ブリーチャー・レポート(外野席からのレポート)
2010年12月13日
テニスはこの20年でどのように進化してきたか:パート2
文:Tribal Tech


記事のパート1では1990年代のテニスに目を向けて、プレースタイル、テクノロジー、サーフェスが、10年間を通じていかに変化してきたかを考察した。

パート2では2000年代にテニスがいかに前進し、どんな事を将来に予想できるかを考察したい。

さて、常に移行の期間というものがある。1990年にはレンドル、ベッカー、エドバーグ等の地位を確立した選手たちがトップを争い、同時にヨーロッパやアメリカから若い才能が現れてきていた。2000年には、地位を確立した選手はサンプラス、アガシ、ラフター等で、新たに登場してきた選手にはグスタボ・クエルテン、レイトン・ヒューイット、マラト・サフィン等がいた。サフィンは2000年のUSオープンで優勝し、年末ナンバー1の座をクエルテンと競い合った。
ゴラン・イワニセビッチが2001年ウィンブルドンで優勝

2001年にはロジャー・フェデラー、アンディ・ロディック、フアン・カルロス・フェレロ等、さらに新しい選手たちが頭角を現してきた。フェデラーはウィンブルドンの4回戦でサンプラスを打ち負かし、ヒューイットは決勝戦でサンプラスを下してUSオープンに優勝した。

また、イワニセビッチとラフターによる、ウィンブルドン史上最高の1つと目される決勝戦があった。この試合は雨のために翌日の月曜日に戦われ、ピーブルズ・マンデーとして知られるようになった。その雰囲気は、恐らくグランドスラムの決勝戦では二度と味わえないだろう。むしろデビスカップのようだった。一方、アガシはオーストラリアン・オープンのタイトルを防衛した。

攻撃的プレーヤーの消滅という予言は、事実上2002年に確定した。パット・ラフターは将来を考えるために6カ月の休みを取り、イワニセビッチの肩はついに限界が来た。そしてサンプラスは(USオープンで優勝はしたが)苦しんでいた。すでにベッカーは1999年に引退し、クライチェクは肘に問題を抱えていた。

この事はレイトン・ヒューイットとデビッド・ナルバンディアンによる2002年ウィンブルドン決勝戦に象徴されていた。その決勝戦を予測した者は誰もいなかっただろう。しかしサーブ&ボレーヤーは勝ち上がらず、近い将来にはすべてのサーフェスで、テニスはこのようにプレーされるであろうと言われた。

イーストボーンでのエナンとモレスモー。
1990年代には、選手はサーフェスによってゲームを変える事が多かった。私はサンプラスやベッカーのような選手は、ベースラインからのプレーを多くしてオーストラリアン・オープンに優勝し、カフェルニコフのような選手は、ウィンブルドンでは通常よりもネットに詰めると論じた。しかし現在では、サーフェスにかかわらず自分のプレーをするケースが殆どである。

2003年、フェデラーはウィンブルドンで初のスラム優勝を果たした。決勝戦は大いに盛り上がった。彼はマーク・フィリポウシスと対戦し、ファーストサーブでは両者(フィリポウシスはセカンドサーブでも)がサーブ&ボレーを試みたからだった。その年の天候は暑く、コートは速かった。しかし攻撃的テニスの行く末に関する限り、それは偽りの夜明けであった。

2004年には、フェデラーは本格的な地歩を築き、続けざまにメジャー優勝を果たしていった。このような短期間での独走は、以前には見られなかった。そして今後もないかも知れない。フェデラーはサフィン、ヒューイット、ロディックを含め、あらゆる同世代人を圧倒し、第1級のクレー大会を除いて、出場したほぼすべての大会で優勝した。

2005年にはラファエル・ナダルが現れ、初のフレンチ・オープン優勝を果たした。その途上ではフェデラーをも破っていた。そして2人の選手による男子ゲームの支配が始まった。以前には目にした事のないものだった。我々は2010年の終わりを迎えているが、この2人は現在なお倒すべき男たちだ。他のサーフェスでも進歩しようとするナダルの意欲は、彼がやがて世界のトップ選手として、フェデラーに追いつくであろう事を意味していた。

