ブリーチャー・レポート(外野席からのレポート)
2010年12月6日
テニスはこの20年でどのように進化してきたか:パート1
文:Tribal Tech


2010年が終わろうとする中、テニスのゲームが1990年代から現在までに、技術・戦術という点に関して、いかに変化してきたかを見てみるのは興味深いと考えた。

もしテニスのゲームを極端に単純化して見る(残念ながらあるセクションのメディアを含めて、多くの人々はそうしている)なら、1990年代はビッグサーブの10年であり、2000年代はビッググラウンドストローク、そしてネットから遠ざかっていた10年だったと言う事ができる。

実際はもう少し入り組んでいる。しかし1つの事は確かだ。技術とサーフェスの変更によって、今やテニスは15年前、10年前とでさえ異なったゲームになってきている。かつてトップ10選手の間では、テニスは様々なプレースタイルによる多様性のあるゲームで、サーフェスは1年を通じて大いに変化していた。
パトリック・ラフターが1998年USオープンに優勝。

1990年代全体を通じて、トップ10の座はピート・サンプラス、アンドレ・アガシ、ボリス・ベッカー、ジム・クーリエ、ステファン・エドバーグ、マイケル・チャン、パトリック・ラフター、リチャード・クライチェク、エフゲニー・カフェルニコフ、グスタボ・クエルテン、アレックス・コレチャ、セルジ・ブルゲラ、ミハエル・シュティッヒ、マルセロ・リオス、ティム・ヘンマン、ゴラン・イワニセビッチ、トマス・ムスター、カルロス・モヤといった選手たちを中心に回っていた。

1997年オーストラリアン・オープンのピート・サンプラス。
1990年代は速い芝生、室内カーペット、リバウンドエース、中間ペースのハードコート、遅いレッドクレーの時代だった。トップの座は、アタッカーとベースライン・プレーヤーという明確に線引きされたプレースタイルには、多くの多様性があるという事実を反映していた。しかしながら、この時代には、主として攻撃的なネットプレーをするオールコート・プレーヤーも存在した。

また1994年の初期には、ゲームの速度を遅くしようとする試みもあった。ピート・サンプラスとゴラン・イワニセビッチによるウィンブルドン決勝戦は非常に暑い日に戦われ、ラリーは全くなく、サービスは一貫して時速125〜135マイルという試合だったためだ。1995年にはウィンブルドンがゲームの速度を遅くするため、芝生の組成を変えたという報告があった事を記憶している。

オーストラリアン・オープンが1988年に導入された、やや遅めでバウンドの高いリバウンドエースでプレーされていた時期には、1990年のイワン・レンドル、1992・1993年のジム・クーリエ、1995年のアンドレ・アガシ、1998年のペトル・コルダ、1999年のエフゲニー・カフェルニコフといった優勝者を含むベースライン・プレーヤーに利があった。ピート・サンプラスは1994年と1997年の2回、この大会で優勝したが、サーブ&ボレーを実行する頻度は、ウィンブルドンに遠く及ばなかった。同じ事は、ベースラインでの打ち合いでイワン・レンドルを下し、1991年に優勝したボリス・ベッカーについても言える。ベッカーは1996年にも、マイケル・チャンを4セットで破って優勝した。

1990年代のレッド・クレーは、まさにヨーロッパと南米の選手たちの独壇場だった。ジム・クーリエは強烈なフォアハンドで1991年と1992年の2回、この大会に優勝した。そしてアンドレ・アガシは決勝戦に3回進出し、1999年にはついに優勝を遂げた。それ以外は、1990年のアンドレス・ゴメスから1998年のカルロス・モヤまで、大会はヨーロッパ人と南アメリカ人に独占された。1993・1994年のブルゲラ、1995年のムスター、1996年のカフェルニコフ(1997年はクエルテン)などが優勝者のリストを構成する。

その当時、攻撃的プレーヤーがフレンチ・オープンで優勝する事は、事実上不可能だった。サンプラス、クライチェク、ベッカー、ラフターは準決勝まで進出したが、そこまでだった。1996年にミハエル・シュティッヒは決勝戦に進出したが、カフェルニコフに敗れた。興味深いのは、当時に使用されたボールは現在と比較して、格段に重かったと報じられている点である。
1997年ウィンブルドンで、トロフィーを掲げるマルチナ・ヒンギス。

一方、ウィンブルドンにおいては正反対だった。1990年代の10年間で、決勝戦まで進出したベースライン・プレーヤーは3人だけだった。アンドレ・アガシは1992年、5セットでゴラン・イワニセビッチを破った。ジム・クーリエは1993年、サンプラスに敗れた。そしてマリバイ・ワシントンは1996年、クライチェクに敗れた。1997年、セドリック・ピオリーンは決勝戦に進出してサンプラスに敗れたが、セドリックはトッド・マーチンと同じくオールコート・プレーヤーに属し、ネットからもベースラインからも、沈着にプレーする事ができた。サンプラスは1993・1994・1995・1997・1998・1999年と、10年間に6回の優勝を遂げた。また1990年にはエドバーグ、1991年にはミハエル・シュティッヒ、1996年にはリチャード・クライチェクが優勝した。

