本のエースを決めた。 アガシはサンプラスのサーブを1回もブレークできなかった。実際のところ、アガシはサンプラスに対して、試合全体で3本のブレークポイントを握っただけだった。 最終スコアは6-4、6-3、6-2で、サンプラスは夢のような試合を演じたのだった。これはサンプラスにとって初のグランドスラム優勝で、彼が獲得した5つのUSオープン・タイトルの1番目となった。 両者はそれから何年間も、世界じゅうのコートに君臨する事となったが、彼らの競い合うキャリアは1990年のニューヨークで、この決勝戦から始まったのだ。 テニス史の一場面を見るには、下のリンクで。 http://www.youtube.com/watch?v=HAWnGKLd-k8&feature=related 2002年決勝:ピート・サンプラス対アンドレ・アガシ アンドレ・アガシを下し、USオープンで初のグランドスラム優勝を果たしてから13年後、ピート・サンプラスは最後のスラム大会出場となったフラッシングメドウに戻ってきた。再び彼はタイトルをかけて同国のアガシと戦い、USオープンにおいて始めたすべてから去っていった。 |
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マスコミは彼の勝利する能力と競い合う意志を疑問視し、そして引退について憶測し、彼をしつこく煩わせていた。サンプラスは実力のある対戦相手を下してタイトルを獲得する事で、彼を批判する者すべてに答えを示したのだった。 サンプラスは1990年に発揮したような、圧倒的なやり方でアガシを破った訳ではなかった。しかし勝利は31歳のサンプラスにとって重要なすべてだった。 彼とアガシは名高いライバル関係において33回対決してきた。その事はこの決勝戦をさらに忘れ難いものとした。2人のアメリカ人チャンピオンが決勝で対戦する時には、大方の組織と放送局は大喜びしたからだった。 彼らがこの決勝戦で相まみえる事は、さらにいっそう特別なものとなった。それは彼らがUSオープンのタイトルをかけて戦う、3回目の対決を意味していたのだ。サンプラスはその3回すべてに勝利した。 |
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その大会では第17シードだったピストル・ピートは、しばしばコートサイドへと足を引きずって歩くように見えたが、サーブを復活させて、試合を通して自分を駆り立て続けた。彼はルイ・アームストロング・スタジアムでの輝きをいま一度取り戻すため、フォアハンドに磨きをかけ、精度の高いボレーを放った。 この注目すべきライバル関係の最後のひとときを見るには、下のリンクで。 http://www.youtube.com/watch?v=_oizEjkreZw&feature=related ロジャー・フェデラーのUSオープン10年:ニューヨークにおける5回のアップと5回のダウン |
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