2000年代の後期に登場してきた新しい挑戦者には、ノバク・ジョコビッチ、アンディ・マレー、ジョー・ウィルフレッド・ツォンガ、ガエル・モンフィスといった才能ある選手たちがいた。しかし彼らのいずれも、これまでのところトップを狙えそうな印象は生み出し得ていない。ホアン・マルティン・デル・ポトロは2009年にUSオープンで優勝を遂げ、有望に見えるが、まる1年怪我に悩まされ、立て直すには時間が必要だろう。

なぜ男子テニスはこの方向に進展してきたのか? 考慮すべき幾つかの要因がある。

2001年、アレックス・コレチャを含む何人かのクレーコート中心の選手たちが、独自のシード制に不満を唱えてウィンブルドンをボイコットした。その後には、世界ナンバー1だったグスタボ・クエルテンが、フレンチ・オープン優勝後に疲労を理由として、休養のためにウィンブルドンを欠場した。その結果、委員会は16から32のシード制を採用せざるを得なくなった。さらに、毎年クレーコート選手にも出場させるという展望のもと、ウィンブルドンが芝生のスピードを遅くしようとしている事も、符合するように見える。
ロジャー・フェデラーが2004年USオープンで優勝。

同じく室内サーフェスも、どんどん遅くなっていた。2004年までには、伝統的に室内カーペットを用いてきた多くの大会が、サーフェスをハードコートに張り替えていた。シュツットガルトは、ハードコートを用いるマドリッドに大会を明け渡した。ツアーのどこであれ、攻撃的テニスを実行する事はさらに難しくなっていた。かつてクレー選手はポイントを得るために、1年を通してヨーロッパと南アメリカでプレーしていたのに対して、現在では他のサーフェスでもプレーし、強い印象を与える事が可能になった。

同時に、サーブ&ボレーの戦術は、高い技能を備えたオールコート・プレーヤーに採用されず、残念ながらマックス・ ミルニー、ウェスリー・ムーディー、ミカエル・リョドラ、テイラー・デントといった職人肌の選手の領域になっていった。

セレナ・ウィリアムズが2007年オーストラリアン・オープンのトロフィーを掲げる。
サーブ&ボレーヤーは、もはや巧みなリターンができず、グラウンドストロークや動きも疑わしいもので、エドバーグからはかけ離れていた。彼は攻撃的プレーヤーではあったが、史上最高のバックハンドを持つ1人だったのだ。また遅くなったサーフェスと最新のポリエステル・ストリングスは、皆が速いサーブを打ってはいるが、相対的にサービスリターンとパッシングショットが容易になる事を意味していた。

それゆえ、この8年間には、ペースという点でサーフェスの均一化が存在した。ユニークな高いバウンドのリバウンドエースを採用していたオーストラリアン・オープンさえ、2008年からハードコートに張り替え、現在は中程度のペースになっている。現在のテニスは、1年を通して事実上2つのサーフェスでプレーされているのだ。屋外ないし室内の様々なハードコート、そしてヨーロッパと南アメリカのクレーである。

これらの変更は、男子ゲームに以前ほど多様性がなく、ネットプレーはせいぜいサプライズ戦術でしかないという事実と符合していた。同じく、 ツォンガ、ガスケ、マレーといった優れたネット技能を持つ選手たちは、前の時代でなら実行したかも知れない攻撃的プレーに惹きつけられなかった。

ランキングのポイントシステムも、2000年以降に2回の変更を行ってきた。選手たちは現在、マスターズ大会の優勝で1000、メジャー大会では2000ポイントを得る。

サンプラスが1994年にマイアミで優勝した時、彼が得たのは350ポイントだったのだ! また私は今年前半にも1本の記事を書いたが、マスターズ決勝のベスト・オブ・3セット方式は、5セットの決勝戦を経験できないという事実のために、若い選手の成長を妨げていると論じた。

この事は、フェデラーとナダルにトップの座を保持させてきたと私は考える。彼らは2007年に方式が変更される前に経験を積んでいたからだ。変更はアンディ・マレーといった選手たちに役立つものとはならなかった。

