ブリーチャー・レポート(外野席からのレポート)
2010年8月31日
2002年の回想:ピート・サンプラスは自己を証明する
文:Rob York


アメリカ人はタイトルマッチを愛する。たとえそのスポーツがボクシングでなくとも。

テニスは肉体の強さ、技能、戦術、そして忍耐力を1対1の対決で示す事のできるまれな経験の1つである―――顔面にパンチを食らう闘士はいないが。今年のUSオープン―――恐らく男子ドローの―――を注意深く見ていれば、試合は実際に、ボクシングと類似した描写をされるだろう。

しかし人間の意志について我々に訴えかける接近戦ではないという意味においては、すべての勝負が期待に沿う訳ではない。1人のプレーヤーが予想外に、不可能と思われる高いレベルの安定期に達する事もある。そして戦いの結果は疑いようもない。
2002年9月8日、ニューヨーク、フラッシング・メドウ・コロナパークの USTA 国立テニスセンターで開催されたUSオープンで、ピート・サンプラスはトロフィーに口づけする。

ドラマチックではないが、それでもなお息を呑むようなものだ。

ドラマとは、2002年USオープン準々決勝のピート・サンプラス - アンディ・ロディック戦で、テニスファンが見たがっていたものだった。前回大会の思い出、とりわけ準々決勝のラウンドは、今なお強く心に焼き付いていた。サンプラスとアンドレ・アガシは、彼らのキャリアで最も賞賛される試合を演じた。両者ともサービスをブレークされず、4つのタイブレークで決着がつくという、4セットにわたるスタイルの激突だった。ロディックは翌日の夜に、同じ若手のレイトン・ヒューイット―――最終的にその年のチャンピオンとなった―――と対戦し、5セットにわたる激戦の末に敗れていた。

1年後、 ロディック - サンプラスの対決は、2人のアメリカ人ビッグサーバーが生き残りを懸けて戦うという看板試合で、世代の違いも付加的なセールスポイントとなっていた。サンプラスは31歳で、グランドスラム最後の栄光を求めていた。一方20歳のロディックは、初の栄冠を手に入れて、アメリカ・テニスの未来という期待に応えたいと努めていた。

その夜の勝者にロディックを挙げていた者を、とがめる事は難しい。彼のキャリアは対戦相手のそれとは比ぶべくもなかったが、その対戦までにピストルに対して2勝0敗の成績で、さらには、ずっと好調なシーズンを送っていたのだ。

もっとも、サンプラスは17位まで順位を下げていた訳で、そういう選手は多かったのだが。実際、サンプラスの最後のメジャー・タイトル、何であれ最後のタイトルは、2年前の2000年ウィンブルドンだった。パトリック・ラフターを下して13回目のスラム優勝を遂げ、ロイ・エマーソンの記録を破ったのだった。それは喜ばしい大会だった。その後間もなくしてブリジット・ウィルソンと結婚し、さらにはテニスの歴史における確固たる地位を確立したのだ。

しかし、その歴史的な成果の後には、30歳近い年齢と10年以上にわたるプロ生活の負担が、彼にのしかかってきたように見えた。彼の抱える遺伝性のサラセミア・マイナー―――地中海性貧血症―――が結びつくと、戦績は急激に下降していった。さらには、ゲームは全体として変化していた。新しい選手たちが登場してきて、翌2年にわたり、老化するチャンピオンは屈辱を味わわされた。

マラト・サフィンは2000年USオープン決勝戦で、楽々とリターンを彼の足元に叩き込んだ。グスタボ・クエルテンはその秋のワールドツアー最終戦で、フルセットの末に彼を破った。ロジャー・フェデラーのパッシングショットは、ついに2001年ウィンブルドンで彼のネットカバーに1本だけ多すぎる穴を開けた。

