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2010年3月2日
アメリカのテニスには奇跡が必要かも知れない;しかしテニスには、奇跡が起こる
文:Bruce Jenkins


汚れのない芝生の上に、白い長ズボンをはいた19世紀のロンドン市民が群れるという、上流階級のしきたりに基づいたスポーツのわりには、テニスははみ出し者・変人・社会の規範に従わない者たちによって形成されてきた。その歴史は、ありそうもない事への果敢なチャレンジなくしては、4時のお茶と同じくらい旧式なものになっていただろう。アメリカ・テニスの厳しい近未来に目をやる時、私なら一定の忍耐を提案する。次の奇跡はそう遠くない筈だ。

我々はストレスのない環境で、理にかなった基本的なコーチングを楽しむが、驚くほど多くの偉大な選手たちは、ファンタジーの領域から物語を作り上げ、独自の唯一の道すじを選択した。こういった革新的な試みがなければ、彼らは存在しなかっただろう―――あるいは、せいぜい退屈な主流の一部でしかなかっただろう。奇跡、と私は呼ぶ。それはテニスの、そしてその人気の本質である。おもしろい事に、それは人間の肝要な特質に基づく傾向があるのだ。

強靭さ:パンチョ・ゴンザレス、たぶんテニス史で最も才能ある男は、青年期に南カリフォルニアじゅうで派手な注目を集めているべきだった。彼は目を見張るほどハンサムで、堂々とした大黒柱的存在で、恐らくどんなスポーツをやっても卓越していただろう。しかしこれは第二次世界大戦前のアメリカだった。安アパートに暮らすメキシコ移民の一員で、学校のいわば問題児であったゴンザレスは、こういった恩典を何も享受する事はなかった。ジュニア大会からは出入り禁止にされ、ロサンジェルスのテニスエリートからは蔑まれ、彼は独自のゲーム―――そして荒々しい性格―――を辺境で育んだ。彼が成人に達し、世界じゅうの選手たちを打ち破らんとしていた頃には、もはや誰も彼を否定する事はできなかった。

高潔:1950年代のバージニア州リッチモンドで成長する間、アーサー・アッシュにはテニスの場がなかった。彼は地域のジュニア大会に出場する事を許されなかった。そして至る所であからさまな人種差別を感じていた。アッシュは高校教育を終えるために、セントルイスへと移り住まねばならなかった。そして不正に立ち向かう意志力・献身・寛容のチャンピオンとなった。アッシュの穏やかな理性には、優美なまでの何かがあった。そしてそれこそが変革への最も手ごわい手段であると立証した。テニスの長い歴史において、およそ彼のような人物は存在しなかった。

頑固な信仰:ジミー・エバートはフロリダのテニス天国でレッスンプロを務めていた。そして長女のクリッシーがラケットから左手を離し、同世代の少年少女のようにプレーするのは、単に時間の問題だと考えていた。しかしクリッシーはいくぶんひ弱な子供で、両手バックハンドの感覚が好きだった。彼女が最初に両手バックを用いた訳ではなかったが、その打ち方を生来のものように感じていた。伝統を重んじる者たちは、彼女が冷静な大胆さで銃弾のような効率性のショットを集中させるのを目撃するまで、このどちらかと言えば硬直して見えるショットを毛嫌いしていた。だがそれ以降、テニスは過去と同じではなくなったのだ。

反抗心:ジミー・コナーズは2人の女性、母親と祖母に育てられ、教えられた。彼女たちは人生の意義を単純な信条に限定していた:我々は世間に抗する、と。もしくは、より遠慮なく言い換えれば、「断じて我流を貫く」と。ジミーは人生全般へのアプローチと同様に、テニスをプレーするのではなく、攻撃したのだ。彼は自分の流儀でジュニアサーキットを荒々しく駆け抜け、粗野にも見えるスタイルから完全無欠のマジックを生み出し、そして無視できない絶対的なオリジナルとしてツアーに登場した。シルエットを見るだけで、キャリアのどんな段階でも、彼のスタイルはすぐに見分けられた。コナーズでしかあり得なかったのだ。

勇気:クレーでゲームを学んでいるにも関わらず、サーブ&ボレーの心構えを鍛えていた時から、マルチナ・ナブラチロワには他とは違う何かがあった。彼女は巨大な障害に直面しても、それを1つ1つ打ち砕いていく運命を与えられたのだ。弱い女性なら、ストレスと卑下にくじかれて、チェコスロバキアに留まっただろう。マルチナは自国を捨てて亡命し、ふくよかな身体を鋼に変え、自身もそうである同性愛者のために戦い、才能と不屈の決意、そしてユーモアで無数の批判を和らげてきた。彼女は非凡なアスリートだったので、コーチは若い選手に彼女を見習わせようとはしなかった。目標が高すぎたのだ。

先見性:南カリフォルニアのジュニアサーキットで、ピート・サンプラスは両手バックハンドで打ちまくる、凡庸を運命づけられた多くの子供の1人にすぎなかった。そこにコーチのピート・フィッシャーが介在した。フィッシャーはテニスの歴史に通じ、オーストラリア人のテニス、とりわけケン・ローズウォールルー・ホード等々の優雅なバックハンドを崇拝していた。劇的に片手打ちへと切り替えると、サンプラスはプレースタイルだけでなく、偉大なチャンピオンたちの冷静で上品な態度をも身につけた。そして最終的に、誰よりも多くのメジャー優勝を遂げたのだった。

創意:ラファエル・ナダルは右利きである。彼は右利きとして成長し、物事を右手でこなし、そしてフォア・バックとも両手打ちだった。それはテニスを支配する方法ではない。それではジャン - マイケル・ギャンビルである。勘弁してくれ。その子供のフォアハンドを左利きの片手打ちに変更させ、右側の力を強力な両手バックハンドに振り向けたのは、ラファの叔父、トニーであった。それにクレージーなショートパンツ、一連の奇妙なげんかつぎ、練習でさえすべてのポイントを死にもの狂いでプレーする願望を加えれば、これまで見た事もないテニスのブランドを目にするのだ。

想像力:もしあなたがクリス・エバートのようなプレーをしてきた少女ならば、強打する退屈なプレーヤーになる事がほぼ運命づけられている―――言わば近年にロシアから出てきた誰かれのように。イボンヌ・グーラゴンは羊が群れるニューサウス・ウェールズの荒野で、テニスには縁のない家庭で成長した。彼女がオーストラリアで初めてコーチングを受けたのは13歳の時だった。その時まで、高揚する精神を持つ優雅で本能的なアスリートを抑制するものは何もなかった。彼女はエバートに対してしばしばベスト(メジャー大会の決勝で2回勝利)のプレーをした。そして純然たる美の力で、無数のファンをスポーツに引き込んだのだ。

ビジョン:あなたは、これらの物語を奇跡とは認めないかも知れない。ロジャー・フェデラーの完璧さがスイスの片田舎から出現した事に、あるいは2007年の終わりまで、3人のトップ10選手―――ノバク・ジョコビッチアナ・イバノビッチエレナ・ヤンコビッチ―――が戦乱に荒廃したセルビアで成長してきた事に感銘を受けないかも知れない。しかしウィリアムズ姉妹は? ゲットーから現れ、白人中心主義のスポーツで支配的存在になった事は? ビーナスセレナが生まれる前から、父親がまさにそれを思い描いていたからなのか? テニスには、慣習にとらわれない独創性と結びつく習癖がある。そしてそれは一定不変に起こるようだ。それを信じるに足るほど頻繁に。

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