1994年USオープンでアンドレ・アガシが優勝。
USオープンは平等で 、あらゆるタイプのプレーヤーに等しく成功のチャンスを提供するサーフェスだと見なされていた。しかしながら、最高のプレーヤーだけがUSオープンで優勝するとも言われてきた(それは現在でも当てはまる)。確かに、他の3つのメジャー大会では、他のメジャー大会には優勝した事のない優勝者が存在したが、USオープンについては当てはまらなかった。

大会はサンプラスが1990・1993・1995・1996年、エドバーグが1991・1992年、ラフターが1997・1998年に優勝し、主として攻撃的プレーヤーに独占された。アンドレ・アガシは1994年と1999年に優勝し、その傾向に抵抗した。

1990年代のメジャー決勝戦における勝利者のリストからは、攻撃的プレーヤーはウィンブルドンとUSオープンを支配し、一方ベースライン・プレーヤーはオーストラリアンとフレンチ・オープンを支配した事が、明らかに見てとれる。ベッカーとサンプラスの2人だけが、オーストラリアン・オープンでも優勝を果たした攻撃的プレーヤーだった。両者とも、高いバウンドのサーフェスで必要とされる、ベースラインからのプレーにも優れていたためである。

女子のゲームでは、1990年代は1980年代のパターンを踏襲し、フィールドを支配したのは極めて少数のプレーヤーだけだった。シュテフィ・グラフとモニカ・セレシュは10年間の前半を、1997年から1999年はヒンギスが支配した。しかしながら、1997年の終わりまでには、マリー・ピエルス、ビーナス・ウィリアムズ、リンゼイ・ダベンポート、セレナ・ウィリアムズといった、新しいタイプのパワー・プレーヤーが女子ツアーに出現していた。1997年の後には、彼女たちはマルチナ・ヒンギスの支配を困難にし、パワーと運動能力が最も重要な要素となった、2000年代の女子テニスの流れを創り上げていった。

1990年代においてカギとなった他の進化には、ラケットとストリングスの技術革新があった。この10年間の終わりまでには、多くのトップ・プレーヤーが従来と非常に異なるラケットとストリングスでプレーしていた。ラケットはずっと柔軟性が高く、ストリングスは低いテンションで張られた。1997年オーストラリアン・オープン決勝戦で、カルロス・モヤは初期のバボラ・フレームを使用していた。

際立った事に、サンプラスは鉛のテープを装着した非常に重いラケットを使用して、その傾向に抵抗していた。ついでながら、彼が使用したラケット(ウィルソン・プロスタッフ85)は、1988年にセント・ビンセントでの生産を終了していたのだ! そしてサンプラスは多数のラケットを購入し、備蓄していた。サンプラスがナチュラル・ガットを使い、しかも非常に硬く張ったそのラケットで、あれほど長期にわたってトップの座にいた事は信じがたいほどである。言うまでもなく、彼の技能レベルはずば抜けていた。
1990年フレンチ・オープンでのモニカ・セレシュ

1990年代について触れておきたい最後の1つは、この時代には非常に熟達した多くのサーバーがいたという事である。あたかもテニス史でも最高のサーブすべてが、この10年という時期に詰め込まれていたかのようだ。そのサーバーにはサンプラス、マーク・フィリポウシス、グレッグ・ルゼツキー、リチャード・クライチェク、ミハエル・シュティッヒ、ボリス・ベッカー、ゴラン・イワニセビッチ等が含まれた。トッド・マーチン、アンドレ・アガシ、ジム・クーリエといった選手たちでさえ、非常に優れたサーブを持っていた。これらのプレーヤーが持っていたのは、かなりの速度のスライスとトップスピンをあわせ持つ能力であった。

それはすべての技能を備えていた―――スライス・サーブからボレーをし、ボールを低く保つ、加えてスライス・バックハンドの戦術。しかし私がこだわるのは、速いペースでアドコートへスライス・サーブを打ち、ボールをリターナーから遠ざける技量である。これは彼らの最重要な技能の1つで、特にサンプラスが優れていた。彼はエースを含む強烈なセカンドサーブを打つ事もでき、したがって選手たちのトップに立つ事もできたのだ。それはリターンがほぼ不可能サーブであり、2000年代には衰退した技能である。


次の記事では、2000〜2009年の10年間について考察する予定である。サーフェスとプレースタイルに関して、どのようにテニスがさらに変化してきたかを論じる。


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