成長途上にある優れた若手との対決で最大の屈辱は、2001年のUSオープン決勝戦だった。サンプラスは再びラフターを4セットで下し、アガシとの大熱戦に勝利し、さらには前年に敗北したサフィンに対してリベンジを果たしていた。その報酬は、決勝戦でのヒューイットとの対決だった。彼のリターン、スピード、パッシングショットは、サーブ&ボレー・プレーヤーにとっては、好調の日でさえ悪夢のしろものだったのだ。サンプラスだけでなく、ラフター、そして(圧倒的に)ティム・ヘンマンに対する彼の勝ち越し記録がそれを物語っている。

もしサンプラスがその日フレッシュな状態だったら、ヒューイットに対してどんなプレーをしたかは、今となっては知りようもない。しかしサフィンを下してから24時間も経っていない状況では、彼には1セットの力しか残っていなかった。その第1セットを7-6で落とすと、後はヒューイットが6-1、6-1で彼をずたずたに引き裂いたのだった。

それは1990年代に入って以降、サンプラスのキャリアにおける最悪のシーズンが到来する先触れとなった。2002年、彼はヒューストンのクレーコート大会まで決勝戦への進出がなかった。そしてそこでもロディックが彼を打ち負かした。その後は、彼はクレーコートで1勝しか挙げられず、ローラン・ギャロスではほとんど無名のアンドレア・ガウデンツィに1回戦で敗れた。彼の失望は明らかだった。ガウデンツィのキャリア賞金総額は、サンプラスの4,300万ドルに対して300万ドルにすぎなかったが、その時の彼は、握手の後に苦しむ偉人の肩をなだめるように叩いて、元気づけねばならないと感じていた。

しかしすべての中でも最低の時は、それに続くウィンブルドンだったに違いない。オール・イングランド・クラブで7回のチャンピオンは、スイスのジョージ・バストルによって葬り去られる前に、1ラウンドを勝っただけだったのだ。試合の終了後にサンプラスが椅子に座り、足元の芝生を見つめる光景が、恐らく「スポーツ・イラストレイテッド」誌のジョン・ヴェルトハイムは気にかかったのだろう。彼は大会中盤の評価の中で、サンプラスの出来をこのように要約した。「これは誰が見ても愉快ではない」

しかし多くの人間が示唆したように引退するよりも、むしろサンプラスはその最後のどん底に刺激され、解決しようと考えたのだ。彼は受話器をとってポール・アナコーンに電話をかけた。

ピストルがコーチと袂を分かったのは、2001年の事だった。前のコーチで助言者だったティム・ガリクソンの死という、彼が大人になってから最もつらい体験を経て、アナコーンは彼を導いてきた。そしてアナコーンのコーチングは、彼がエマーソンの記録更新を達成するのを手助けした。彼の優位性が低下してきた時にも。サンプラスはアナコーンと別れた後に、様々な事を試みてきた。クレーでより確実な手掛かりをつかむために、ジム・クーリエの元コーチ、ホセ・ヒゲラスを雇う事もした。しかし変化はほとんど役に立たなかった。

進化し続けるゲームの中で、ピストルが最も必要としていたのは、自分を熟知している者の存在だったのだ。

彼とアナコーンはその夏を通して共に取り組み、サンプラスはカナダとシンシナティで負け癖をストップさせた。しかしそれ以上の成果は挙がらなかった。USオープンに向けた彼の最後の試合はロングアイランドの1回戦で、ポール・アンリ - マチューに3セットで敗れた。

ニューヨークの光輝は、前年と同様に彼の元気を回復させる効果があった。最初の2試合を楽に勝ち取ったのだ。しかし3回戦では、強烈な左利きのサーブと長いリーチを持つグレッグ・ルゼツキーが、5セットにわたって彼を苦しめた。見たところサンプラスは最後のゲームまで、フォアハンド・リターンを打ちそこねていたのだ。

彼はルゼツキーを下して試合を終わらせた。しかし試合後にイギリス人の心に残っていたのは、サンプラスの意志でも不屈の気力でもなかった。それは彼の脚だった。「もし彼が次の試合に勝ったら、驚きだね」とルゼツキーは言った。彼はサンプラスを「一歩おくれている」と話を始め、「彼は以前と同じプレーヤーではない」とつけ加えた。