女子のゲームは、2000年代に競争が大いに激化した。これは1970年代にランキング・システムが始まって以来、かつては見られなかった事だ。トップの座はマルチナ・ヒンギス、ジェニファー・カプリアティ、ヴィーナス& セレナ・ウィリアムズ、リンゼイ・ダベンポート、アメリー・モレスモー、マリア・シャラポワ、キム・クライシュテルス、ジュスティーヌ・エナンの間を巡ってきた。

2000〜2003年は、とりわけ女子テニスが強力な期間だった。セレナ・ウィリアムズは2002年から2003年にわたって、4大会連続でスラム優勝を果たしたが、彼女の長期支配は怪我によって妨げられた。セレナに続く集団は非常に強かった。彼女たちは歴史上でも最高の世代の1つと記録されるだろう。
ロシアはフェドカップを独占し、4回の優勝を果たした。

マルチナ・ヒンギスには不幸だが、彼女がトップにいた時期は2001年で終わりを迎えていた。グランドスラム・レベルでは、彼女は絶えず挫折した。そして2002年オーストラリアン・オープン決勝戦でジェニファー・カプリアティに手痛い敗戦を喫した事が、彼女にとって真の終わりだった。カプリアティとセレナ・ウィリアムズ、エナンとモレスモー、エナンとクライシュテルス、ダベンポートとエナン、ダベンポートとセレナ・ウィリアムズ、ダベンポートとヴィーナス・ウィリアムズの間にも、同じく素晴らしい試合とライバル関係が存在した。

2004年にはアナスタシア・ミスキナ、マリア・シャラポワ、スベトラーナ・クズネツォワがスラム大会で優勝を遂げ、ロシア人選手の躍進が見られた。エレナ・デメンティエワ、ベラ・ズボナレワ、ナディア・ペトロワといった他の選手たちも、最高のレベルで強い印象を与えていた。それはロシアが2004・2005・2007・2008年にフェデレーション・カップで優勝という事実に反映していた。しかしながら、このような層の厚さにもかかわらず、ロシアの選手たちは支配的なプレーヤーに求められる気質を証明してこなかったとも言い得る。

アナスタシア・ミスキナがボールを打つ技能を披露する。
2000年代初期の世代を際立たせる1つは、多才さである。その点では、1990年代初期の男子ゲームを思い出させる。ヴィーナス・ウィリアムズのパワーと身体能力、セレナ・ウィリアムズ(彼女は女子テニス最高のサーブを持っている)の戦術的機知とパワー、ダベンポートとクライシュテルスのボールを打つ能力、カプリアティの決意、ヒンギスの策、そしてエナンとモレスモーのオールコート・ゲーム、優れた片手打ちバックハンド、ネットプレー。

まさに多士済々で、誰であれ、過去の時代のように1人の選手が支配する事は不可能だった。残念ながら、多くの選手が若くして引退(そしてカムバックする!)し、重大な怪我も加わって、エナンとシャラポワがマドリッド(幸運にも私はそこにいた)で見事な WTA 決勝戦を戦った2007年の終わり以降、女子テニスのレベルは著しく低下した。

我々は今や、メジャータイトルを勝ち取れるゲームを持っているとは思えない、あるいはプレッシャーに対処できないように見えるナンバー1選手を何人も見てきた。ディナラ・サフィナ、エレナ・ヤンコビッチ、そして現在のキャロライン・ウォズニアッキである。アナ・イワノビッチは2008年にフレンチ・オープンで優勝して世界ナンバー1に到達したが、フォームと自信を見失い、信じがたいほどのスランプに陥った。

同じくアメリー・モレスモーの引退以降、現在は多様性が欠如している。ベラ・ズボナレワとビクトリア・アザレンカの攻撃的なプレーには強い印象を受けるが、彼女たちがメジャー・タイトルを獲得できるかどうかは、時が経てばわかるだろう。

さて、以上が過去20年のプロテニスに対する包括的なまとめである。次の9年間が何をもたらすか、どんな若い選手たちが将来トップの座に挑戦しているかを見るのは興味深いだろう。世代交代は通常、各10年の3年目に起こると歴史は示唆している。何が起こるか見ようではないか。


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