ブリーチャー・レポート(観客席からのレポート)
2010年11月17日
クラシック・プレイバック:ピート・サンプラス対ボリス・ベッカー
―――1996年 ATP ワールド・ツアー・チャンピオンシップ
文:JA Allen


1990年、ATP ワールド・ツアー・チャンピオンシップはニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンから、テニスの才人ボリス・ベッカーとシュテフィ・グラフの母国、ドイツへと移動した。

ニューヨーク市は、年末の大会をフランクフルトへ移す―――ツアーのヨーロッパ人選手にもっと利便性を提供する―――というドイツのテニス支配層の願望に屈服し、開催地を明け渡したのだ。1977年から1989年まで、マジソン・スクエア・ガーデンは「マスターズ・グランプリ」の会場として知られていた。

さらに6年後、大会はフランクフルトからハノーバーへと移動し、サーフェスはカーペットだった。1996年の年末最終戦には、ピート・サンプラスはトップシード、ドイツのボリス・ベッカーは第6シードとして出場した。

チャンピオンシップの最終戦で展開するであろうドラマのレベルを疑問視する者は、誰もいなかった。もちろん、ドイツの代表団はベッカーが順調にプレーして決勝戦に進出し、観客席が満員になる事を望んでいた。

1996年のここまで、サンプラスは決勝戦に9回進出し、1回敗れていた。今大会の1カ月前に開催されたシュツットガルト大会での事で、皮肉にも相手はベッカーだった。同じく注目すべきは―――これはサンプラスが1つのメジャー大会―――1996年USオープン―――に優勝した年の事だった。

サンプラスは7年連続で年末チャンピオンシップの出場権を得て、今大会では4度目となる決勝戦に進出した。そして1991年と1994年には優勝を果たしていた。結局、1996年の結果は1994年大会の再現となり、ベッカーがラウンドロビンではサンプラスを破ったが、決勝戦ではサンプラスに敗れたのだった。

世界6位のベッカーは、1996年のオーストラリアン・オープン・チャンピオンだった。これは彼にとって8回目となる ATP 最終戦の決勝進出だった。ベッカーは1988年にマジソン・スクエア・ガーデンで、グランプリ・マスターズ優勝を遂げていた。

大会がドイツに移り、名称が ATP ワールド・チャンピオンシップと変更してから、1992年と1995年に、ベッカーはさらに2回の優勝を遂げた。

ドロー:

ホワイト・グループ:(2)マイケル・チャン、(4)ゴラン・イワニセビッチ、(5)トーマス・ムスター、(8)リチャード・クライチェク。

レッド・グループ:(1)ピート・サンプラス、(3)エフゲニー・カフェルニコフ、(6)ボリス・ベッカー、(7)アンドレ・アガシ、(補欠)トーマス・エンクイスト。

ラウンドロビン:ベッカーはラウンドロビンでサンプラスを破り、1位でレッド・グループを勝ち抜けた。サンプラスは2位で抜けた。ホワイト・グループではゴラン・イワニセビッチが1位で勝ち抜け、リチャード・クライチェクが2位で抜けた。

準決勝:サンプラスd. イワニセビッチ 6-7(6)、7-6(4)、7-5。ベッカーd. クライチェク 6-7(4)、7-6(3)、6-3。

決勝戦

それはピート・サンプラスの長く輝かしいキャリアの中でも、最も難しい、そして価値のある勝利の1つと位置付けられるかも知れない。プレーのレベル、両プレーヤーの技能、アリーナの熱狂レベルを記述するに際して、最上級の形容詞を連ねた賛辞のリストは、このクラシック・マッチを回想する真実性の限界を広げるかも知れない。

ピート・サンプラスとボリス・ベッカーは、多くの専門家が近代における―――恐らくスポーツの長い歴史のいかなる時代においても―――最高の10試合の1つと見なす試合を披露したのだった。

サンプラスは決然たるベッカーを相手に、単に激戦を勝ち抜かねばならなかっただけでなく、ベッカーの熱烈なファンで満員となったアリーナの、肝をつぶすような騒音レベルの中で、それをしなければならなかったのだ。

そしてついに、サンプラスは3-6、7-6(5)、7-6(4)、6-7(11)、6-4で、ドイツのハノーバーで開催された年末 ATP ツアー・ワールド・チャンピオンシップに優勝したのだった。サンプラスはその試合を、キャリアの中でも最もドラマチックな試合の1つとみなした。

以下に試合の展開を記述する。

大柄なドイツ人がサービスラインに立つと、群衆のざわめきは静まった。彼はネット越しに、サービスリターンの構えをするアメリカ人のボディ・ランゲージを測るように見た。

彼はサーブの弾道を心に思い浮かべた。ファーストサーブ―――エース。セカンドサーブ―――エース。ベッカーは4本のエースで第1ゲームをキープし、今日は自分の日になろうとしていると知った。彼は滅多にないほどの好調さを感じていた。つまるところ、彼はラウンドロビンでの勝利を含め、最近2回の対戦でサンプラスに勝利していたのだ。

もちろん、ひとたびエースの連射がおさまると、ベッカーにとって試合はそれほど簡単ではなくなっていった。

試合が進行するにつれて、サンプラスはより落ち着いていった。彼の集中は対戦相手と、ライン内側のボールの動きにしぼられていた。試合が進むにつれて、不屈の意志は強まっていった。頭の中では、サンプラスは決して諦めていなかったのだ。