まさに次の試合で、サンプラスはトミー・ハースと対戦する事になっていた。ハースは第3位で、最近の3試合でピストルを破り、ルゼツキーの予言を成就できるかに見えた。しかし、サンプラスは4セットでその試合に勝利し、サービスは1回もブレークされなかった。そしてロディックとの対決に備えたのだった。

この試合は、経験対若いエネルギーに関する研究のようだった。そしてサンプラス―――レーバーやローズウォールといった偉大なオーストラリア人のスタイルを学んだ者―――が、怪物のようなヒッティングをする若い世代と、彼らの好調時にも渡り合えるかどうかの検討にも見えた。

試合の序盤、アナウンサーのテッド・ロビンソンは、サンプラスはロディックのサーブにどう対処していくのか、彼のサーブはピストルのサーブよりさらに良いかも知れないと、声高にいぶかっていた。

「まあね」と、彼の横に座るジョン・マッケンローは言った。「確かにもっと強力だ。プレースメントも良いとは思わないがね」

第2ゲーム、ロディックのサーブで、ファーストサーブをフォルトした時、2人の大きな相違が明らかになった。サンプラスはコートの中に踏み出し、時速100マイルに達するロディックのセカンドサーブを返球し、そしてネットへと詰めたのだ。若い方のアメリカ人は、必ずしもパッシングショットが得意ではなかった。そして年長の同国人をパスで抜く事ができなかった。

1990年代半ばにゲームの支配的存在であった時、サンプラスはその時代最高の純粋なボレーヤーではなかった。その称号はステファン・エドバーグ、その後はラフターのものだった。両者ともピストルより滑らかにネットへと動き、ボレーのポジションに着いた。そしてフォアハンドの武器に欠けるため、ステイバックすべきか否かという混乱に悩む事はなかった。

しかしアナコーンの下で、サンプラスは一貫してネットゲームの向上に取り組み、スピードとバックコートでの安定性が低下するにつれて、ほぼすべてのサーブの後にネットへと詰めるようになった。時には、特にサフィンとヒューイットに対しては、この戦術は効果がなかった。

しかしロディックに対しては、彼がバックコートからボールを叩きつけ、殴りつけようとも、サンプラスがグラウンドストロークのペースを吸収し、鋭い角度のついたドロップボレーに変えるのを見るしかなかった。幾何学と重力はサンプラスの側にあった。彼は試合最初の7ポイントを勝ち取り、すぐにロディックをブレークしたのだ。

同じくサンプラスのサービスのプレースメントとスピンは絶えず変化し、ロディックのペースの優位性を埋め合わせる以上の効き目があった。彼はその夜、1回もブレークされなかったのだ。第2セットまでに、 ロディックのサーブは3回もブレークされていたが、その事について、偉大なボリス・ベッカーはコートサイドでインタビューを受けていた。90年代にピストルの見事なサーブをレシーブする側にいたベッカーは、ロディックに何かアドバイスがあるかと質問された。

「スタジアムから急いで逃げ出せ」とブーン - ブーンは答えた。

このタイトルマッチはアリ - フレイザー戦ではなかった。アリ - フォアマン戦でさえなく、むしろアリ - リストン2世*戦のようだった。サンプラスは6-3、6-2、6-4で彼を一蹴した。最後のセットではサービスで6ポイントしか失わなかった。
訳注:ソニー・リストン。モハメド・アリが現れるまでは、豪打で世界ヘビー級王者となった。1964年、アリに7ラウンドKO負けでタイトルを失い、翌年にアリの持つヘビー級タイトルに挑戦したが、1ラウンドKOで敗れた。

その勝利で、ニューヨークにおける彼のナイトマッチの戦績は20勝0敗となった。

「あなた方は、ピートはダメだと言う。僕は一度もそんな事を言わなかったよ」と、 試合後にロディックはマスコミに語った。

コートサイドでは、USA ネットワークのマイケル・バーカンが、ルゼツキーの発言が発奮材料になったかとサンプラスに質問した。

「それは誰?」とサンプラスは返した。

準決勝で、サンプラスはオランダのシェーン・シャルケンと当たった。彼の「一時停止標識のような」サーブと、流れるようなグラウンドストロークを見極めるのに、偉大なアメリカ人はおよそ2セットかかった。しかしタイブレークでその2セットを勝ち取ると、第3セットではシャルケンを圧倒した。

ドローのもう一方では、グランドスラム最後の成功をサンプラスに与える事を拒否したヒューイットが、なんとこれを可能にする手助けをしていた。彼とアガシ―――トップ10でサンプラスよりさらに年長である唯一の選手―――は、エネルギーを燃やし尽くすような4セットの準決勝を戦っていたのだ。

アガシはヒューイット戦で脚が疲れきってはいた。しかしこの3年で初めて、サンプラスはより若い、そしてよりフレッシュな選手としてUSオープン決勝戦に臨む事となったのだった。

ボーナスとして、彼はもう1回アガシとの勝負を手に入れた。しかし今回は、前年のような質の高い対決とはならなかった。その代わりに、2人の老チャンピオンが互いに自分の弱さと戦うにつれて、それは違う種類のドラマとなっていった。

サンプラスのフラットなランニング・フォアハンドは、アガシから1セットと2回のブレークによるリードを奪う助けとなった。アガシの足には、まだ準決勝の影響が残っていた。それから、年齢がサンプラスを捕らえ始めた。第2セットを終える前には1回ブレークバックされ、さらに第3セットを5-7で相手に譲り渡したのだ。第4セットに入り、サンプラスがサーブとサーブの間にうなだれるようになり、ボールをゆっくりと、より慎重にバウンドさせ、そしてサーブのペースをかき集めようと努めるにつれて、貧血症の見慣れた兆候が明らかになってきた。

アガシはヒューイット戦の影響を払いのけ、今や明らかに、フィットネスでは決して評判の高くない同胞との第5セットに備えているようだった。そこで第4セットが終わりに近づくにつれて、サンプラスはリターンを強打し、その4本が同じゲームでラインを捉える事を望んでいた。そしてついに4-4で、その試みは成功した。彼はブレークを果たしたのだ。彼のキャリアがどう終わるかという物語は、ほぼ書き上げられたのだった。

40-15で彼のファーストボレーがアガシを少しまずいポジションに追いやった時、予想される唯一の合理的なショットは、鋭い角度のついたボレーウィナーだった。それは彼の14回目のメジャー優勝、そして5回目のUSオープン優勝で、最多優勝としてジミー・コナーズと(後に) フェデラーに並ぶタイトルだった。それはまた、ATP ツアーにおける彼の最後の試合となった。

彼は歴史における地位のために勝ったのではなかった。記録を打ち立てるため、あるいは富を増やすために勝利したのでもなかった。

彼が勝利したのは、彼がテニスチャンピオンであるからだった。テニスプレーヤーは生活のために試合をする。テニスチャンピオンはその彼らに勝利するのだ。

彼はまた、自己を証明するために勝利を遂げたのだ。テニスチャンピオンを決して完全に見くびるべきではない、と。

エピローグ:2003年のウィンブルドンで、ルゼツキーは怪我の後に順位を51位まで落とした状況で、彼自身とロディックとの対決で失望を味わった。ルゼツキーはストレートセットで敗れたのだ。しかしその前に、彼のキャリアで最も悪名高いメルトダウンを披露せずにはおかなかった(主審に向かって「ご立派、ご立派!」と繰り返し叫んだのだ)。

試合後の記者会見では、彼は悔い改め、ロディックの勝利を祝福した。若いアメリカ人は、同じ伸び盛りの若手、フェデラーと準決勝で対戦するチャンスが大いにあると言った。

それから、ルゼツキーは素速くつけ加えた。「だが、僕はもう予言をすべきではないね」


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