第3ゲームまでには、サンプラスはベッカーのサーブを見定め、上手くリターンするようになった。アメリカ人は彼をブレーク寸前まで追いつめた―――が、果たし得なかった。ベッカーは逃れ、サービスをキープした。それで勇気を得たドイツ人は、第4ゲームでサンプラスをブレークし、バックハンド・ウィナーでセットを勝ち取った。

第2セットに入っても、ドイツ人は試合の主導権を握っていた。しかし、それを維持する事はできなかった。第2セットの第6ゲームでは、ベッカーは2本のブレークポイントに直面し、やがて張り詰めた試合はタイブレークへと突入していった。

サンプラスはサービスゲームをキープするごとに、決然たる態度を強めていった。タイブレークに入ると、アメリカ人は活路を見いだして、7-5で第2セットを勝ち取った。自分の調子が少しずつドイツ人を上回ってきた事に、明らかにほっとしていた。チェンジオーバーで2人の戦士がサイドラインから出ると、群衆の騒音レベルは1〜2デシベル下がった。

続いて試合が第3セットに入ると、すべてのストロークが騒音レベルを高めていった。あらゆる打球がそのポイントの重要性を増大した。第3セットのまたしても第6ゲームで危機に陥ったのは、今度はサンプラスだった。しかしアメリカ人は、2本のブレークポイントでエースを放った。

群衆はサービスブレークを期待して喚声を上げ、椅子から身を乗り出していたが、座り直して、ベッカーに次のチャンスが来るのを待った。2回目のタイブレークでは、ベッカーは0-3から巻き返しに努めたが、その後にダブルフォールトを犯して4-5ダウンとなった。サービスウィナーとバックのパッシングショットで第3セットに決着をつけ、勢いづくサンプラスは握りこぶしを振り上げた。

アメリカ人はゴールに目を向け始めた。

群衆はドイツ出身のベッカーをひたすら声援し、アリーナは揺れ動いていた。じりじりしながら、彼らの熱狂は高じていった。第4セットの5-4で、サンプラスはあと2ポイントで試合に勝利するところまで来たが、ベッカーはサービスウィナー、もう1ポイントはボレー、そしてエースでゲームをキープした。

ベッカーを応援する群衆の、大喜びの雄叫びで、競技場の壁は崩壊せんばかりだった。

続くタイブレークは、またしても心臓が止まりそうなスリラーを生み出した。一時はサンプラスが2本のマッチポイントを握った………が、プレッシャーで少しためらいが出て、どちらのポイントもロングショットで無駄にしてしまった。一方、ベッカーは4本のセットポイントを逃した。

どちらの選手も最後のもう一歩が踏み出せないかに見えたが、ベッカーの5本目のセットポイントで、サンプラスがフォアボレーを外した。第4セットのタイブレークは、ドイツ人が13-11で勝ち取ったのだった。

すべては第5セット、最終セットしだいとなった。騒音は壁あるいはコートのような、環境の一部にまでなっていた。両選手は引き金に指をかけた2人のガンマンのように、チャンスを窺い、最高のショットを出した。彼らは素晴らしい打球でラリーをし、互いを試し合った。

試合の最中、ベッカーは27回のサービスゲームをキープし続けた。しかしながら、28回目で深刻なトラブルに陥っていた。ベッカーは戦い続け、2本のブレークポイントをセーブした。しかしサンプラスは鋭いパッシングショットで、ついに3本目をものにした―――完璧なバックハンドで。

サンプラスは深く息をついた。ドイツ人が4-4でついに崩れたからだ。ベッカーは第5セット4-5ダウンとなった。サンプラスはショットを打った瞬間に、その重大性を理解していた。さらに2本のマッチポイントを逃した後、サンプラスは待ち受け、そして長いラリーの末に、ベッカーが弱いバックハンドをネットにかけたのを見た。

試合は終わった。そして逆境から立ち直ったサンプラスが勝利していた。彼は天に向かって疲れた腕を突き上げ、ついに足を引きずってコートを離れたのだった。

サンプラスとベッカーはネットへと歩み寄り、抱擁を交わしながら、自分たちが単なるテニスの決勝戦よりも、はるかに多くのものをファンに与えていた事を理解した。彼らはその年最高の試合を生み出したのだ―――恐らく1990年代でも最高の。それには彼らの技能、不屈の精神すべてが必要だった。

サンプラスはいま再び、証明したのだ。彼がまさに―――世界ナンバー1選手である事を。この試合がいかに特別なものか、彼ら双方ともが気づいていた。

4時間の試合中に、ベッカーは32本のエースを記録したが、シーズン最後のこの大会で再びチャンピオンとなるには、充分ではなかった。実際にベッカーは、サンプラスより12ポイント多く勝ち取っていたのだ―――ポイント総計はサンプラスの166に対して、ベッカーは178だった。

サンプラスはこの賞金総額330万ドル大会の決勝戦で、3日前のラウンドロビン・マッチを含む、ドイツでのベッカーに対する2連敗のリベンジを果たしたのだった。

当大会における最高水準の試合の1つとして、この試合は歴史に残るであろう。


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